──翌朝。休職していた職場に初出勤をした。言い方はおかしいが間違ってはいない。

「暫くお休みを頂きまして、ありがとうございました。ご迷惑をおかけしますが、今日からまたお願いします」

 便宜上そうは言ったものの、心の中では、今日からお世話になります、と一礼した。
 周りを見ると、以前の同僚もいれば初めて見る人もいる。どうやら世界線が変わったせいなのか、出会う人が同じままだったり違う人になったり、微妙なズレが生じているらしい。自分は違う世界線にいた記憶を保持したまま、この世界の記憶を上書きしてしまったようだ。いや、もしかしたらこちらにいた本来の自分の記憶や意識は、向こうの自分と入れ替わったのかもしれない。あちらの世界では紙面上の物語になっているという事実も、一つの世界の在り方なのかもしれない。
 ぼーっとそんなことを考えていたら、上司に後ろからど突かれた。

「何ボサッとしてんだ、仕事すっぞ仕事」

 言葉数が少なかったゆかの代わりに、上司が同僚たちに詳細を伝えた。

「神野はまだ本調子じゃないから、今までのことを始めから教えてやってくれ」

 敢えてみんなの前で記憶障害だと言わなかったあたりが、彼なりの気遣いなんだと悟った。きっと何らかの形で皆には病気だと伝えているはずだから。
 初日は覚えることも多かった。追いつこうと必死に処理をしていたらあっという間に定時に。
 本来であれば同じことをまた最初から覚えるなんて仕事の内には入らない。だが今はそう繕うしかなくて、一生懸命仕事をしている同僚には申し訳ない気持ちになる。

「疲れただろう、帰っていいぞ」
「ですが、まだ何も、」
「職場復帰の初日から残業させる上司がどこにいるんだよ。いいから、帰れ」

 手でしっしと追いやられる仕草。上司のふざけた顔も相まって、若干腹ただしく思えたが、優しさに甘えて帰らせてもらうことにした。

 更衣室で薄茶色のコートを羽織り、ふぅ、と溜息。ここでの生活も案外悪くないのかもしれない、ふとそう思った。きっとこの世界にも同じ実家があって、些細な所しか変化がないのであれば、十分に順応していける。そんな自信も芽生えてきた。そう思わせてくれているのは、上司や一護、そして肌身離さず持っている喜助さんの御守りのお陰だな、なんて浮かれた考えになる。考えるだけで、口元が緩んでだらしない表情に変わっていく。どうも無意識だったようで、その表情に「神野さん、嬉しそうだね」と更衣室に入った同僚に声をかけられた。「あ、はい」まだ喜助さんには出会ったことがないのに何て幸せかとはにかんでしまう。御守りの御礼という口実を作って会いに行けないこともない。だが興味本位で行くだなんて、相手が相手なだけに畏れ多い。
 結局、自分は消極的な性格なのだと自覚して小さく項垂れた。

「お疲れさまでしたぁ」

 職場のビルを出て、軽快な足取り。さて今晩の献立はどうしようかと帰路についた。
 すると背後から視線のような、妙な違和感を感じた。誰かに尾けられているのかと思い、バっと振り返る。それを何度か繰り返すも誰もおらず、不穏だけが残った。

 ──ん? ストーカーなんてあったこともないし、気のせいかな。

 きっとユウレイの悪戯なんだろう、そう思い込むことにした。
 なんてったって喜助さんの御守りがあるんだ。スキップしそうな足を堪えて進む。
 もはや御守りではなく『喜助さんの』という部分に価値を見出していた。
 家へと続く一本道に差し掛かると、後ろからザァーッと木々を揺らすほどの突風が、ゆかを巻き込んだ。風が強いな、と顔を覆った瞬間、ピッと右腕に小さな裂け目が入った。

「うわっ! ……なに、竜巻? かまいたち?」

 大きな突風によって飛んできた何かでコートが切られてしまったようだ。

「あちゃー、お気に入りのコートだったのに」

 その裂け目からはインナーの洋服が見えている。それにしても、上着だけで良かったよ、と安堵を漏らした。仮に硝子が飛んできていて、コートがなかったら大怪我だったかもしれない。考えるだけでゾッとした。今日はツイてないな、帰ったらすぐにお裁縫しよう。ゆかは落ち込みながらマンションへ駆けていった。

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