貴重なご意見ありがとうございました 『レジの――とかいう人、あいそ悪い。前から思ってました。どんな教育してるんですか? ちゃんと注意してください』 名前の部分は黒塗りにされていたが、すぐに彼女のことだと思い当たった。 さすがに直視するのは悪い気がして、盗み見るように一番レジに目をやる。黒々としたおかっぱ頭の山葵谷さんがピッピッとリズムよく商品のバーコードを通していた。今日もムッスリしている。 いや、ムッスリと言っても実際にはマスクを着けているので口元は見えない。しかし彼女が『研修中』の札を付けていた頃から知っている私には、どうもムッスリしているようにしか見えなかった。初めは慣れないレジに緊張している風だったが、札が外れても彼女の愛想はよくならなかった。むしろ悪くなった気さえする。「いらっしゃいませ」「お待たせしました」「ありがとうございました」をはっきりと発音するのを聞いたことがなかった。いつも淡々とレジを通している。 ただ、手際の良さと商品の詰め方だけはピカイチ上手かった。 「お先に」 「――あ、はい」 前に並んでいたご婦人に軽く頭を下げられ、こちらもへこりと頭を下げる。アルカリイオン水の空ボトルをカゴから出しながら『お客様の声』の掲示板から離れる。掲示板の真横にあるアルカリイオン水のサーバーは、サ―ビスカウンターで専用のボトルを買えば何度でも無料で入れられる仕組みになっている。 ボタンを押して水が溜まる間も、掲示板に貼られた紙を読んでいる。昔から、トイレの消臭スプレーの説明書きを暇つぶしに何度も読むタイプだった。 『そうざいコーナーで買ったイカのゲソの天ぷら、固くて私たち七十代の夫婦には、かみ切れませんでした。どうにかなりませんか? 結局捨てました』 思わず吹き出してしまった。店長からの返信欄にも『イカは固いものだと認識しております』なんて書かれてある。 (暇なんだろうなぁ) ボトルのキャップを閉めてカートの下のカゴに入れる。 世相が掲示板にも表れているのか、以前にも増して、クレームとも言い難い無茶ぶりや言い掛かりをよく見るようになった。そういう投書は大抵、字が汚かったり漢字を使わなかったり、話し言葉や方言まじりで書かれていたりすることが多い気がする。 いつも同じ殴り書きのような筆跡で『もっと安くしろ』とだけ書く常連クレーマーの、模倣犯とおぼしき投書まで何枚か貼られていた。 『貴重なご意見ありがとうございました』 ーーどこが貴重なご意見なんだか。 嫌がらせ目的のクレーマーに毅然と答えられない、店長のテンプレートが情けない。掲示板の上部に貼られた笑顔の写真もそんな顔をしていた 「あ、パン買い忘れた」 思い出したのは、家に帰って家族四人分の食事の後片付けをしている時だった。時計を見ればスーパーが閉まる三十分前だった。 「ちょっと、ゲーム止めてパン買いに行って来てくれない?」 「えーやだよ」 「自転車で五分もかからないじゃない」 「そう言うならお母さんが行けばいいじゃん」 中学生の息子はリビングのソファに寝っ転びながらゲーム機から目を離さない。一番風呂から上がった高校生の娘には「すっぴんだからやだ」と先手を打たれ、夫は今風呂に入って頭を洗い始めた頃だろう。 溜息を吐いてエプロンを外す。言い争う時間がもったいない。財布と携帯をエコバッグに放り込んで、外に出た。 閉店間際のスーパーに滑り込み、一直線にパンコーナーに向かう。案の定、いつもの安い食パンは売り切れている。高級志向のパンと、それほど美味しそうには見えない総菜パンだけが、ちらほら残っているだけだった。仕事帰り風の若いサラリーマンがコロッケパンを手に取って眺めている。その横から、手あたり次第に総菜パンをカゴに放り込んでいく。安かったらなんでもいい。 レジへ向かうと一番レジしか開いていなかった。閉店の音楽が流れる中、山葵谷さんがムッスリ立っている。 この子、こんなに遅くまで働いてるんだ。そう思いながらカゴを台に置いた時、 「――は?」 割り込まれた。酒臭いじじいが半額シールの付いた寿司を山葵谷さんに押し付けている。先に並んでいたの私なんですけど! と言ってやりたかったがやめた。 昔、居酒屋で働いていたときに、面倒な酔っ払いの相手を何度もしたから知っている。奴らには理性がないから正論など通じない。運が悪かったと思って諦めるのが一番だ。こちらから絡みに行くなんて、わざわざもらい事故に遭いに行くようなものだ。 「後ろに並んでください」 誰がしゃべったんだろう? 思わず後ろを振り返り、周りをキョロキョロ見てしまった。コロッケパンを持って並ぼうとしていたサラリーマンはいたが、女性は見当たらない。 「んあ?」 「後ろ。この方が先でした」 山葵谷さんと目が合って初めて、彼女が言ったのだと気づいた。 「早くしおよ、おらぁ疲えてんだ」 呂律が回らないじじいが、ぐいぐいと寿司を押し付けている。 わざとだ。わざと山葵谷さんの胸に押し付けている。山葵谷さんは寿司を拒んで戻そうとする。 「やめて下さい」 「ほれ、ほれ、さっさとしおよ」 「――後ろに並べっつんてんだろ、このハゲ」 山葵谷さんが吐き捨てた。 「んだとォ!!」 寿司を投げ付けるが先か、じじいが怒鳴った。寿司は山葵谷さんの顔に当たって、彼女の足元に落ちた。裏返しになった寿司はパックの中でぐちゃぐちゃになっているだろう。山葵谷さんの目元が赤くなっている。至近距離で投げつけられた痕なのか、怒っているからなのか、泣きそうになっているのか――。 情けないことに私はその数秒間の出来事を、ただ見ていることしかできなかった。割り込みどころかセクハラまでするなんて許せない――そこまで思って、でも「やめなさいよ」の一言も言えなかった。 どん、と私の体にぶつかりながら前に出たのはコロッケパンマンだった。 「やめろよ」 じじいがレジ台を蹴飛ばそうとする足を、足で止めて言った。武術の心得があるらしい。彼は簡単そうにじじいの腕をひねり上げると、そのまま「店長はどこっすかね?」と山葵谷さんに聞いている。 「……もう帰ったと思います」 「え、店長なのに?」 山葵谷さんは頷いている。暴れるじじいを抑えているコロッケパンマンは困惑しながら言った。 「とりあえず警察呼びましょう」 「携帯、ロッカーです」 「じゃあ、すみません、あなたがお願いします」 コロッケリーマンが私を見ていった。 「――えっ、ああ、はい」 一、一、九、と押して、山葵谷さんに「ゼロです」と言われた。その目元が切れて薄っすら血が出ている。 「イチ、イチ、ゼロ」 「そ、そうね」 携帯電話を耳に持っていく手が震えている。ここにいる二人よりも長く生きているだろうに、なんて情けないんだろう。 事件ですか? 事故ですか? という声が聞こえた。 「あそこ、やっと新しいお店が入るんだね」 助手席にいる娘が言う。信号待ちをしながら見ると、よく通っていたスーパーの看板が撤去されているところだった。台風で穴が開いたままになっていた看板がトラックに積み込まれていく。 「店長、夜逃げしたんだったっけ?」 酔っ払いの事件があってから、三日も経たない頃だったと記憶している。店長が消えた。ずっと前から経営が厳しかったらしい。給料を何カ月も払わず、代わりに店の商品券で立て替えて誤魔化していたそうだが、とうとう店の金庫にあった売上金を全部持って逃げた――と、食い入るように読んだ新聞には書いてあった。 おかっぱ頭の山葵谷さんを思い出す。彼女はたぶん、一度もきちんとした給料をもらっていなかったんだろう。それなのに、一人で夜の店番までさせられて……それでも真面目に働き続けていたのに、突然、裏切られるように職を失って。 「あ、そこ、駐車場」 娘に言われ、慌ててウインカーを出して曲がる。「メロンパンが美味しいパン屋があるんだって」と娘に言われるがまま車を走らせてきたが、本当にメロンパンが売りらしく、店の入口の黒板にはメロンパンの絵がでかでかと描かれてある。 店の中に入り、トレーとトングを持ったところで、空になったメロンパンのトレーを見つけた娘が小さな悲鳴を上げた。 「あの――もしかして」 声を掛けられて振り向く。知らない女性がいた。綺麗などんぐり色に染めたショートヘアがよく似合っている。 ――ああ、本当は、こんなに可愛い子だったのか。 「……山葵谷さん?」 「そうです、ああ、やっぱり! あの時のお客さんですよね」 人違いだったらどうしようかと思いました、と山葵谷さんが笑う。口の間から見える白い八重歯がきれいだ。 「あの、ずっとお礼が言いたかったんです」 「お礼? お礼ならこっちが――」 「これ、これってあなたですよね?」 山葵谷さんは興奮した様子で鞄から手帳を取り出すと、そのポケットに挟んであった紙を見せてくれた。 『お客様の声 先日、閉店間際に来た時の話です。レジに並んでいたところ、酔っ払いの男性に順番を抜かされました。不愉快な気分になりましたが、レジの山葵谷さんが毅然と注意してくださいました。勇気のいる行動だったと思います。嬉しかったですが、ケガをされたようなので心配しています。 夜の時間帯に、店長不在のまま、女の子一人にレジ担当させるのは如何なものかと思います。改善を求めます。 追記 山葵谷さん、いつも手際が良いなと思っていました。商品を詰めるのも上手だと思います』 「これ、店長に捨てられてたんですけど、こっそりゴミ箱から拾って来ちゃいました」 「まぁ……そんなの貼り出せないわよね。分かってて書いたんだけど。それにこそ『貴重なご意見ありがとうございました』って返してもらいたかったわ」 「ほんとに!」 山葵谷さんがケラケラ笑う。 諦めきれずにメロンパンの在庫を聞きに行っていた娘が、肩を落として帰ってくる。 「――私、褒められたの初めてで、すごく嬉しかったんです」 「そう」 「貴重なご意見ありがとうございました」 山葵谷さんはニヤリと笑った。『お客様の声』を手帳にしまうと、私と娘に一礼して店を出て行く。カランコロンと余韻の残るドアベルを聞きながら、イチョウ並木の向こうへ歩いていく彼女を見送る。 あの時、すぐにじじいを止められなくてごめんなさい。 毎日タダ働きじゃムッスリ顔になっても仕方ないわよ。よく我慢したわね。 あなた――笑うとすごく可愛いじゃない。 掛けたい言葉はいくつかあったけれど、明るく笑う彼女を目の前にすると、もう何も言わなくても大丈夫なように思えた。 「……なるほど」 ふと端に見付けたコロッケパンのトレーを見て笑みがこぼれる。 二人分の空白が仲良く寄り添っていた。 [ ] | [ ] ≪ 一覧 |