綜合救護詰所、三階への踊り場。想像よりも上階までが遠く感じられる。懐かしくも、家のマンションで喜助に担がれた過去が鮮明に思い出された。けれど今は早朝。彼の姿はない。「ふぅ」動悸を起こしそうになる心臓を落ち着かせるように、ゆっくりと息を吐く。身体は充分に回復しているはず。いつまでも寝ていては駄目だ、それに──長居をしすぎた。
──『ゆかさん、もういなくなっちゃうの?』
昨日の昼。雛森の悲哀に満ちた目を見たときには、しまったと。そう思わずにはいられなかった。
あんな表情をさせるほど、尸魂界に長く居過ぎてしまったのだと。
──……いや、長居はこの場所じゃない。
彼女にあの顔を、動揺させてしまうことは解っていただろうに。実際に直面すると、なにも云えぬ歯痒さとあの瞬間をなかったことにしたいという後悔を覚えた。彼女の憂いなど元の物語の中だけで充分だったのに。とはいえ、親密な関係にならない選択肢などあったのかとその罪すらへも疑問を抱く。
「っ、はぁ」
上がる息を引き摺って、歩行練習を始めていた。まだ立ちくらみや動かしづらさはあるものの、壁伝いで歩けるまでに戻っている。
──あと、もう少しで、三階。
一段、また一段。壁に備え付けられた手摺りをぐっと掴み、踏みしめる。
『リハビリを兼ねて早めに足腰を動かした方が回復に良い』との言付けが勇音から喜助へ預けられていた。素直にそれに従っていたのだけれど、思いの外、リハビリとは身体にきつく。そしてその助言よりも先に現世への帰還を告げられたので、今朝から始めるしかないとの判断に至った。なのに、こうも思ってしまう。彼と一緒に現世へ戻れるならそれも悪くない、と。人間は、いや自分はどこまでも慾深い女だな、と純とは程遠い邪心を息で吐き出した。
──こんな状況でも私は、自分のことばっか……。
三階の廊下が見えるようになったところで、前方から下駄の音が鳴り響く。
「ゆかサン、朝からどこに行ってたんスか。病室にいらっしゃらないので暫く探してましたよ」
薄く笑みながら歩み寄る。さて本当に探していたのだろうか。霊圧を辿れば一発なのにと、彼の一言に懐疑するも、やっぱり口任せかもなあと胸中で首肯く。
「すみません、勝手に出てしまって。歩行の練習がてらと思ったら善は急げかなって」
「でしたら、急がば回れ、とも言いますが?」
「……そ、そうですね……」
揚げ足の取り方は天下一品だな……と妙に得心させられてしまう。
すっと自然に、左隣には歩調を合わせて喜助が寄り添った。
「辛かったら遠慮なく休みましょ。なにも焦ることはないんスから」
言って彼は気遣う。早いうちに連れて帰ると言われた手前、のんびりとはしていられなかった。
それに、先ほどから抱いている感情も諸々と含めて。
「いえ……帰らないといけませんから。まだ少し、歩けますよ」
そう口では強がったものの。はあ、と息を上げながら壁伝いに歩いては手摺りに体重をかける。
すると喜助は「手摺りで支えているようでは安心できません」と介抱するように、右肩をグッと引き寄せた。以前であれば、緊張して心臓がいくつあっても足りない、そんな状態だったけれど。体に鞭を打っているせいか不思議と心穏やかだった。彼によって心が躍らされて、底のない幸福感に深く沈んでいく。そして肩を抱かれたまま。体重を少しだけ彼に傾けると、喜助が囁いた。
「いいっスか。早々に連れて帰る、とは貴女に無理をさせてまでする事ではないっス」
何故か諭されるように告げられて口を噤む。
「わかりますか、ボクの言ってること」
低音で発されたそれに、思わず顔を向けた。
「………珍しい」
この返答に喜助は解せないと言いたげに眉根を寄せた。
「なにがっスか」
彼にもわからないことがまたあったのかと、だらしなく頬が緩んでいく。
「あ、いえ、こっちの話です」
喜助は知ってか知らずか他人との距離をその相手によって変えている。それは実際に会う前からも、会ってからもそうだった。本心を探られないように振る舞う事が非常に上手くて、掴みどころもなく、実にのらりくらりとした人で。たとえ自分の勘違いだとしても、少しでも、一瞬でも。周りの人より近い距離感で接してくれたことが何よりも嬉しかった。自身にしかわからない些細な幸せをじっくりと味わっていた。
「アナタは不思議なひとっスよ、ほんとうに」
困ったように笑って愁眉を開いた。
そのまま介抱され続けながら、二人で廊下を進む。リハビリで歩き始めただけだったのに、ぬるま湯に浸るような温かくて甘い感覚に、ふと。あの貪慾な心が顔を出して立ち止まった。
「……私。このまま現世へ向かってもいいですよ? 荷物をとって皆さんに挨拶さえできれば」
これには喜助も垂れた目を丸くさせていた。
「心残りはないんスか?」
「ないです」
考える間もない即答を、喜助はフッと鼻であしらった。
「嘘っスね。ゆかサンの考えることは手に取るようにわかるんで」
「さっきの珍しいの意味はわからなかったのに?」
ここぞとばかりに揚げ足を取ると「じゃあ先にそっちの意味を教えて下さいよ」と降参した。
「それは内緒です」
そう返せば、彼はやっぱり腑に落ちないようで再び訝しむ。
「心残りがないって言ったら、もちろん嘘になりますね……ごめんなさい。だって私、ここのみんなが大好きですし。もっとお話してご飯も行きたかったし、難しい鬼道も練習したかったですね。あ、夜一さんの先生姿も結局見てなかったです。ですから本音を言ったらまだ尽きないですよ」
喜助は申し訳なさげな眼をこちらへ向けた。
「でも、」これまでの曲折を思い返す。右肩を支える喜助の掌に触れた。
「浦原さんとの約束があったから。それだけを考えて勉強して、戦って。それも終わって、やっと逢えたんです」
十二番隊へ連れられ画面越しに再会できた時。すぐに逢いたいと願いながら、逢いたくないとも思っていた。逢ったら最後。真実を告げるのは避けられないと。でももう、そんな感情はどこかへ行ってしまった。
「もう逢えたことがこんなに嬉しいんです、私。こちらの皆さんには申し訳が立たないくらい薄情な奴ですよ」
これが意味することくらい大人なら理解できるだろう。
きっと彼はそれすらも躱していくのだろうな、そう思っていた。
「……アタシも、同じ程の気持ちを持っていますよ。貴女が感じている以上に」
一瞬の間を置いて、小首を傾げる。なんだか小難しい言い回しをしていて、理解し難いのは自分の脳みそが小さいからなのか。『同じ程の気持ち』と言いながらも『自分が感じている以上に』とは一体何がどの程度で。やはり頭脳明晰の人の言葉選びはいまいちわからない、と明確な答えを出すことは早々と諦めた。同時にこういうところを彼は上手く濁していくんだなあ、という感心もあった。けれど、逢いたいと思ってくれていたことに変わりはないだろう。そのはずだ、そう信じて喜助の返しにはにかみながら「そうですか」と嬉しさを隠しきれない声で応えた。
「なので私は、浦原さんがいるならどこへでも。飛んででも帰りたいと思ってしまって。ただ……それだけです」
暫く離れていたからだろうか、逢えてから少し経った今は自分でも驚くくらいに素直に言葉が出てくる。それに破面にやられて落ちていった時、頭に浮かんだのは全て喜助のことだった。もう死ぬんだと一度諦めた瞬間を思い返すと、言いたいことは言っておかないと後悔するのだと身を以て感じていた。まあ、きっとまた彼はこれにも笑って華麗に躱すんだろうな、と頭の中で飄々とした返事を想像する。
「では帰りましょう、すぐにでも」
予想した声とは似つかない細い音で。「え、」と零してから呆然とした。
「今度はゆかサンがいくら嫌だと駄々をこねても、アタシが連れて帰りますよ。いいっスね?」
さっきより更に鋭いような口調。こちらの承諾すら取る気がないのに、最後は確認してくれる。
隠しきれていない、その滲むような優しさに息を呑んだ。絆されて感情が可笑しなところで止まってしまったのか、返答がうまく思いつかない。コクコクと首を縦に数回振ると、右肩を抱く彼の手が強張った気がした。
通路の途中、前方から歩いてくる隊長羽織と色鮮やかな着物を重ねて纏う人物が目に入る。
「おや、浦原店長にゆかちゃん。……ひょっとしてもう帰っちゃうの? 店長さんと話してた時はもう暫くって言ってたけど。まぁどうも、その様子だと、ねぇ」
くい、と笠を上げ気味に近づく京楽。今の会話は聞かれていないはずだけれど、どうだろう。
「京楽総隊長、先日と事情が少し変わりまして。すいませんが、このまま現世へ戻ります。虎徹隊長にもお伝え願えますかね?」
「もちろんさ。こちらで匿っていたのに彼女には大怪我を負わせてしまって悪い事したねぇ」
匿っていたとの言い回しに疑念を抱きつつも、二人の様子を見ていた。
「いえ、現世にいたままでは涅隊長の装置も使用できませんでしたし。そうしたら彼女も救えませんでした。全ては総隊長に英断して頂いたお陰ってもんス」
「いやぁ、ボクは上からの命を君に伝えたまでさ。あとは君自身の決断だろう? ……ゆかちゃん、体を大事にして向こうでも元気でやるんだよ」
急に話を振られて、「あ、はい」と首肯く。なんだか寂しげに響いた。一護や織姫に向かって見送るようなそれではなく、どこか申し訳なさそうな色を含んでいたようだった。
「ついでに、夜一ちゃんにもボクの方から伝えておこうかい? 今は霊術院で会えないだろうし」
その提案に、喜助は「よろしくお願いします」と頭を下げる。京楽と喜助の会話は珍しいなあ、と久しぶりにミーハー的な精神が擽られた。
「あっありがとうございましたっ。夜一さんにはどうかご寛恕を」
声を張ってお辞儀をすると、彼は眦を垂らして「また遊びにおいで。夜一ちゃんのことは大丈夫だからねぇ」と手を振ってくれた。
そうして綜合救護詰所を後にして外へ出ると、喜助がおもむろにしゃがむ。どうしたのかと頭にはてなを浮かべた。鼻緒でも切れたのかなと見ていると、彼が振り向きざまに告ぐ。
「ここから先はおぶりますから、背中へ乗ってください。まずは宿舎と五番隊へ向かって荷物と挨拶っスよね? それであとは十三番隊の朽木サンたちに、そして行き先の途中で顔見知りの方にお別れの挨拶をしましょう。出逢った方々全員とまではいきませんが」
最後に「恐らく松本副隊長も五番隊舎にいますから、どっスか?」と確認をされるも、預言者ともとれる計画性抜群の流れは完璧で、全く異論はなかった。
「よ、よろしくお願いします……」
小さく羞らいながら喜助の広い背中へお邪魔する。その両肩に手をかけると、体温が温かかった。
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