「……あ。開いてる」
聞こえるか聞こえないかの音で鳴らされたノックの後。女性の声で静かに扉が開いた。ぼんやりと眺めていた窓硝子に映る来客に、首を向ける。
「あれ、浦原さんがいるって聞いたんだけどな?」
聞き馴染みのある、けれど久しぶりのそれに胸が躍った。「内鍵もかかってるって聞いてたんだけど」と入り口で傾げていたのは雛森だった。思わぬ見舞いにハッとして寝ぼけた頭を働かせる。意識を手放すまで懸命に処置をしてくれた恩人だ。とんだ驚喜に口許がだらしなく緩んでいった。
「もっ桃さん!」
確かめるように名を呼べば、目頭がじんと熱くなった。仕事の合間に来てくれたのだろうか。独りでいた時間が嘘のように暖色に染められていく。彼女の変わらぬ安心感には感謝の言葉だけでは足りないくらいだった。
その後ろでゆらっと動く影が見えた。雛森が「入って来なよ」と影の主に促す。遠慮がちに入って来たのは、心配そうに眉を曇らせた理吉だった。
「ゆかさん、具合はどうですか……?」
「理吉くんまで! お陰様ですっかり良くなったよ」
二人に、ありがとう、と告げれば晴れやかな表情で駆け寄った。
「なかなか来られなくてごめんね。職務が重なってお見舞いが遅くなっちゃって……そうしたら、平子隊長が今日は理吉くんと行ったらいいって言ってくれたの」
雛森が「ね? 理吉くん」と振ると「はい! 雛森副隊長にお伴させていただきました」と誇らしげに返した。その溌剌な声音はこちらも元気にしてくれる。
「そうだったんですか。理吉くんも頻繁に訪ねてるって浦原さんから聞いてたんです」
「あ、そうそう。その浦原さんがいるって隊長から聞いてたんだけど……今は留守なのかなぁ?」
「ああ、ちょうど勇音さんに呼ばれて出て行きましたよ。なにやら京楽さんも一緒みたいで」
思い返すと少しだけ落ち着かない。先ほど神妙な面持ちの喜助を見送ったあと、独り残されてからは色々と考え事をしてしまい、心ここに有らずだった。そういった時は決まって窓の外を見つめていた。すると雛森がg椅子をベッドへ持ってくる。
「じゃあ戻ってくるまであたしたちがいてもいいかな?」
ほら、と雛森が理吉に手招きして同じように椅子を寄せた。人思いな雛森の、さりげない心遣いに「もちろんですよ、桃さん」と快諾した。むしろ御礼を言いたくなる温かさ。
「平子隊長から聞いたよ。お見舞いの時に執務室に丸穴あけたこと謝ってたって。まだ目が覚めて間もなかったのに要らない心配させちゃってごめんね」
「そ、そんな。実際、壊したことは申し訳ないですし。だけどあの時は平子さんが気にするなと言って下さって、夜一さんも優しくて。頭が上がらないですよ」
「実はあたしもね、前に似たようなこと……いや似てないかな、でも壁に大穴あけたことあるから気にしないで平気だよ!」
えへへと笑って励ましてくれる雛森に、これまでとは違う強さを感じた。過去から目を逸らさない、それだけじゃない、真っ直ぐな芯が備わったもの。彼女の前向きさは薬のように浸透する。
「ええ、そうだったんですか。意外ですね」
特に掘り下げる訳でもなく。きっと大戦中の出来事なんだろうな、なんて思っているふりをした。
「それでね、乱菊さんからこれ。はい!」
今日は来られないから、と頂いたのは実にお見舞いらしい一人分の可愛らしい果物の詰め合わせだった。
「わあ!」嬉しさのあまり、両手を合わせた。「ありがとうございます、乱菊さんに御礼を伝えて下さい!」そう喜んで告げると彼女は安心したように首肯いた。
「浦原さんが戻ってきたら切ってもらってね」
喜助がしゃりしゃりと果物を切る姿を想像した。不似合いな画に思わず、ふふ、と吹き出す。
「はい、頼んでみます」
その後は、雛森と理吉が最近の十三隊での出来事、復興の話など冗談を交えながら話してくれた。ただ、あの戦闘の救出には触れなかった。敢えて別のことを話すあたりが彼女たちの気遣いなのだと察した。けれど触れない訳にはいかない。こちらからちゃんと御礼を言わないと、人として。
「……理吉くんも、当日は最後に会話したっきりで。びっくりさせちゃったよね。心配かけてごめんね、何度もお見舞いに来てくれてほんとうにありがとう」
五番隊へ着く直前まで気にかけてくれたのは理吉だった。
「いえ、そんな、竜ノ介もゆかさんのことを気にかけてたんで、オレが勝手に病室を訪ねてただけで……その」
次第に俯いていく理吉に雛森が「これでもう心配ないね」と覗き込めば、彼は顔を上げて照れたように頬を掻いた。「竜ノ介くんにもよろしくね」もう大丈夫だからと告げると、「はい! 恋次さんにも伝えます!」と僅かにはにかむ。彼らしい返事に、ほっと胸を撫で下ろした。
「それに桃さん、吊星の上で処置をしてくれてありがとうございました。お陰で回復が早くて」
とっても助かりました、と首を垂らした。
「そんなこと! あの時にできる当然のことをしたまでだし、頭を下げることじゃないよ!」
その言い方がまるで夜一のそれを柔らかくしたようで、死神という人種はみんなそういう人たちなのかなと実感した。きっと死神の意識や精神は、戦いから離れた人間とは全く別のところにあるのかもしれない。
──死神にとっては当然のことなんだろうな。ルキアが最初にしたことみたいに。
それは全ての始まりと云える命を賭した一護との絆。あの時の言動を、目前の雛森と重ねていた。
会えなかった時間を埋めるように、瀞霊廷通信の目新しいニュースを二人から聞いて、びっくりして、話に花を咲かせる。雛森の「聞いてよ、平子隊長ったらね」と暴露される平子のぐうたらな仕事風景に、平和で朗らかな笑いを誘った。
そんな話をしているうちにガチャ、と病室の扉が開かれる。
「賑やかな声ですねぇ。楽しそうでなによりっス」
廊下まで響いてますよ、と喜助が戻ってきた。
「こんにちは、浦原さん」雛森が振り向くと、理吉だけは素早く立ち上がる。
「お邪魔してます、浦原さん!」
理吉の畏まった振る舞いに喜助は若干戸惑っているようだった。
「いやいや、お邪魔してってアタシの部屋じゃないんスから。なにも立ち上がらなくても」
へらへらと両手を前に出して座るように促すと、理吉は大人しく着席した。
そしてコホンと咳払いをして、喜助は続けた。
「ここに皆サンちょうど揃っているようですし、ちょっとアタシからご報告です」
皆と言うより不在の人が多いのでは、と思ったのは他の二人も同じだろう。
「では単刀直入に。回復後の早いうちにですが、ゆかサンを現世へ連れて帰ります」
喜助の報告に室内が静まり返った。いつもの話し方なら冗談であればすぐにわかる。雛森と理吉が視線を落として黙り込んだところを見ると、おふざけではない事は明らかだった。
「こちらの都合とはいえ勝手ではありますが、虎徹隊長と京楽総隊長には先ほどお話を通させて頂きました」
きっと彼は和気藹々としたこの雰囲気に敢えて割り込み、皆の不都合を被ったのだと、察した。喜助は自ら悪役を買うような真似をする人だ。かつて不器用にも、織姫を戦力から外すことを酷しく告げたように。その姿を重ねては、その気持ちに少しでも寄り添えたら、と口を開いた。
「そうなんですか。実は私もそろそろ戻る頃かなー、なんて思っていたところだったんですよ」
沈黙を避けるように「ほら、だってもうあの虚もいなくなった事ですしね!」と明るめの声色で。現世へ戻ることに関して何とも思っていない、そう振る舞って黙りこくる二人へ視線を送った。
「……ゆかさん、もういなくなっちゃうの?」悲しげな色を浮かべる雛森に、
「そう、ですか……でもまたいつでも会えますよ!」今度は理吉が励ますように声をかけた。
「そうですよ! 普通に黒崎くんたちみたいに現世に戻るだけですから」
理吉の言葉に同意して彼女を慰めた。
対する喜助は、この会話に参加しなかった──恐らく出来なかったのだと思う。
雛森への気丈な励ましが裏腹に、胸奥をキリキリと締め付けていく。大好きな人たちに嘘を吐く苦しみを、嫌悪感を、また痛感していた。長らく忘れていたこの感覚。これは以前に黒崎家で味わった以来で。まだ死神の存在を知らぬ存ぜぬを通していたあの頃だ。だが今回の状況は真逆のこと。今は死神に対し、この身に残る異端な存在そのものを隠し通す番だった。
──でも大丈夫。心の準備はもうできてる。……だから、大丈夫。
終わりに喜助が「どうもスミマセンねぇ」と、いつものように帽子後ろへ手を回すので、
「いやいや、浦原さんが謝ることはなにもないですって」と謝罪の裏にある感情を労った。
prev back next