§


『……待って、』

 片手を伸ばし駆けていく。遠く先に立つ喜助を追って、やっとのことで辿り着いて、隣りで他愛もない会話をして。追いかけていた頃の侘しさはとっくに消え去り、カラコロと奏でる音が心地良い。彼の呼ぶ声が、柔らかくて、嬉しくて。心に沁みる。そうして何事か。場面変わって浦原商店の懐かしい和室。漂う白檀の香り。互いに向き合うと、いつの間にか冗談も言葉数も減っていった。急に近づく彼の身体に慌てるも、動じない彼は落ち着き払ったまま。そっと滑らせるように髪を撫でて、更に唇が近くまで、そして口をつけしようとして……。

 ──夢だ。

 ゆるゆると重い目蓋を上げる。ふっと現実に意識を戻した瞬間。自分がなんてはしたなく厭らしい夢を見ていたのかと、羞恥心と自己嫌悪が一気にのしかかった。

 ──うわ。私、さいてー……。

 すぐに自覚したものの、実際に望んでいる情景だった。それは否定できない。未だはっきりとしない意識の中、ふわふわとした夢見心地の気分でぼうっとしながら真白な天井を見つめる。夢に見るほどに求めた彼はきっと現世へ帰ったのだろう。そう思うと寂しくなった。名残惜しい慾求を手放すように再び目を閉じて、目蓋の裏に浮かぶあの人を心で見つめた。

『──ゆかさん……?』

 ああ、諦めきれずまだ声音が染みついている。ついには錯聴を引き起こしたのか、それはやけに現実味のある掠れた音だった。しかも彼に呼んで欲しいと望んでいた名前。現実においても聞きたくなったら聞けるようになったらしい。それはそれである意味幸せ者なのかもしれない。

「喜助さんの、声……」

 いいなあ、ちゃんと聞きたいなあ、なんて想いながら。閉じた暗闇の中に映る彼は、朗らかに笑ってなんとも緩い顔をしている。

 ──馬鹿だな、彼どころか周りには誰もいないはずなのに。この病院に精神科医はいるだろうか。この部屋には誰も居ない……はず。

 ──違う、夢じゃ……!

 ただの夢現、ここは四番隊だ。ハッと首を横へ回すと、目蓋の裏にいたはずの喜助がベッドの傍らに悠々と腰掛けていた。

「……おはよっス、ゆかサン」

 交わしたそれは日常の挨拶となんら変わらない。なんでどうしているのと抱いた猜疑心は、ばくばくとうるさい心臓に掻き消された。

「はは、何の夢を見ていたんスか? 何の、というか誰の、スかね」

 羞ずかしさ極まって両手で布団を顔まで引き上げようとする。が、右手が喜助に握られていた。

「うう浦原さん! てって手っ!」

 この慌てっぷりを余所に、喜助は「あら、なんでまた苗字で呼ぶんスか」と全く関係のない返答をする。そして彼は可笑しそうに続けた。

「眠っている間は、あんなに喜助さんって呼んでくれたのに」

 今にも蒸気をあげそうな熱。本当かどうか訊き返せず口をぽかんとさせた。

 ──わわっ、うそ、なにそれ、恥ずかし過ぎる……!

 空いている左手で布団引っ張ったが、またもやそれを阻止された。つまり、両手を喜助に握られて、自由が利かなくなっている。

「私っ、そんな失礼なことを発していたのでしょうか……!」

 あわあわと小声で謝り倒す。名前呼びが失礼だとは言っていないが、あの夢はいけない部類だ。

「そんなに失礼な夢でも見ていたんスか? たとえば、どんな?」

 喜助はへらへらと尋問する。「や、やめてくださいよ……」と降参すれば、喜助はクク、と喉を鳴らした。目覚めて早々のやり取りに、白旗をあげる思いで彼を見上げてしまう。

 会話が途切れて訪れる無音。黙り込んだ喜助は、握っていた手をさらにもう一方で重ねた。両手で包み込む彼の掌は僅かに冷えていて。彼の額にまでそれを近づけると、祈るような形で喜助は眼を閉じた。

「……良かった」

 落とされた一言が、沈黙を破った。

「なかなか目が覚めなかったんで。参りましたよ、本当に」

 喜助が眉根を寄せる。顰める姿は、見ているこっちも辛くなって。心苦しさを感じずにはいられなかった。こんなにも歪んだ表情の喜助には直面したことがない。胸奥が鷲掴みされたように痛い。

「あ、えっと、心配をかけて、ごめんなさい。き、喜助さんにまた逢えて良かったなー、なんて」

 その表情を変えなくては。戯けた語尾で誤魔化しつつ、けれど本心を滲ませてはにかむ。喜助は「貴女は狡いひとっスねぇ……」と低音を響かせたあと、あの時と同じように顔を寄せてきた。仰向けの状態では逃げ場がない。いつもの端正な、通った鼻筋が距離を縮めて、無条件に心臓が速まっていく。両手は彼に包まれたままで。真っ赤であろう頬を隠すことはもう諦めた。

 ──ちょ、ちょっとまっ……! もしかし、て。

 小さく、こつん、と音を立てて。喜助の額が自分のそれとぶつかった。眉間に伸びた長い前髪が、頬や鼻をかすめて、くすぐったい。

「熱も下がったようっスね。でも虎徹隊長を呼ぶのはもう少し後でもいいっスか?」

 予期できなかった彼の行動に、ぐっと口籠ってしまう。
 一瞬でも間違った方向に期待してしまった自分を殴り飛ばして欲しい。そもそも熱を確かめたいのなら握っている手を解けばいいのに。喜助さんの方が卑怯です、との抗議は秘めた。けれど裏腹に口許をだらしなく緩ませていた。

「……お任せしますよ。私はいつでも構いませんので」

 口ではそう答えたものの。まだ二人だけの空間を味わいたい、それが本心だった。もちろんそんなことは言えない。

 額をあてがい、熱の有無を確かめ終えた喜助は握っていた両手をようやく解いた。布団の中へと戻された手は、人肌を記憶していて寂しさを残す。同時に不埒な煩悩も冷やされると、喜助の言葉が引っかかった。彼が言うには、なかなか目が覚めなかったと。あれから目覚めるまでどれほどの時間を要したのだろう。雛森が応急処置をしてくれたのは薄っすらと憶えているが、あの時以上に昏睡していたのだろうか。

「あの、桃さんに手当てしてもらっていたのは、なんとなく覚えているんですけど。あのあとも危ない状態だったのでしょうか?」
「はい、損傷具合が激しく臓器の修復が困難だったようで。貴女は本来人間ですから……臓器復元は誤魔化しが利かないんスよ」

 ああ、そうだった。また頭から抜け落ちていた。
 自分は霊子変換器で魂魄にしてもらっているただの人間だ。あんなに肝に銘じていたのに、いつからかみんなと、死神と同じだと再び勘違いをしていた。手前勝手な慾ばかりが先行して。まただ。また、この違いの差を突きつけられる感覚に陥って、ズキンと心臓が痛んだ。

「そう、でしたか……ご迷惑をおかけして」
「もう正常だって涅サンも言ってましたよ」
「涅さんも治してくれたんですか?」

 被験体にされそうになってからマユリとは互いに犬猿なのだろうと思っていたばかりに、驚いた。

「臓器修復や蘇生をですね、技術開発局の力を借りました。もちろん、アタシも傍にいましたから大丈夫っスよ」
「そうですか、ありがとうございます」

 目を細めれば、喜助も和やかに返してくれる。

 ──心地良い、この空気が。共に過ごせるこの瞬間が。

 こうやって会話を弾ませるのはいつ振りだろう。
 まるで彼は暗やみの中の灯り。その夜燈に導かれて、いつも心踊らされてばかりだ。一方で繰り返される、影を落とす感覚。ただ一つ、仄暗い気がかりだけが腹底で燻る。人間と死神の隔たりが、いつまでもどこまでも足枷をするように引き摺っていた。自身の根底にある異世界という境遇はまた話すにしても、種別の溝については平子と会話をした後もずっと答を探せないでいた。

「あの、聞きたいことがあるんですけど……今の状況とはそれほど関係のないことなんですが」

 悄然とする憂いを隠して、喜助を見上げた。

「ハイ、なんでもどーぞ」

 冗談めかす彼は、なんて答えてくれるのだろう。

「えっと、人間と死神って、やっぱり違いますか? あ、漠然とした質問ですね……すみません」
「いえ、お答えしますが。体のつくりがって、そういった意味でもなさそうっスね。……どうしてそのような疑問を?」

 答えを聞くのが少しずつ億劫になり。逃げるように真白な天井だけを見つめた。

「……前に。少し話したんです。その時に平子さんは、人間の寿命は短すぎる、と。でもその違いはあまり気にしてないようでした。だから浦原さんは、二つの差についてどう思うのかな、なんて。何百年も生きてきて、色んなことを経験している方にとっての意見というか」

 少し間を置いて、喜助の考えを待つ。

「……なるほど、そういうことっスか。平子サンと色々お話されたんスね」

 そう得心した喜助の眼差しを横で感じる。

「確かに、アタシらからすれば人間の生は短い。でも、死神の命も人間の命も同じように儚く尊いっスよ。死んだら終わりってのは二つとも変わらないんスから。だから貴女を助け、今があるんス。人間にも死神にも十人十色、様々な人生がありますが、信念や心に差はないと思っています」

 そして彼は最後に「……黒崎サンがそうだったように」と、過去を思い返すような瞳をこちらへ向けた。その声に迷いはなく。やっぱりたくさん経験を重ねている人だな、なんて尊敬よりも畏敬を抱いた。酸いも甘いも噛み分けたような言葉。それでいて遥か遠く手の届かない存在のようで。きっと後悔も苦労も、悲しみも楽しみも、全てを経てきたのだろうと響く。

「そう、ですよね。頭ではそんな当たり前なことをわかろうとしているのに、あまりに早い時の流れが容赦なく隔たりを強めてくるんです。それでも、例えば……幸せや喜びの感じ方にも差はないと言えるでしょうか」

 もしあなたに恋心を打ち明けたら、その大きさは平等に感じるのだろうか。天井に向けていた視線を喜助に戻すと、彼の据わった双眸が僅かに揺らいだ気がした。

「……それは、行木理吉という死神に関係がありますか?」
「へ? ど、どうしてその子のことを」

 予想だにしていなかった理吉という名を喜助から聞いて、思わず声が上擦る。

「連日扉の前まで来ていますよ、……まだ会わせていないだけですが。あとその事情も平子サンに伺いました」

 事情、とは平子と雛森が目撃した五番隊での出来事なのだろう。世話好きな平子のことだ。きっと気を遣って、どうして理吉が病室まで来ているのかを説明したに違いない。

「理吉くんは、人間と死神の立場を弁えてる子ですよ。私なんかより、ずっと」
「どうして貴女よりも、と?」
「彼は最初から私と友達でいて欲しい、と。一瞬でも、死神と添い遂げることを考えた私とは大違いなんです」
「添い遂げる、とはその『彼』と……?」

 喜助は大きな勘違いをしている。今の話の流れでは仕方がない。

「はは、違いますよ。理吉くんに対してそういう類のものはありません。それは私が暇な時に考えていた戯れ言です」
「そんな、全然戯れ言なんかじゃないっスよ。たくさん悩んで苦しかったはずです」

 一度俯いた喜助は深く溜息を落としてから、再び顔を上げた。

「……きっと貴女に慕われる死神も、貴女と同じだけの幸せを、いえそれ以上の幸せを感じると思いますよ」

 朗らかなそれに、やっと気持ちが後押しされた気がした。ただ最後の言葉は本心で言っているのかな、なんて疑いたくなるほど、嬉しくて焦れったくて。
 慕われている死神は貴方なんですよ、気づいてますか。そんな冗談で返せたら全てが解決する。色んな意味で全てが終わるのに。まあ仮に喜助が想い人を勘違いしたままでも、この際大したことにはならないだろう。それについてはこれ以上なにも言わなかった。

「そうなったら、きっと両人ともに本望なんでしょう。同じ幸せをわかち合えたら、隔たりなんてなかったって笑える日がきますね」

 終わりに「こんな話、聞いてくれてありがとうございます」と意中の彼に伝えれば、だいぶ気持ちが楽になっていった。

「いえいえ、大事なお話でしょう。それに顔色が随分良くなりました。では、虎徹隊長を呼んでくるっスね」

 病室から出て行く喜助の背中を、瞬きをしながら見送る。
 これからは入院生活かな。ぼんやりと天井を眺めて、これまでの怒濤な出来事には暫く蓋をしたいと願った。もうなにも心配したくないしされたくもない、この戦いは全てを見つめ直す良い機会だったのだと、心持ちを前向きに捉えた。

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