彼は煩わしそうにそれを手に取るや否や、その画面を見てニヤリと口端を上げた。音の鳴る伝令神機に目を落としては、歯列を覗かせて。しかし一向に出ようとはせず、聴かせるようにその着信音を響かせていた。もしや遠慮しているのかと、すかさず「あの、出て下さっていいですよ」と気遣う。
「そうなん、電話アイツからやけど、ゆかちゃんなんとも思てへんらしいから出させてもらうで」
平子はここぞとばかりに大口を開けて、舌ピアスをちらつかせた。
「えっ、うそ。ちょ、と待っ」
全てを言い終わる前に、平子が鳴り止まない電話へ応対する。
「もーしもーし。夜分遅くに長いこと鳴らされて、やかましいんやけどー」
至って普通に話し始めた。
なんて言われているのかは知らないが、「うっさいわボケ」と毒を吐いて、眉根を寄せた。
「ほんで、なんや? お前から連絡なんて珍しいやんけ」
ひょっとしたら急用かと勘ぐっているのか、真剣な面持ちへと変わる。
「……それはそれは。えらいこっちゃ」
平子の低音を受け、ただ事ではないと感じた。
現世でなにか良くないことでもあったのだろうかと、次第に鼓動が速くなる。
──どうしたんだろう、なにかあったのかな。
雲行きの怪しい会話にごくりと唾を呑む。
すっかり隊長の顔をしている平子を独りにさせた方が良いのでは、とも思案を巡らせた。
「へぇ、えらいお転婆なんやなァ。あの子は」
なんだか面白可笑しそうに、不敵そうに笑む。
「夜一に聞いても知らんと。そんでまだ宿舎におらへんから、俺に連絡してきたんか」
平子が事の経緯をわざとらしく言い放って、こちらを見下ろた。
──え、ちょっとそれって。
心臓が、どくんと跳ね上がった。この感覚は久しぶりだ。ルキアが電話に出て居留守をしようとした時の、いやそれ以上の緊張感だ。
「俺も行方は知らんけど、一人知ってそうなやつ居てるんで、代わるわァ」
そこまで言って、無言で伝令神機を渡してくる。それに驚いて、咄嗟に顔をぶんぶんと横へ振った。ところがむっとへの字口で顰める彼は、険しい剣幕で。両者譲らずだったが、手渡すことを諦めない平子に仕方なく降参し、恐る恐るそれを受け取った。
「……も、しもし」
勇気を出してそれに耳をつけるも、相手からの応答はなく。あれ、切れたかな? と一旦耳から離して画面を確認した。が、もちろん通話中になっている。もう一度耳へ戻すと、ようやく雑音と一緒に聞こえてきた。
「……ゆかさん、ですか?」確かめるように呼ぶ声は、心に滲むような嬉しさで。
静かにそれを噛み締めていると、「これはこれは……驚きました」と続けた。
ああ、自分が望んでいた人の声音。少しの間、聞いていなかっただけなのに自身の決心はこうも簡単に揺らいでしまう。今この瞬間も。目頭を熱くさせては、鼻がつんとする。
──ただ、この声が、恋しかった。
けれど久々に聞いた喜助の低音はどこか穏やかで、抑揚がないように響く。
「……はい。お久しぶりです、浦原さん」
向こうにつられ、自分もいつもよりトーンが低くなっているのを感じる。
「この間みたいに、名前で呼んではくれないんスね」
そう言われて、喜助の名を呼んだ最後のやり取りを思い出した。あれは、あの時の昂ぶりと複雑な心境が重なっただけなんです、とは告げられなくて。
「そ、それにはいろいろと事情がありまして」
帰ってからその諸々を説明しようと思っていただけに、妙にはぐらかした言い方になってしまった。安易に喜助と発したことで、自身の立場が悪くなっていく気がした。
「平子サンが居るから、スか?」
喜助のその問いは、僅かに冷たくも聞こえた。
「平子さんはたまたま見送って下さっただけで、それとこれは関係ないです……」
どうしてか変に言い訳がましくなってしまう。もちろんそのつもりはないのに、喜助には勘違いされたくない。久々に会話してこんな厄介な気持ちにはなりたくないのに、胸が痛く締めつけられてまた苦しい。もっとすらすらと言葉が溢れてほしいのに。
──……うまく声が、出てこない……。
隣をちらりと一瞥すれば、玩具を見つけたようにニヤついている。訪れる不穏を余所に、目前の男はただこの状況を愉しんでいるだけだと理解した。
「そっスか。アタシからも聞きたいことはありますが、今度会った時にでもにしますかね」
喜助の聞きたいことが気になりすぎて今すぐにでも問いたかったけれど、自ら交わした約束がある手前、その欲求は大人しく呑み込んだ。
「はい、私も帰ったらちゃんとお伝えします。あと、この間は……すみませんでした」
居留守をしてしまって、とルキアの伝令神機を介して話さなかったことを懺悔した。
「……ああ、あの時っスね。いえ、アタシと話したくなかったのも頷けます。こちらこそ、少々不憫な思いをさせたっスかね、すみません」
不憫な思いとは報告書の件なのだろう。あの時は一角に追い詰められた直後だった。多少なりとも怒りが芽生えたのも事実。だが一方でよく考えてみれば、あの報告のおかげで苦手な初対面もそれなりに克服できたと捉えられる。
そもそも喜助と話したくなかったなんて。思うはずがない。こうやって声を聴くことが、あの時は緊張が勝ってしまい、恥ずかしかった。そんな単純で情けない理由なのだから。
「ちっ違います。決して話したくなかった訳じゃなくて。確かに斑目さんに追いかけられた一件のあとでしたが、むしろ……あの……いえ」
口早に任せて、ぽろりと本音が出そうになった。喜助が気づかなければいいと小さく願う、も。
「むしろ、話したかった、っスか?」
こちらの願いは当たり前のように届かず、おまけに心臓がばくばくと脳天までうるさい。今の声は、意地悪を仕掛けているものでも、俯瞰的なものでもなかった。ただの問いかけにも聞こえて。けれど、これがいつもの揶揄いではないのなら、適切な返答がわからない。
「……そ、それは、わざわざ聞かなくたっていいじゃないですか!」
顔に火照りを伴いながら、本音を隠すように喜助へ声を荒げた。嘘は言いたくないが、はい、とも言えない質問。そしてこの熱が酔っている所以のものではないことくらいわかる。もう酔いはとっくに醒めている。というより喜助が良い酔い醒ましになったのが事実だった。
「ゆかサンは素直じゃないっスねぇ。……気づいてます? 否定してないってこと」
もう取り返しなどつかず。己の会話力のなさに、げんなりとした。
「……浦原さん、意地がわるいです。せっかく久しぶりなのに」
喜助は、あはは、と楽しそうに笑う。星空を眺めては、ああなんてドSなんだろう落胆して、なのにその軽やかな声音に安心してしまう。やっぱり彼にはこうやって余裕綽々と構えていて欲しい、なんて思ってしまうのは惚れた弱みなのだろうか。
「久しぶりだからっスよ。あたしは話したかったんですけどね? 誰も連絡くれないんスもん」
全く寂しいっスよ、とはわざと拗ねた口調で言っているようだった。
すっかり慣れた冗談も、都合よく嬉々として受け取ってしまって、口許が緩む。
「夜一さんが連絡してるかなって思ってたんですよ」
こちらも戯けながら当たり障りなく返すと、「くれる訳ないじゃないっスかぁ」と半ば失礼ながらに戻ってきた。ははは、と自ずと零れ出る。
「ただゆかさんが無事に過ごしているようで、貴女の声が聞けて、ひとまず安心しました。……ところで。平子サンとはこんな遅くまでなにを?」
「えっああ、えっと今夜はお食事会があって。平子さんは乱菊さんに頼まれて、私を見送りして下さってるんです」
とっても楽しかったですよ! と思い返しながら今日の報告を告げる。
すると少し離れて佇む平子は名前が聞こえたようで、こちらに合図を送った。そして、くいくい、と手招きをしてなにかを伝えようとしている。電話はよ代われ、と言っているのか。終わりの時間なのだろうと喜助の返事を待たずして「あ、平子さんに代わりますね」と伝令神機を返した。
そして平子は気怠そうに体を傾け、些かぶっきら棒に話しかける。
「ザーンネンでしたァ、時間切れですぅ。俺んこと疑い始めたら終わるんやでー」
ええか、と毒づく彼の声はどこか嬉しそうだ。
「ゆかちゃんに遊び教えてええ言うたのお前やからな。男に二言はないよな」
本当にそんな約束を交わしたのだろうか。平子は喜助と同様、真面目に物を言っているのかふざけているのか見当がつかない。見たところ、一方的に平子が話しているようにも聞こえた。
「──ほな、切るでェ」やはり有無を言わせずに切ったようだった。
そして平子が向き合い「どや、楽しかったか?」と訊ねた。さっきまでは悲痛の想いで酷い有り様を晒していただけに、その心遣いがとても温かかった。
「はい、とても。平子さん、どうもありがとうございました」
深々とお辞儀をすれば、平子は首裏を掻きながら顔を背ける。
「そんなんええって。俺が勝手に渡したんやし」
「ただな、」
平子は一度背けた顔を、再びこちらへ向ける。
「ゆかちゃんの、そないに嬉しそうな顔が見られて得した気分やわ」
そんなに顔に出ていたのかと。ボッと赤面していくのがわかる。うわぁ恥ずかしいと嘆きつつも、平子の指摘を率直に受け止めた。
喜助さんの言葉にはなかなか素直になれないのにな、と心持ちの行く末が不安になる。
──あーあ、喜助さんに逢いたくなっちゃった。
平子にすくい上げられたこの想いは、再び行き場を無くしたものの、どうしようもない慾求に少しだけ諦めがついた。
──もー、ほんとしょうがないな、私は。
さてこれからどうしたものか。
上っ面で取り繕いながら平子に送ってもらい、欲望に振り回された濃い一日を終えた。
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