金曜日の魔法使い



 学生の時以来に訪れた夜の公園は、空がよく澄んで見えた。夜を彩る煌びやかなオフィス街の光、もとい誰かの残業の証はこの場所からは少し遠く、ここにあるのは住宅街の帰り道を照らすいくつかの街灯だけ。星が綺麗に見えるから、昔は星の公園だなんて呼んでいたんだっけ。
 そんなこと、すっかり忘れていた。通勤路から見上げる空は同じでも、それ眺めるような余裕なんてなかったから。
 変えたばかりで靴擦れを起こしたヒールを脱ぎ捨てて、じんじんと痛む素足を夜に投げ出す。その痛みは、ようやく解放された仕事から帰ろうとするわたしをこのベンチへと引き止めた。
 吐き出すように息をつく。痛むのは、足の親指だけじゃなかったようだ。疲れきった身体を撫でる誰もいない夜の空気は、やわく心に凪いで、なぜだか涙を連れてこようとする。
 意味もなく泣きそうになった。疲れていた。身体と、心はもっと。
 日々の仕事はいつもカッターナイフで薄く削るようにわたしの心をすり減らしていく。それでも今日は、今日こそは、突然大きな刃物で心臓をまっぷたつにされたような気持ちだった。ころり、と転がるわたしの心の半分が、今こうしてあてどなく夜の風にさらされている。悲しくて、悔しくて、なんでわたしだけがって、心が締め付けられるようにじくじくと痛い。
 すん、と鼻を啜ってポケットの中から携帯を取り出す。薄らと滲む画面の上で親指をすべらせて、記憶だけを頼りにネットを開いた。
 幼い頃思い描いた将来の自分は、決して夜の公園のベンチで、理不尽な上司を呪い殺すための黒魔術を調べるような不審者ではなかったはずだ。

《元気かい?》

 ぼやけた検索結果の上で、突然画面に浮かび上がった通知がひどく鮮明に映った。
 逆先夏目の四文字が、これでもかと言うほどに心をぎゅっと締め付けた。「夏目……」と呟いた声は唇の上をすべり、泡のようにこぼれて宙に消える。
 逆先夏目は学生時代に知り合った友人だ。
 出会ったその日からずっと、眩しくて宝物のような過去にはいつも彼がいた。今でも電車を待つ間だとか、家のお風呂の湯船の中だとか、ふとした瞬間に思い出す。心の中で輝きを放つ。そんな存在だった。
 好きだったのだと思う。ついぞ言葉にはできなかったけど。
 そうして十年の時が経って、大人になった今。頻繁に連絡を取っているわけでもない。むしろ最後に連絡を取り合ったのだって、一年はゆうに越えているはずだ。
 それなのに、夏目はいつもわたしが弱りきった時にこうしてふと声をかけてくる。お母さんにだって気づけないような小さな心の疲れを、夏目はいつも上手にすくい上げるのだ。偉大な魔法使いを自負する彼が、まるで本当に人の心すべてを見通しているかのように。
 元気かと聞かれて、元気と取り繕えるような気力はとうに尽きていた。その結果、わたしは今、帰宅途中に会社近くの公園で不審者紛いのことをしているわけで。それに、夏目からの連絡に上辺だけの適当な返事をしたくなかったという思いもあった。
 なんて返そうか、とキーボードの上で逡巡する親指が、少しの時間のあと、そのまま思い切ったように通話のボタンを押した。おずおずと携帯を耳に当てて、もうどうにでもなれと開き直ったようにまた天を仰ぐ。今はただ、誰かの、夏目の、声が聞きたかった。

「もしもし、名前?」

 三コール分の緊張の後、少し驚いたような夏目の声が耳をくすぐった。ああ、懐かしいな。声を聞いたのは、いつぶりだっただろう。

「……夏目。あのさ、嫌いな上司を呪い殺す魔法ってあるかな」
「おやおヤ、これは物騒ダ。あいにく呪詛の類は疎くてネ、知っていればとっくにセンパイに使っていたんだけド」
「通勤の電車の中で突然お腹が痛くなるとか、毎日絶対足の小指ぶつけるとか、初詣のおみくじ一生大凶とか、そういう小さいのでもいいんだけど」

 真意をはぐらかすようなその独特な言葉遣いはもうずっと変わっていないようだ。フフフと笑う彼の声が、転がったままのわたしの心に染み込んで、ぺたりぺたりとテープで繋ぎ合わせるように傷を塞いでいく。ひとしきり笑った後、「久しぶりだネ」と彼は、わたしが言うべきだった言葉を代わりに紡いだ。

「ウーン、微かに虫の声が聞こえるネ。もしかして、今外にいるのかナ?」
「今、星の公園で、ずっとやり方調べてる」
「そうカ。それじゃあ君がお巡りさんに捕まらないうちに迎えに行くとしよウ」
「えっ、夏目? あの、」

 そうしてぷつりと切れた二分足らずの通話時間。ブラックアウトした画面に映るわたしは、ひどく動揺したような顔をしていた。
 夏目に会う。そんなことほんの二分前まで考えてもみなかった。こんな仕事終わりの疲れきった顔で、化粧直しだってしてないのに。せめて髪の毛くらいはと手ぐしで梳かして、脱ぎ捨てたハイヒールを足で手繰り寄せた。


「やあ、久しぶり」
「ひゃ!」

 そうしてどれくらい待っただろう。突然背後から耳元で囁かれた低い声に、比喩でなく身体が跳ね上がった。正面から来てくれたらいいのに、後ろから声をかけるところが彼らしい。慌てて振り向いた先に、丁寧にビニールに守られた真っ赤な一輪の花が視界を占領する。

「手ぶらで来るのもと思って空いてる花屋に寄ったら少し遅くなってしまったヨ。まだ職務質問はされていなかったかナ?」
「な、つめ……」
「おやおや、随分弱っているようダ。まあ、何があったのかはさっきの電話で充分理解できたけどネ」

 よしよし、と長い指が頭を撫でる。質の良い薄手のコートの中、黒のハイネックにぶら下がるネックレスの光が街灯の光に反射して、きらりと眩しかった。
 そうして目の前に立つ夏目は、髪型だとか、そういう外的なものはあまり変わらない中でも、されど記憶の中の彼よりも年齢を重ねた分の余裕が感じられた。対するわたしは、彼のように、手のひらに握らせられたこの花が似合うような大人になれているのだろうか。

「さて、いつまでもここに居てはボクまで警察のお世話になるかもしれなイ。今日は金曜日だけド、君は明日はお休みかナ?」
「うん、休み。この通り元気もないし一日中寝ようかなって、」
「なら丁度よかったヨ。ボクも明日は休みだかラ、たまにはこういうのもどうかナ?」

 そう言って、夏目が手に持った厚手の紙袋を持ち上げる。その重量感と、細く縦長いその形から見るにおそらく中身はワインだろう。
 「ボク達ももう大人になったワケだしネ」とウインクをする夏目は、いつの間に、久しぶりに会う友人のためにこんな短い時間でお花とワインを揃えられるような、そんな出来た大人になってしまったんだろう。その言葉に頷くだけのわたしは、こうして公園で上手くいかない自分を慰めることで精一杯なのに。

「それじゃ、ボクの家でいいかナ? 実は結構近くなんだよネ」

 公園の入口に停められていた夏目の車に乗せられてようやく現実に頭が追いついた。ともなれば色んな考えが頭を巡りめぐる。わたしはなぜか今夏目の家に向かっていて……あれ、どうしてなんだっけ? 思えばわたしは夏目の言葉に流されるまま頷いていただけな気がする。車に疎いわたしでも知ってる有名メーカーの助手席は、こんなにも緊張するものなのだろうか。助手席から見る夏目の横顔は、こんなにもカッコよく見えるものなのだろうか。

「金曜日には魔物が住んでいるからネ」

 緊張からか、まるで借りてきた猫のように夏目に貰った花を眺めていたわたしに、彼は唐突に、まるで諭すように優しく語りかけるように言葉を紡いだ。

「何が起きるかは分からないとはいうけド、神話やキリスト教でも金曜日は悪しき曜日とされている説もあるようダ。悪いことも起こるものだヨ」
「……なんか夏目に慰められるって不思議な感じだなぁ」
「おかしいナ。ボクは昔から優しかったはずだけどネ」

 だって、青葉先輩にはあんなに言ってたのに。なんて昔のことを思い出して思わず吹き出してしまった。久しぶりの彼の隣はこんなにも変わらず心地よくて、だから嫌でも思い出してしまう。昔よく一緒にいたことも、その時にわたしが抱えていた気持ちも。
 それから十分足らずの時間の後。夏目がパーキングにギアを変えて、ピー、ピーと規則正しく響く音に、途端に彼の家に来たことを実感して気恥ずかしくなった。その後わたしの家よりも二倍くらい広い玄関に通されて、そこからリビングに向かうまでもずっと心臓がドキドキしていた。部屋に充満する夏目の匂い。昔から変わらない。ずっと、好きだった香りだ。
 大きな壺とか水晶とか、もっと怪しい道具で埋め尽くされているかと想像していた彼の家は、予想に反してとてもシンプルにまとめられていた。あけすけに感想を述べたわたしに、「そういうものはここには£uいてないからネ」と意味深に夏目が笑う。シックな色味のインテリアに整頓されたオープンキッチンは女子であるわたしから見てもとてもお洒落で、この立地でこんなに広くて綺麗で駐車場もついてるなんて家賃いくらなんだろうとか、ついくだらないことを考えてしまう自分に恥ずかしくなる。

「それじゃあ、久しぶりの再会を祝っテ」
「うん、誘ってくれてありがとう」

 チン、と重ねられたワイングラスが高く鳴る。グラスの中でやわく艷めく赤ワインは、今まで飲んだことのあるワインの中でも一番美味しかった。そのラベルの重厚さに、きっとわたしにはこんなに簡単に買えない金額なんだろうなというのはいとも容易く想像がつく。
 四人は掛けられそうなソファに並んで座って、暫く二人で飲み進めれば、久しぶりに夏目に会えた高揚感にお酒の力が相まって次第に緊張もとき解れていった。
 暫く会ってない間のお互いの小さな変化。共通の友人が結婚したこと。嫌いな上司の話。学生時代の楽しかった思い出。夏目と過ごす時間はあまりにも楽しくて、それにこうしてまた昔のように話せることが嬉しくて、靴擦れの足が痛いことだってすっかり忘れてしまっていた。
 たくさん笑って、触れ合った肩にもなんでもないような振りをして。気が付けばボトルは空になり、時計の針はこの家に来てから三週目をゆうに過ぎていた。
 お酒が回ってふらふらとした頭で、やっぱり帰りたくないなぁ、なんてぼんやりと考える。次に夏目に会えるのはいつだろう。それはまた一年後かもしれないし、もっともっと先かもしれない。そもそもまた会えるだなんて、そんな保証、どこにもない。
 ――また、会いたい。
 そんな簡単な言葉が、伝えられない。今も、昔も。

 潮時を過ぎたことを伝えるような沈黙の中。カチ、カチ、と針が時間を刻む音がやけに大きく聞こえた。そうして過ぎ行く時間に急かされるように「もうこんな時間だね」と立ち上がろうとしたわたしの腕を、不意に夏目が引いた。
 
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