嵐が過ぎ去ったような閑けさ。平子と夜一が後にすると、室内は静閑に戻っていく。嵐のようなとは思ったものの、正直、彼女から多くの笑みを引き出してくれた二人には感謝の念を向けていた。あの飾り気のない表情を多々見られただけでも、と喜助はどこか満足げだった。
そんな喜色を秘めながら本人を見れば、彼女はぼんやりと窓辺から臨む景色を眺めている。その先にあるのは黄昏に染まった瀞霊廷。茜色の空は、かつて現世の屋上で見たそれに似ていて懐かしい。すると彼女は見られていないと思ったのか、小さい掌を口にあてた。
──……欠伸してるの見られてますよ、とは言わないでおきますかね。
その姿もまた、商店の縁側で眠たそうに腰掛けていた頃と同じで。変わらない彼女の性格に、図らずも頬が緩んだ。
「ゆかサン、今日は疲れたでしょう。少しお休みになってください」
「あ、でも……まだ寝るには、早いですし……」
そうは言いながらも、何度か瞬きしさせては眠気を我慢しているようだった。
「アタシはまだ傍にいますから、どうぞ気兼ねなく」
「……なら、少しだけ」
ありがとうございます、と目を擦りながらベッドを水平に戻していった。
「いえ、眠気は我慢すると体に毒っスから」
自身でも珍しく真面目に返した。無理して起きているなんて子供らしい一面に思わず喉を鳴らしそうにもなったが、今回だけは戯けないでおく。今更彼女の言動に自惚れなどはしない。だが烏滸がましくもその行動が自分のために向けられているかもと考えたら、意に反して口許が緩む。
──多幸には対価、か……。
ふと、訊ねられた問いを想い重ねた。死神と人間の、難題の答えはあれで良かったのだろうか。まあ、あれで彼女が納得したのならそれで良い。
そうして再び横になった彼女が遠慮しないよう、声をかける。
「布団を上までかけていませんでしたが、体は冷えてませんか?」
「はい、大丈夫です。窓の西陽が暖かかったので」
それに「そっスか」と返した後は、まったりとした、ぬるい空気が漂う。そして一言、二言。なんでもない会話を交わしてから、布団を肩までかけ直した。ぱち、と合う視線。ゆかは潤ませた瞳で目尻を垂らしながら柔らかく笑む。この潤みはきっと欠伸を噛み殺していたものだろうな、と想像に容易かった。
「では、おやすみなさい……浦原さん」
告げられて暫くも経たないうちに、すうすうと規則正しい寝息が。子供の言う『おやすみ三秒』とは正にこのことでは? と商店にいる雨やジン太が脳裏に浮かぶ。
──まるで幼子のように眠りますねぇ……いやぁこれも言わないでおきますか。
彼女の寝顔にそっと目を細める。こうして一時の安らぎを感じてから、起こさぬよう音を立てずに椅子から立ち上がった。『傍に居ます』と告げて早々の裏切り行為に後ろめたさを覚えながらも、そろそろ『彼』が来る頃合いだろうと、喜助は扉に手をかける。
そのままゆっくりと、顔だけを廊下に出した。視線を移せば案の定、探すまでもなく。頭に浮かんでいた人物が、目の前に。──今日も、彼は来ていた。
瀞霊廷内の終業時刻を過ぎたであろう頃。病室の外を覗くと、そこにはすっかり見慣れた光景が待っていた。病室の向かいで遠慮がちに佇んでいた死覇装姿の男は、以前から訪れており、──確か、その名を行木理吉と言った。憂いた瞳に眉を下げ、誰から見ても不安そうな面持ちをした彼の背丈は低く、どこかまだ稚い印象で。
「こんにちは、浦原さん。あの、今日もゆかさんの容態はお変わりないですか……」
訪れる度、いの一番に聞くことはやはり彼女のことだ。それは当然なのだろう。彼女が瀕死の状態に陥った日、彼はその直前まで言葉を交わしていたと言うのだから、連日詰所へ足を運ぶのも肯ける。喜助は半開きにしていた扉を後ろ手でそっと閉じ、理吉と対面した。
「お疲れさまっス、行木理吉サン。今日もご足労おかけしまして。ゆかサン、ようやく目が覚めましたよ」
そう一言。事実だけを伝えると、その顔色がぱあっと明るくなってこちらの方へ駆け寄った。
「ほ、本当ですか! ……良かったぁ、良かった、」
深い溜息を落とした彼は、彼女の弟か親族かと問いたくなるほどに表情豊かだった。
「ですが、スミマセン。今日は先に来客があったせいか、疲れて眠ってしまったようで……」
足繁く通う理吉に偽りのない謝罪を伝えると、「いえ、意識が戻ったと聞けただけで、胸がいっぱいです」と本心を包み隠さず曝け出す。
「そうですか、平子サンからも事情を伺いました。ゆかサンとはお友達だと。心配して下さったようで」
確かまだ友人関係だったはず、と確証の持てない心がどうしてか会話の邪魔をした。
「あっはい。ゆかさんとはまだ世間話程度の会話しかしてませんが。それでも、どこへ行ってもオレと友達だって言ってくれて……それにまだ番号も使ってもらってないし、」
彼は安堵しつつもどこか気遣わしげに、やり取りを思い返しているようだった。
「番号、スか? ひょっとして伝令神機の」
これに理吉は「はい、勝手に渡しちゃいましたけど」と照れたように答えた。平子からは聞いていない情報だ。正直驚きではあったが「なるほど……」と顎に手をあてて諸々の疑念は誤魔化した。
──いやいや、疑念もなにも。言葉のままでしょう。
彼女とはそれなりに信頼関係を得てきたのだから、と不必要な説得を繰り返したが、一方で数日前の会話が脳内で広がっていった。
──『死神と添い遂げることを考えた私とは大違いなんです』
これは一体誰を連想して発したのか。胸の奥底で黒いものが淀んでいくのを感じる。一瞬でも、きっと自分へ向けた言葉なのだろうと高を括ってしまった。決して自惚れなどしないはずだった。いや、これこそ自惚れと言わずになんと言うのか。
──まあ、そこまで過干渉はしないですが。……とはいえ若干は腑に落ちないんスけど。
彼女の言葉一つで何故か焦燥までも覚えてしまって、慣れない思考に些か戸惑う。全てを決めつけるには早いが、こうやって彼女に旅をさせた結果、予期せぬ憂いを感じたのは不覚の事実だった。
──『理吉くんに対してそういう類のものはありません』
きっぱりと否定したものの、本心を隠した場合もある。そもそも恋心というものはあまり他人に悟られたくはないのだろう。むしろあの性格からすると、あっさりと色事を認めることはまずない。
「浦原さんは、ゆかさんに伝令神機を持たせる気はない、ですよね……?」
考え事の頭から、素早く脳を切り替える。
「え、ああ、そっスねぇ。まぁ、死神代行の黒崎サンも伝令神機は持ってないですし」
実際人間として現世に身を置いている者で、ある例外を除いてではあるが、それを所持している者は少ない。嘘を言う必要はないのだろうが、かと言って彼女に伝令神機を持たせる気も更々ない。
「そうですか……ゆかさんも持たせてもらってないと言っていたので、またいつか機会があったらにします!」
清々しく言い切る理吉に、なんだか陰湿な虐めをしているような気にさせられる。
──えっと、これは……ボクが大人気ないんスか?
まるでこちらが目前の男と彼女の恋敵になっているような、そんな錯覚を覚えた。
「まぁ、また会いに来てやってくださいな。彼女も喜びますし」
へらりと笑い飛ばし、番号の件はさらりと流した。
「はい、ゆかさんに会いたい人は多いと思うので、また落ち着いたら予約させて下さい!」
喜助は元気溌剌とした理吉の言いっぷりに、次第に圧倒されていく。
──お見舞いって予約するもんスかねぇ、ボクが中にいるから番人って思われてんスかねぇ……。
その勢いに、いやぁ、と頭を掻きながら「またよろしくっスー」と理吉を見送る。一礼した彼は、この長廊下を戻って行った。
──参りましたねぇ、あんまり気乗りしないのは仮に親心に近しいものだとしても……。ひょっとして彼から見たボクは彼女の保護者的立場になってるとか。
暫く考え込んだ喜助は、それは存外あり得る、と乾いた笑いを落とした。
すると、遠くからぺったんぺったんと、音を鳴らして向かってくる人影が。
「よォ、喜助ェ。えらい考え込んで珍しぃなァ。こっち来る時、理吉クンとすれ違うてんけど、なんや関係おうたりしてな」
からからと、先ほどまで病室を賑やかにしていた嵐が再び接近する。
「お疲れっス、平子サン。なにか忘れ物でもしました?」
「せやねん、でっかい忘れもんしてん」
「そんなもの中にはなかったっスけどねぇ」
思い返す素ぶりをして突っ返す。喜助はこの含んだ物言いにはなにか裏があると踏み、すっと目を細めた。それと同時に平子が「……お前や、お前」とこちらを顎でしゃくった。
「もうええ加減解ってんねやろ」
「さあ、全く心当たりがありませんが」
声音を落とした喜助はとぼけたふりで躱していた。
「さっきの子とゆかちゃんと、俺とお前の話でもしようや」
口端を吊り上げる平子は愉しそうに。やはり企んだ表情をしている。どうやらこの状況は不可避らしい。喜助は気が向かない面持ちのまま、でっかい忘れものに付き合うことを承諾した。
「……あっちでお話でもなんでもしましょ」
prev back next