揺蕩



「メロリダス彗星だ」
 監督生は、隣でハンドルを握るクルーウェルを見た。

 春の嵐──の言葉のとおり、彼の愛車のフロントガラスには際限なく雨粒が降り注いでいる。それをワイパーで弾く姿をぼんやりと眺めていた監督生に、彼がかけた言葉だ。

「メロリダス彗星」彼女が、小さく唇を動かして復唱する。
「覚えているか、仔犬。あの時、学園長が言っていた千年に一度の周期で重なる惑星だ。それが重なると、別の世界へのつなぎ目ができるとされている」

 あの時──と言われて、記憶がフラッシュバックする。
 それから、うつむいた先の、学園長室の床の木目を思い出した。
 忘れるはずがない。窓から差した陽が、学園長の背中を長く延ばしていたことも。倒れそうになった自分を、隣にいる先生が支えてくれたことも。

 思えばあれからずっと、クルーウェル先生はずっと自分を傍においてくれていた。何かあった時に、すぐに手の届くような距離で。
 支えてくれているのだと知っていた。あの日から、ずっと。

「学園長はああいう人だが──」苦虫を噛み潰したような声だった。「俺は、あの人はこの世に現存する中で最高の魔法士だと思っている。ただ無駄吠えが多いのは、どうにかならないかと思っているが」

 信号が青に変わって、クルーウェルがゆっくりとアクセルを踏む。彼が他人を褒めるのは珍しいことだと、監督生はふと思った。

「そんなあの人が、いつ学園長室を訪れても読んでいたのがメロリダス彗星に関する書物だ。学園長には知識がある。飄々としているが、あの人に作れない魔法陣はないとすら俺は思う。加えてトレイン先生は、この世にあった歴史なら凡そ頭に入っているような人だ。それでも、お前を元の世界に帰す方法は見つからなかった」

 クルーウェルは片手でブラックコーヒーを飲んで、その苦さを舌に転がした。冷めつつあるそれを、ごくりと喉に流し込む。

 そんなに探してくれていただなんて、知らなかった。いつ元の世界に戻れるかと聞いても、まるで忘れていたかのようにはぐらかされ続けていたのに。
 もしかしたら、学園長は自分に余計な感情を抱かせたくはなかったのではないかと一人ごちる。だからこそあの時、これは確定事項だとぴしゃりと言い放ってくれたのは、ある種の救いだったのかもしれない。

 フロントガラスに水が垂れ落ちて、滲んだようにぼやけた先の信号が赤になる。それはいつか、堪えきれずに涙をこぼした時に見えた景色と似ていた。

「わたしは、」頭に浮かんだ泡が、そのまま口から出てきたような声だった。
「今は……帰れなくても、寂しくありません」

 雨粒にかき消されそうな声を、それでも彼は上手に拾い上げる。
 前を見据えるクルーウェルの、整った眉毛だけがぴくりと動いた。

「だって……先生が、いてくれるから」

 それはまるで、一世一代の告白をしたかのような気持ちだった。顔がまっかに火照って、ざわつきが血管を通って全身を駆け巡る。心臓から這い上がるような不安に、シートベルトの胸の当たりをつよく握りしめた。
 くだらないと鼻を鳴らされるかもしれない。ませたことを言うなと失笑されるかもしれない。
 そんな予想に反して、クルーウェルは何も言わなかった。ただ、もう一度コーヒーを片手にとって、ひと息にすべてを飲み干した。

 しばらくの静寂のあと、車から後退音が聞こえてはっとする。うつむいているうちに、もう彼の家まで来ていたらしい。

「仔犬」クルーウェルはやおら口を開いた。反射的に、監督生はクルーウェルを見つめた。
 彼は監督生が想像したそのどちらもせずに、ただいつものように、テノールの声で言葉を紡いだ。

「家に帰ったら、話したいことがある」



 パーキングから家の中に移動するだけでも、びしょ濡れになってしまうほどの雨だった。
 彼の言った話≠フ内容が気が気でない彼女をよそ目に、彼は体が冷える、と監督生をバスルームに押し込んだ。それから胸ポケットから取り出したマジカルペンをひと振りして、二人のコートに染み付いた水滴を払う。四月の雨はまだ冷たい。

 そのあと、ワインセラーからとっておきのボトルを取り出した。これを寝かせた日は、つい口角が上がってしまったことを覚えている。
 そのとっておきを、彼が選んだのは今この時だった。革張りのソファに有り余るほど長い足を組んで、グラスに注ぐ。深い色合いのブドウの色が、ボルドーグラスの中で宝石のように艶めいている。

 時計が少しだけ傾いたころ。ドアの開く音に、クルーウェルは耳を澄ませた。

「先生」

 彼女は今でもクルーウェルのことをそう呼ぶ。他に呼び方がないのだから仕方ないし、彼自身もそれを咎めるつもりは無い。

 急いでシャワーを浴びてきたのだろう。彼女の髪の先で、拭いきれていない雫がぷくりと膨らんでいた。待ての出来ない仔犬だ──とクルーウェルは薄く口角を持ち上げる。

「毛並みが濡れている。風邪をひく前に、今すぐに髪を乾かしてこい。そうすればご褒美をやろう」主人の声に、監督生は慌てて洗面台へと駆けていく。その背中を見送って、彼はソファから身体を起こしてキッチンに立った。大きな冷蔵庫からミルクを取り出して、鍋で温める。彼女のために選んだマグカップにそれを注いで、上から蜂蜜を垂らした。

「すみません先生──ちゃんと、乾かしてきました」

 錬金術の実験で採点を待つ時のように、監督生はしずかな視線を携えてクルーウェルを見た。
 少女の成長は瞬きの間だ──とクルーウェルはひっそりと息を飲んだ。ついこの間まではまだ、転がるボールにじゃれつくような仔犬だったはずなのに。

 熱で上昇した頬が、白い肌のその内側でほんのりと赤かった。薄い唇は苺のようにまた赤い。

 彼女をローテーブルに置いたマグカップの前に座らせて、クルーウェルはワインを煽った。
 ここから先は、素面では話せそうになかった。

「仔犬──お前も知っての通りだが、もうすぐお前がいた寮の改修工事が終わる。来週の監査さえパスすれば、あとは何も問題ない」

 監督生は、ゆっくりと首を縦に降った。瞼を半分下ろして、現実を見つめた瞳がゆっくりと項垂れていく。

「学園長曰く、戻ってくるのは構わないとのことだ。むしろ寮の管理にもなって一石二鳥だろう。今後学園に通うにしても、俺の家よりは効率がいい」

 クルーウェルから言葉が紡がれる度に、胸の中でずしりと重い岩がつっかえるようだっ
た。
 手のひらで包んだマグカップの表面が、ゆらりと揺れる。

「あそこには思い入れも玩具も沢山あるだろう。お前が戻りたいと言うならば、構わない」

 空っぽになったワイングラスに、思いを馳せるようにしてクルーウェルは眺めた。
 沈黙が、ふたりを支配する。
 時計の針が、一周も二周も回った気がした。
「ただ」永遠に続くかとすら思えたそれを、先に破ったのはクルーウェルだった。長い手がワインに伸びて、グラスに注いでいく。

「もしも──お前がまだここに居たいというのなら、そうすればいい。面倒は見てやる」
 うつむいたままだった監督生の顔が持ち上がる。今にも泣きそうな顔は、あの日と同じ、あどけない少女の顔だった。

「好きな方を選べ」手のひらのワインを揺らしながら、クルーウェルは続ける。

 大人はみな、幼い監督生に選ばせてくれる。それは聞きたい話であったり、朝食のパンであったりとその内容は様々だ。それでも、彼らはいつだって彼女の意見を尊重してくれた。──そしてそれがどんな結果になろうと、決して見捨てようとはしなかった。

「わたし、まだここに居たい」迷いのない声と視線が、真っ直ぐにクルーウェルを見つめる。

「一緒にいたいんです。先生。わたし、先生が──」

 その言葉に蓋をするように、クルーウェルは監督生に口付けた。瞬きの間、跡を引くように離れて、視線があって、またすぐに重ねられる。

 初めてのキスは、すこし大人びたワインの味がした。酔いしれそうな香りに、そっと瞼を閉じる。
 誰にも言わない、秘めごとのような気持ちだった。窓の外で降りしきる雨は、ふたりを隠してくれているだろうか。

 いくつかの時間が経って、ゆっくりと熱が離れていく。監督生は顔を真っ赤にして、クルーウェルを見上げた。返すように、優しい視線がおりてくる。透き通った顔立ちは、されど監督生よりもいくつも大人びている。
 優しい手が伸びて、そっと監督生の髪を耳にかけた。その仕草に、ほとんど開きかけた口を静かに閉じる。

「ここに居る、といったな」クルーウェルは薄く唇を持ち上げた。
 監督生はこくりと頷いた。髪を行き来する彼の手に、まだ意識がとられている。

「──その言葉を、しっかり覚えておけ。仔犬。これからはもう、学園にも元の世界にも帰してはやれない」

 支配的な声だった。言葉は、有無を言わせないような、絶対的な響きを持っていた。
 髪から頬に触れた、その手のひらの中で、監督生はゆっくりと目を閉じる。「先生」

「これ以上、何も言うな──お前に与えるのは、俺の仕事だ」

 窓の外は、雨が降り続いている。その中で、重なったところから火傷するような唇の熱に溺れた。
 
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