笑う男のトルソー

 メールを送っても返信はなく、電話を掛けても繋がらない。音信不通となって三ヶ月を過ぎたころ、ようやく僕は純二のアパートを訪ねることにした。
 彼には友だちがいない。正確に言うと僕以外に友だちがいなかった。彼は人の悪口を言うような人でもなく、むしろ優しい性格だったが、全てはその繊細な感性故に、周りからいつも一歩距離を置かれ、馴染めずにいた。それは大学生になった今でも変わらない。
 そんな彼を三ヶ月も放置していた僕は薄情者かもしれない。けれど純二と音信不通になることは全く珍しいことではないのだ。僕らが知り合ってからもうずっとこんな調子で、慣れっこになってしまっている。

「返信したくないわけじゃない。返さなきゃって思うんだ。でもできない。なんでできないのか自分でも分からない。そんな自分がすごく嫌い」
「だから何度も言ってるだろ? 僕は怒ってないよ。返信なんか適当でいいじゃん。『うん』だけでもさ」

 僕は責めるつもりなんか全くなかったのに、純二は勝手に弁解をし始めた。
 いつだって彼は人の顔色を伺い、気持ちを深読みし過ぎるんじゃないかと思う。それはアレルギー症状に近い。防御反応も行き過ぎれば自分への攻撃だ。

 そんな初めて音信不通になったときの会話を思い出しながら、重い気持ちでドアノブに手を伸ばしてみると、あっけなくそれは回った。
 入るぞ、と言って部屋に入る。電気を付けると、薄暗い部屋の真ん中に彼がいた。
 体育座りをしているから死んではいないんだろうけど、コンビニの袋を頭から被っているのはどういうことなのか。

「何してんの」

 曇った袋がモザイクを掛けている。
 その向こう側には、どんな顔をした彼がいるのか……なんとなく想像できて、なるべくピントを合わせないように見るに留めた。

「何で袋なんか被ってんの?」
「……ゴミだから」
「お前が?」

 無言なのは肯定。心の底ではたぶん否定して欲しいんだろうけど、本人が肯定してしまっている時点で、もう何を言っても無駄だろう。だから僕は別のアプローチをする。

「お前、そんな小さい袋じゃミンチになったって入んねぇだろ」
「……そっか」
「それよりもくさいぞ、この部屋」

 僕は声を掛けながら、窓を開け――ようとしたら、段ボールが一面に貼られていたので、まずはそのバリケードを剥がしに掛った。ガムテープを隙間なく何重にも貼ってあるのを見て、やっぱり純二は人とは違うんだなぁと実感する。
 差し込む陽を背に振り返ってみると、埃の積もった卓袱台の上に弁当がらや空き缶が散乱していた。
 目に留まったのは、汁の入ったままのカップラーメンに浸かった絵筆だった。
 表面に浮いたハエが、風に流されて柄の周りに集まる。

(カップラーメンの汁で何を描くっていうんだ?)

 ふと側にあった逆さまの袋が気になって、摘まみ上げる。

「……何だこれ」

 鼻をつく臭気と共に現れたものは、ドブ色の粘土で作られた、笑う男のトルソーだった。
 表面を覆い尽くすカビを見て、カップラーメンに浸かった絵筆の使い道を理解した。彼は本物のカビを描いたのだった。
 トルソーの胸のあたりには穴があいている。
 そこから、どろどろに溶けた人間みたいなものが覗いている。それはおそらくゾンビだった。

「これ、なんていうタイトル?」

 また無言。
 僕よりも純二の方が、居心地が悪いに違いなかった。
 彼は芸術的な才能を持っているとは思うが、それは多くの人には理解されない種類のものだと、痛いほどに感じている。そして純二は僕が、それを受け入れられる人間だとまだ完全には信じられていない。

(またゾンビか――)

 高校の頃。生命をテーマに絵を描く授業だった。
 赤ん坊やら植物やら見るからにプラスなベクトルの絵に交じって、たった一人、ゾンビを描いてきた純二がいた。悲鳴を上げる女子がいたくらいだったから、そのリアルさは結構なものだった。

「君はテーマを間違ったのか?」

 なんとか平静を保とうとして奇妙に歪んでいた教師の顔。僕は純二が何て答えるんだろうと、心配しながら見ていた。

「ゾンビの方が生きてるって感じがするんです。ただ肉を喰らいたい一心で、生きてる人間を追いかける。それに比べて僕は、ただぼんやり息をしているだけのような気がするんです」

 しっかりとした声とは裏腹に、答える彼の手は震えていた。
 僕はその手を見た瞬間、彼が繊細で鋭い感性を表現するためには、彼を否定せずに見守れる誰かが必要だと感じた。簡単に潰れてしまいそうなのは、感性ではなく純二自身だった。

「実はこのゾンビの絵、二作目なんだ」

 仲良くなってからずいぶん経ったとき純二が言った。

「一作目は?」
「捨てられた。同じゾンビの絵を描いていたんだけど……入り込み過ぎて収拾つかなくなったところを母さんに見つかって、捨てられた。気付いたら僕は自分の腕をパレットにして、自分をゾンビにしてたんだ」

 純二は一作目を描いている途中、絵具だけでは表現しきれない部分に“自分”を使い始めてしまったそうだ。抜いた髪やら齧り切った爪やらを絵の具に混ぜ、唾液や血と一緒に塗りたくる。そうしているうちに段々キャンバスと自分の肌との見分けがつかなくなって記憶が飛んで、気付いたら泣いている母親の顔が目の前にあったそうだ。

「怖かったよ。母さんがいなかったら、僕はたぶんゾンビに喰われてた」

 彼が笑ってそう言ったことを思い出して、僕は笑う男のトルソーに既観感を覚えた。

――「ねぇ」

 僕を直視できない純二は畳に尋ねた。

「友だち、やめないでくれる?」

 過去から引き戻された僕は顔を向ける。
 笑う男のトルソーと、コンビニの袋の中で嗚咽を漏らしながら泣いている純二がいた。
 ああ僕はやっぱり間違っていた。彼がゾンビに喰われる前に、もっと早くここへ来るべきだったんだ。

「ああ。この部屋をリセットしたらな」

 僕は厭わず笑う男のトルソーを掴むと、窓の外目掛けて投げ捨てた。

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