急げ急げ、と駆け足で四番区域へ向かう。
つい先日から薬学に回道を学び始め、すべきことが山のように押し寄せては積もっていく。休み返上で頑張ると決めた以上、移動中も体力づくりを兼ねて常に足を走らせていた。時間短縮にいつかは瞬歩も会得したいところだが、流石になかなか難しい。だが、今こそ。これまで培ってきた社会人としての社畜精神を存分に発揮するべきなのでは、と連日の過密スケジュールにも負けじ魂が。
──えーっと、稽古が終わってこれから四番隊で。その後は夜一さんのところだ。
途中の曲がり角で人と鉢合わせして、「おおっと」と前のめりになった。
「なんだ。君かネ、浦原喜助の被験体と言うのは」
やる気を胸に移動を始めた矢先、不運にも遭遇した奇異な身なりの男。
白塗りの、中央は黒塗りという面に不思議な被り物。なんとも異相な出で立ちは。
──く……涅マユリ、こんな忙しい時に。
これから清音との勉強会を控えているため出来ることなら彼を避けて通りたい。
とにかくスケジュールがびっしりで焦りに焦った。対面から近づくこの化け物に等しい男は、興味津々といった様子。冗談でしょ……、と悲愴感を覚えずにはいられなかった。
「どうだネ、これから私の研究室へ向かわないかネ」
無言を貫く間に「私は、十二番隊長兼技術開発局長を務めているものだが」と名乗り出た。
──マユリってあんまり研究室から出ないんじゃないんですか……。
提案に当惑していた。とりあえずなにか返答せねば、友好的に。
「は、初めまして。神野と申します」
無難に自己紹介をしてみたものの、涅マユリは無表情で答えた。
「……そんな事は知っているヨ。君の情報は君自身よりも得ている。私は研究室へ向かうかどうかの話をしているんだが」
この口調に騙されてはいけない。
──私より、私の情報を得ているってどういうことよ。
先約がある今は五番区域から四番隊へ向かうのが最優先だ。気になる点は残っていたが、断りを入れるしかない。
「申し訳ありません。生憎、四番図書館にて先約がありまして。後ほどご都合宜しい時がありましたら改めて伺いますが」
怯まないぞと意気込みを入れて、僅かにぴりりとした空気を含めた。よしこれで今日は逃げられる。一息ついた途端、マユリが一歩近づいた。
「ほう、そうかネ。では面倒ではあるが、四番隊隊長にでも伝えて此方を優先してもらうとするヨ。私は君に関心がある」
そう言い放った彼は、がさごそと懐から伝令神機を取り出す。
──なっ、なんて自己中心的な……! 私に聞いてきた意味とは一体……!
この有無を言わせない提案、というより強要に、困惑を通り越して憤りを覚えた。
終いには早速、虎徹隊長に一報を入れているようだった。
「───という事だ、虎徹勇音。回道の会得など後回しでも良いだろう? 回復術など、私の研究室で事足りるのだヨ」
マユリが我が儘を伝え終えると、相手の反応を聞き流しているのか、ぎょろりと眼球を上へ向ける。ああ、これは完全に話し相手を見下している時の表情だ……。決定された悲しい現実を悟った。
──勇音さーん! 頑張って下さいよー!
内心でそう叫ぶも、目前の調子づいた男を見て、声援が届かなかったことを確信した。
「さて。四番隊への許可を得たところで、向かうヨ」
もう会話は諦めた。初日に受けた京楽の忠告も、結局のところ警戒など無意味だったのだ。出会ってしまった以上、なにをどう気をつけろというのか。
助けを求めたところで、もう誰も来ないのだろう。
こちらのことなどお構いなしのマユリは、迷うことなく颯爽と歩いて行く。その後を重い足取りで、とぼとぼとついて行った。ふと。普段は他所へ出ないマユリが何故いたのか気になった。
「あ、あの、今日はどうして五番区域にいらっしゃったのでしょうか」
「そんな事が疑問なのかネ。全く凡人の考える事はわからんヨ」
全てに一言多いマユリは、そう小言を零しながらも経緯を話し始めた。
「今日は隊首会が執り行われただけだヨ。仕方なく時間を割いて一番隊まで足を運び、その帰りに不出来な霊圧を感じ、幸運にも君に遭遇したまで」
返答に、なるほど、と相槌を打った。確かにそういう理由じゃない限り、部屋に篭っているだろうと。しかし彼の『不出来な霊圧を感じ』という理由。あたかも偶然を装って遭遇したように思えたが、それには気づかぬふりをした。……にしても、不出来な、とは大分失礼ではなかろうか。仮にでも、多少の鬼道の術は難なくこなせるというのに。
「しょうがなく遠出して良かったヨ。思わぬ収穫で被験体が手に入ったのだからネ」
マユリは上機嫌で振り返った。即座に表情筋が強張っていく。どうしよう本当に誰か助けて。頷くことも愛想良くすることもできず、恐怖に慄いて。ただ大人しくついて行くしかなかった。
──阿近さん、がいるはず。あと鵯州さんとか……えっと他にも隊士さんが……。
幸い、十二番隊の知識は他隊より豊富な方だと自負している。それは喜助と関係深い隊だから、というのは改めて考えなくても自分にとっては当たり前のことだった。隊長時代の喜助を知る隊士。彼らに近づけるのは光栄なことだったが、マユリの好奇心で技局へ向かうのはやはり気が重い。
──……きっと、大丈夫……。
両手を強く握り締め、涅マユリはそんなに悪人じゃないよ、と言い聞かせた。
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