「──瞬閧──」

 朦朧とする中、破面の名は紡がれることなく。代わりに鼓膜に響いたのは聞き覚えのある声と術名。重い目蓋を上げる。そこには朧げに揺れる真っ黒な装束が。
 否、外套を纏った人物が破面に向かって叫びながら殴りかかっている、ように視えた。

 確信が持てず、目に映る光景が信じられなかった。
 衝撃で破面の捕拿から放たれると、後方に倒れ世界が逆さまに反転していく。そのあとは重力に寄せられて、勢いよく頭から落ちていった。

 突如どこからか、「……吊星!」荒々しく叫ばれた術。それは男性のようだったが、これも一瞬の出来事で、誰のものか判断がつかない。
 ぼん、と白く柔らかな霊圧の絨毯が、身体の落下を防ぐ。頭から着地したものの、吊星の柔軟性のお陰で気づいたら仰向けに横たわっていた。ついに痛覚が変な方向へいったのか、痛みどころか損傷具合すらわからない。ああ、下半身はちゃんと繋がっているのだろうか。とても起き上がれず、けれど脚を動かそうにもぴくりともしなくて。ひょっとしたら千切れたのかも、と最悪の現状を思い浮かべた。

 ──いき、が、くるし……。

 ひゅう、ひゅう。半開きの口から出るものは呼吸音だった。口内で噴き返る血だまり。ごぼっと溢れて、鉄の味が広がり、口周りを汚す。空気を取り込もうにもそれが邪魔をする。斬り裂かれた部位は思った以上に深いようで、肺が苦しい。呼吸器官の異常性にすら気づけない自身の瀕死具合を、ぼんやりと理解した。

「っ、桃は、桃はおらんか!」

 視界に入ったのは、遠くで叫んでいる男性。暗色の外套を羽織った、聞き慣れた優しい音。
 彼が吊星を出してくれたのだろうか。

 ──ああ……よかった、みつけてくれた、

 破面の『この空間』を探し出してくれた。安らぎを抱いたまま目蓋を閉じる。この気持ちへ反発するように、裂かれた腹の血液がどくどくと流れては、次第に体温を下げていった。自身で回道を施す気力もなければ、渡された薬を取り出す力さえも残っていなかった。上がらない腕に動けと念じることすら放棄する。平子は大声で雛森を呼び続けるも、この敷地へは辿り着いていないのか未だ見当たらないようだった。

「はよう、喜助! こっちや!」

 閉じた両目蓋を再びこじ開けるには、十分過ぎる名だった。ひゅうひゅうと、音を立てる呼吸が更に荒くなっていく。

 ──……あの、ひとが……ここに……?

 その答えは、一瞬にして、現れる。

「──ゆかさん!」

 偽物じゃない。どこかで本物の彼が呼んでいる。この場所に、同じ空間にいる。その事実だけで心が満たされて。もう嬉し涙すら絞り出せない体でも、その喜びを全身で噛み締めていた。

 遠くか近くか、定かではなく。「アタシです、ゆかさん」何度も、何度も。望んでいた声で心待ちにしていた音を紡いでくれた。この世に心残りが跡形もなくなるほどに。ゆら、と同じ絨毯の上で感じる小々波のような揺れ。ああ、彼がすぐ近く、隣に。そっと冷えきった手を握られた。うまく首を回せない。その姿が視界で確認できなくとも、この大きくて、骨張った掌と温もりは間違いなく彼。最大の安息に包まれながら、ゆっくりと瞬きをする。

「……お願いします、意識を」手放さないで下さい、珍しくそう荒げた。

 それに応えたくて、もう目蓋は下ろすまいと力む。するとこちらの黒目を覗き込むように、ようやく、焦がれ続けたたあなたが。夜一、そして平子と同様、喜助もまた真っ黒な外套を纏っていた。その布一枚で霊圧こそ遮断されているものの、その所作全てが十二分に彼を感じさせてくれた。

「まだ眠ろうとしては駄目です、意識だけはどうにか保ってください」

 傍らに寄り添った喜助がお願い事をし続ける。その声音があまりに心地良くて、呼応したくて、血塗れの唇を震わせていた。
 ──き……すけ……さ、
 読んではいけない名を紡ごうとしていた。
 幸か不幸か、それは音になることはなく、ぱくぱくと唇を動かしただけだった。

「もう喋らなくていいっスから、動かないで」

 せっかく帽子を外しているのに。外套の暗がりでよく視えない。いつだって彼のことはわからないのだと、一番最初となに一つ変わらない想いが込み上げる。彼はいつまでも掴めない男で、でもそこに惹かれたのだ。満たされゆく幸福感に、ふわふわとした微睡みを感じはじめた。

「……目は閉じないで、いただけますか」

 動くなと告げられた次は、目を開けていろ、との命で。
 言われた通り、虚ろのまま開いて、ぼうっと外套姿の喜助を眺める。
 直後に彼は「胸元、失礼します」と断ってから、懐をまさぐった。

 ──そっか、夜一さんから、聞いたのか……。

 世辞にも優しいとは言えない手つきで、がさごそと、されるがまま。喜助は小瓶を出し蓋を取る。
「ご自分で飲めますか?」という問いに、ひゅ、と息が抜ける。
 情けないがはいとは首肯けない。それに、二度目っスか、とぼそり。喜助が声を落とした。

「致し方ありませんね。……見てのとおり不可抗力ですから、どうか恨まないで下さいっス」

 喜助はこちらの唇に親指を添え、ぐいっと汚れた血を拭う。そうして数粒の薬を彼の口に含んだと思ったら、それを近づけてきた。

 ──う、わ。うそ、く……くちうつし……され、

 頭では理解したものの。待って待って待って、心の中で大声を上げて叫んだ。けれど誰もその行動を止められる訳がなく。後頭部は喜助の掌に支えられ、もう片手の親指で唇を開かされた。あまりに円滑で、唐突で。こちらの常識を軽々と超越した行動に思考が追いついていかない。

 半分ほどに開いた唇に、喜助のそれが重なっていく。緊急を要しているのか、紳士的とは程遠く。荒々しく押し付けられた。口内に喜助の舌が侵入するのを感じると、堪らずぎゅっと視界を遮ってしまった。目を開けていろ、との指示はもはや従えられる状態にはなくて。

「んっ……」

 彼の舌で押し込まれた薬が喉まで届いて、こくん、呑み込めた。
 勝手に眦まで滲んでしまう。ぼうっと見上げると喜助が悪戯小僧のように目を細めた。

「……いやぁ、なかなか刺激的な光景っスねぇ……」

 この男は本当に。この状態で愉しめる神経に呆れた。それにしてもこの錠剤の効力はとても早いようで、気づけば呼吸音は正常に戻っていた。口内に溜まっていた血だまりも引いたようだった。

 ところが、次の瞬間──。喜助の真後ろめがけ飛んでくる、破面の乱れ撃ちが視えた。
「うし、ろ……」振り絞る声がやっと音に乗るも、すでに彼は後方から迫る攻撃に気づいていた。
 動じることなく、紅姫をひと振り。紅い斬撃を放ってそれを相殺した。そのまま喜助は、斬った方角を見据える。敵の応戦を夜一と平子に任せていたようだった。

「あっちもそろそろ終わるみたいっス」

 同じようにその方角を眺めると、遠くの破面は衰弱したように身を捩っていた。どうやら形勢は死神へ優勢となったようだけれど、喜助さんは戦わないのかな、なんて疑問を抱く。

「今アタシが此処を離れたら、敵サンの思うツボですから。貴女を置いてまで戦いはしませんよ」

 なにも言っていないのに全てを見透かす喜助は、エスパーかなにかなのでは。

「ですから、……まだ命を諦めないで下さい」

 微風を受けて靡くように笑む彼に降参した。いつかの懐かしさを運ぶこの言葉。初めての悪夢に魘されて苦しくて、暗闇の夢から戻れば、柔らかく諭してくれたあの日。

「まだ話なーんにも聞いてないんスから。勝手に去こうとしないで下さいよ」
「お話に、ついては……お互いさま、です」

 出るようになった声を整えながら返した。
 喜助が安堵したように口許を緩めると、おもむろに前髪へ四本の指を置いた。そしてあの旅立ち間際と同じように、ひと撫で、ふた撫で。

「本当によく頑張りました。この間のおまじないに続いて、今回はご褒美っス」

 ご褒美と言い切った喜助は、その指先で前髪をかき分けて額を露わにさせていく。再会して早々、二度目の至近距離。再び喜助の顔が、近づいて。強すぎる刺激の連続に、今度は片目を瞑った。触れると同時に胸が鳴る。前回のおまじないと違って、湿る音を残しながら唇がゆっくりと離れた。

「──ッ!」

 こんな時になにをするのかと目を丸くする。喜助は至って普通に、悪びれることもなく平然と。

「先に言っておきます。からかってはいませんよ」

 急なことすぎて、せっかく戻った声が引っ込んだ。しかも冗談でもないなんて。まるで自ら褒美をせがんだみたいじゃないか。返答に迷っていると、雛森がこの空間に入ってこれたようで、彼女の真っ黒な外套姿を遠目で確認した。

「ああ、いた! ゆかさん……! ……あッ」

 雛森はすぐさま容態を察知したのか、だらりと開いた腹部へ視線を落とした。口元を押さえている彼女を受けて、そんなに酷いのかと改めて思わされる。
 きっと喜助は敢えてそこから目を逸らし、考えさせないようにしていたのだと思った。

「早速ですが、雛森サン。傷口に回道を施していただけますか」

 彼女は「はい」とだけ返すと、すぐに応急処置を始めた。四番隊にいなくとも回道が使える雛森は、前線にいたら助かる存在だ。

 脇腹が、腹部全体が、じわりじわりと温かくなっていく。喜助が包み込むように右手を握った。大丈夫だ、と言っているような手の感触をずっと覚えていたくて、眠ることさえ惜しい。そんなことを考えてる間、ぼんやりと空を見ていた。耳に入る雛森と喜助の会話に、珍しいなあ、なんて。不相応な感想を抱いていると、雛森が首を捻らせた。

「浦原さんはどうしてこの場所が。それに、どうやって危険の察知を?」

 半目を開け、同じようにその内容を聞く。心の中では、それは喜助さんだからだよ、と理路整然としない結論を出していた。

「実はっスね。ゆかサンの霊圧が上がった時をわかるようにしていて。この場所はそれを軸に、ある仮説の下で偶然見つけたようなもんスよ」

 無事見つかって良かったっス、と喜助は謙虚な物言いで答えた。ところが驚愕した表情の彼女は、恐らく自分と同じ考えを浮かべているのだろう。

「霊圧が上がったらわかるって……まるでストーカーじゃないですか……」

 思っていたことを雛森が代弁してくれて助かる。

「やだなぁ、監視っスよ監視! 五番隊で稽古していた情報もバッチリっス」

 それは愉快げに、彼自身の技術力を誇っているようだった。

「……なんだかゆかさんが不憫に思えてきた」

 ぼそり、雛森から同情の目を向けられて。そしてあの事柄がようやく線で繋がった。

 ──ああ、だから。霊圧が上がった時だったから、

 これまで喜助がどうやって居場所を把握できたのか。
 ルキアへの電話は、斑目一角への応戦後。それに十二番隊への連絡も、涅マユリへ反抗した時だ。

 ──あれ、平子さんと帰ってた時は、

 あの夜道では霊圧を出していなかった。瞬間に理解した。ただ本当に、探していただけだったのだと。彼は宿舎に確認して、平子に連絡して、そこにたまたま自分がいて。確かに珍しくも『驚いた』と言っていた。全くなんて過保護な、そう思えば、続けて雛森が喜助に問う。

「その霊圧感知の機械ってゆかさんが持ってるんですよね?」

 雛森は、そんなもの持ってたかな、と小首を傾げた。

「持ってますよ、随分と大事にしているものらしくて」

 喜助の返事に、ふうん、と聞いた雛森は「あとでゆかさんに聞いてみよ」と、手を止めずに治療を続けた。一連の会話を聞いて、図らずも頬が綻んだ。

「……あら。ゆかサン、この会話聞いてるっスね?」

 薄目のまま、ふふ、と微笑めば、雛森が「起きてたの?」と訊ねた。それに小さく首肯くと、彼女は「寝てていいよ」と優しい眠りへと運んでくれる。

 ──でも寝たら、喜助さんに逢えなくなっちゃいそうで。

 そう思ったのはもちろん口には出せない。ずっと握ってくれている手を、あなたの体温を憶えていたくて。いま意識を飛ばしてしまったら、きっとそれすらも感じられない。それが伝わってしまったのか、喜助が髪をさすると、「しばらく休みましょ」と安らぎを促した。

 ──……ああ。やっぱり、好きだ。

 この想いのまま眠るのはどんなに幸せだろうと、まったりとした甘い微睡みに身を委ねた。

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