レディ・ドラコニアの素敵な一日



 遠くで鐘が鳴っている。古くから、茨の谷で祝いごとの日に鳴る純金の鐘だ。それが、こだまのように断続的な余韻を街に響かせている。永い時を経て、美しいこがねいろは煤けた色に変わっているが、その音色は遠く昔から変わらない。
 よく晴れた冬の空だった。空気は極限まで澄んでいて、ひやりとしたものが肌を優しく撫でている。

 まだ幼い風貌の少女は、腕にぶら下げたバスケットから花を一輪取り出して、その花びらに囲まれた中心に鼻を近づけた。甘いとも、みずみずしいとも言える香りがすっと鼻孔に入ってくる。ブルーゲの花。茨の森の奥、湖のふもとで育つ自然の魔力を宿した純白の花は、中心部分にあわい光を灯している。
 茨の谷では、おめでたい日には子どもたちが街で花を配り歩くのが習わしだった。曇天の似合う街に、あざやかな色を塗るような、カラフルな旗が連なって飾られている。世界は灰色ではなく、色とりどりの絵の具で塗られていると主張するように。いつもと違う街並みに胸が高鳴って、少女はくすりと笑って花にキスをした。

 すべての妖精族を統べる末裔。王の血を引く茨の谷の次期王――マレウス・ドラコニア。
 今日はそんな彼が、この世界に生まれた日だ。

 学業に専念するために茨の谷を離れていたかの王がここに戻ったのは、一年とすこし前のこと。
 あまり表舞台に出ない次期当主さまのことはよく知らない。それでも茨の谷の民は、誰ひとり違わず彼を祝い、崇め、王だと奉る。たとえばこれが夕焼けの草原ならば、王の座を、その命を狙う者がひとりやふたりいてもおかしくはないだろう。しかし茨の谷では、そんなことを考えるものは誰ひとりとしていない。考えすら過ぎりもしない。絶対的な王の力。王の血筋。それがこの茨の谷だった。

 オークの木で作られたつり橋のふもと。少し離れたその場所から、にぎやかな街並みを見つめる若い女のひと――それが、彼女≠ニの出会いだった。
 彼女をひと言で表すとするならば、凛とした――あるいは、ぴかぴかのクリスタルガラスみたいに、ずっと眺めていたくなるような人。長い髪が風に揺れて、白い肌のその上に、濡れたトマトを思わせるような赤い唇がある。遠くを見つめる目に影を落とす睫毛と、なだらかなラインを描く横顔。賑やかな空気につられるようにゆるく微笑んだ表情は、大人びて、されどあどけない。

 ――人間だ。

 妖精族の生まれである少女は、それを容易に汲み取った。谷のふもとならまだしも、霧の纏う王の城に近いところに人間がいるのはあまりないことだった。街をもの珍しそうに眺めているから、もしかすると観光客だろうか。

「こんにちは」
 振り向いたその顔が、目をアーモンドのように丸くした。それも一瞬のことで、すぐに微笑み返す。「こんにちは」
「これ、どうぞ」手に持った一輪の花を差し出した。真白い花びらが、彼女の髪と一緒に揺れている。
「もらってもいいの?」
「うん、あげるね。お祝いの花なの」
「ありがとう。素敵なお花だね」伸びた手が、摘んだ小さな指先の代わりにそっと茎を包み込む。彼女は小首をかしげながら、淡い光をながめて、人さし指で花びらをとんとんとつついていた。

 ふしぎな人。
 それが、少女が彼女を見て思ったふたつめのこと。彼女からは魔力の気配が全くしないのに、それでも、何ともつかないオーラのようなものが彼女にまとわりついているのが分かる。真冬の冷気とも、沼地の毒霧とも違う。彼女の雰囲気にはあまり似つかわしくないような、何かが。

「今日は次期当主さまの誕生日なの」

 陽の光を吸い込んですこし明るい瞳が、優しくやわめられる。「そう」まるで自分のことを褒められているかのような、嬉しそうな声だった。

「旅行できたの?」問いかけに、彼女は静かに首を振った。
「一年くらい前から、ここに住んでるんだけど……でもあまり、街に出たことがなかったの。ここはすごく、綺麗なところだね」
「お家から出なかったの?」驚いたように、少女は高い声をあげた。「うん、……そんな感じかな」言葉を探すようにして、彼女は指先で花をくるりと揺らす。
「それじゃ、お家で何をしてたの?」
「ええっと……プロトコールとか、テーブルマナーとか、妖精族の言語の勉強とか――」彼女の声は、どっしりとした疲労感を携えていた。「とにかく、お勉強をちょっと」取り繕うように、言葉じりをまとめあげる。胸元の緑色のブローチが、光をきらりと反射させた。

「そうだ。あのね、知ってたら教えて欲しいんだけど……この辺りで、カードが売ってるような場所はないかな?」
「カード?」
「うん。バースデーカードとか、そういうのを探してて――」
「それならあの通りの赤い屋根のふたつ隣の店で売ってるよ。見える?」橋の格子越しに少女は街を指さす。身を乗り出した彼女の、ドレスのスカートがふわりと揺れた。つられて、少女は隣に立つ女を見上げる。

 うつくしいドレスだった。セージグリーンの色は、それだけで気品に満ち溢れていた。丸い襟元はレースで編まれていて、黒いリボンの中心部に楕円のブローチが付いている。ウエストは細いベルトで締められて、そこからふわりと広がるスカートが、風にたなびいている。
 すてきだなと頭のつむじからつま先までを眺めて、ようやく違和感の正体に気がついた。
 胸元で光るライムグリーンのブローチ。そこに、とてつもなく強い魔力が込められていた。彼女を守るためだろうか。誰がかは知らないが、よほど強い魔術士のものであることは手に取るように感じられる。触れれば指先から痺れてしまいそうな、そんな力が。
 隣で背伸びしたブーツのヒールが橋を叩いて、そこでようやく我に返った。指先の花が、彼女の輪郭で揺れている。

「素敵なお花をありがとう。それじゃあ、またね」

 風に揺れる帽子を押さえながら、彼女は手を振った。
 踵の音が、離れていく。

「待って!」反射的に口が開いていた。彼女が振り返る。「その服、すてきね」
 こちらを見た彼女は、ややおいて、ふわりと花開くように微笑んだ。

「ありがとう。――大好きな王様からもらったの」


 ◆


「マレウス!」
 夜。茨の谷、王の城にて。

 帰りを待ちわびたその姿に、彼女――現『茨の谷の次期王の婚約者』は待てを解かれた子犬のように駆け寄った。すぐに抱きとめられて、口付けが降りてくる。角度を変えて、ふたつ、みっつ。つま先立ちの足と呼吸が苦しくなる前に、引き寄せられた身体が優しく開放される。

「おかえり。今日はお疲れ様さま」
「ああ。退屈な式だが、祝われるのはそう悪くない。――お前は街に出たのか?」
「うん! 楽しかったよ。街の子どもにお花ももらったの」無邪気に指さした先で、窓辺に飾られたブルーゲの花が、部屋を照らす月明かりのように光っている。

 マレウスに会えた嬉しさからか、はにかんだ彼女の頬を、大きな手がなぞるようにして撫でる。愛おしさと優しさを、極限まで綯い交ぜにしたような手つきだった。今日、ブーツのつま先が痛くなるまで初めての街を散策していた彼女は、その上からリリアが密やかに護衛していたことにも気づいてはいないだろう。

 一方のマレウスは、自らの誕生日を祝う式典に出ていたようだ。茨の谷で最も高貴な色とされる漆黒のローブに、金の刺繍が細やかに編まれている。その眉目も装いも、高潔という文字を辞書から貼り付けて装飾したかのようだ。
 細やかな糸で紡がれたそれを脱ぎ捨てる。指先で宙を弾くと、途端にあるべき場所へと姿を消した。そうしてようやく、今日一日の堅苦しさから開放された気になった。何メートルにも続くテーブルの中心で会食を嗜むよりも、目の前のヒトの子と話す方が何倍も意義がある。何千人の臣下の祝福の言葉たちよりも、たった一人の、聞きたい声があった。

「あのね、マレウス――これ、喜んでくれるかは分からないけど」
 ひとさじの不安を貼りつけたような声色だった。細い指先が、豪華な飾りのついたキャビネットの引き出しを開く。それからラッピングされた小さな箱と可愛らしい封筒を取り出して、マレウスの前に差し出した。

「お誕生日おめでとう、マレウス。生まれてきてくれて、出会ってくれて、こんな私をお妃様にしてくれて、ありがとう」

 言葉は想定していたどの感情よりも重く、深く、鋭かった。
 マレウスはそのライムグリーンの瞳を見開いた。瞠目して、息を飲む。遠くの森に、雷が一縷落ちる音を聞いた気がした。ぴたりとも動かないマレウスの姿に、目の前の婚約者は、何か間違えたかな――と染めた頬の上に汗を伝わせる。

 一拍分の沈黙のあと、どの美術館に置かれたものよりも高価な飾り棚に、マレウスは彼女を持ち上げ乗せた。宙に上げた指先でプレゼントをぎりぎり掴んだまま、「ひゃい」としゃっくりのような声が出る。否が応でもぶらさがるつま先を、ゆっくりと戸に付けた。もし傷をつけてしまおうものならば、自分が一生掛けたって払えないような高価なものだ。何千万マドル――いや、もしくは何億マドルの――と気が気でない彼女を余所に、マレウスは毛ほども気に留める様子もない。

 彼の名前を呼ぶために開きかけた唇に、マレウスはやや性急に口付けた。手首を掴まれて、ぶるりと粟立つ。ややおいて、赤い舌が唇を割った。とろけるような口内の熱に溺れて、彼の舌に懐柔される。意識が埒外へと飛んでしまいそうだった。そうして指先からこぼれおちたプレゼントを、マレウスが上手く掴む。

 ようやく離れた唇に、水面から顔を持ち上げたときのように大きく息を吸う。突然こんなキスをするなんて、と文句のひとつでも言ってしまおうかと開きかけた口は、されど目の前の彼の表情に、ゆっくりと閉じられていく。

「……お前から――僕への、贈り物」

 ティーカップの中に、愛おしさと慈しみをポットで注ぎ続けるような、そんな瞳だった。ライムグリーンの色は、こんなにも優しいものになることを、彼女以外の誰が知っているだろうか。想像したどんな反応よりも喜んでくれるその姿に、心が擽られたようにそわそわとしていた。
 マレウスが、彼女へと顔を寄せる。まばたきの音すら聞こえてしまいそうな距離だった。

「――ありがとう。心から、愛している」

 それから、胸を揺らすような、そんな愛の言葉を。

「――私も愛してるよ。マレウス。お誕生日おめでとう。これからも、ずっと一緒にいてね」

 サイドテーブルの上のアンティークランプが、ふたたび重なり合う長い影をひそやかに映している。影は、そのまま五人はゆうに寝れそうな広いベッドに沈む。そうして灯りは静かにきえて、夜と同じ色になった。

 マレウスの腕の中で、彼女は今日一日のことを思い浮かべた。
 橋から見下ろした、祝福に賑わう街を。花をくれた幼い少女を。王を敬愛する茨の谷の民の声を。そして自分を見つめる、彼の瞳の優しさを。

 ――ああ。なんて、素敵な一日。
 目を閉じて、彼から与えられる熱に身を委ねる。月明かりの窓際で、一輪の花がそんな二人を静かに祝福していた。
 
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