「あっ!」突然、雛森が泡を食ったようにどこかへ駆けていく。忘れ物かなとその後ろ姿を見つめた。少しすると、彼女は足早にお盆を持って戻ってきて、素早く湯呑みを差し出した。

「お茶も出さずに、ごめんなさい!」

 彼女はどこまでも人が良いんだなと感心する。もちろん全く気にかけていなかったので、すみません、と逆に恐縮しながらお茶を頂戴した。そうして雛森はお盆を胸に抱えて隣へ腰かける。

「あのぉ、ゆかさん、」

 彼女には何か聞きたいことがあったらしく、ずず、と軽く喉を潤した後に質問を投げかけられた。

「平子隊長、すごーく失礼なこと言わなかった? ゆかさんに対して」

 すごく失礼なこと。なにかあったかなと顎に手をあて、記憶を遡る。

「待て桃、なんの話しようとしてんねん」

 彼の慌てた口調に、そう言えば、と一つ思い当たる節があった。

 ──思い出したけど、告げ口っぽくなりそうだし。

 先ほどのやり取りを言い淀んでいると、平子はニヤリと雛森に視線を送った。

「桃がなに言いたいんかは知らんけど、なんもなかったらしいでェ」
「平子隊長は黙ってて下さい。だってこんなに素敵な人なのに、きっと隊長は悪びれることもなく言いそうなんですもん」

 その受け答えに思わず噴き出した。隊長をよく理解してるなあ、と告げ口の可能性を否定する。

「はい。言いましたよ、彼。悪びれることもなく」
「ちょ、ゆかチャン! なに言い出すねん!」
「やっぱり! まさかですけど、霊長類最強、みたいなことじゃないですよね……」

 平子は「桃こらっ」と声を挟んだ後、雛森の鋭い視線を察知したようだった。彼女の追撃から逃げるように明後日の方向へ顔を向けては、口を尖らせている。ゆかは「へぇー」と冷ややかな眼差しを送りながら、静かにお茶を啜った。

 途端、空気に耐えられなくなった平子はガタッと勢いよく立ち上がり、踏ん反り返る。

「なんやねん! みんな思っとったやろうが。そもそもや、喜助の報告がおかしいねん、あんなん誰もが霊長類最強や思うやろ!」

 出てきた名前に、一瞬だけ喉の奥が詰まる。茶で潤わせたはずなのにくっ付きそうで。この違和が悟られないよう、ぎゅっと湯呑みを握りしめた。一回でも名を耳にすると、平常心が揺らぐ。あの人の報告内容が気になりつつも、黙って平子の言い分を聞くことにした。

「それで本当はなんて言ったんですか、平子隊長?」

 雛森が問い詰めると、平子は降参したように頭を掻きながら白状した。

「もっとこう、えっらい霊長類みたいなんかなー、ってオブラートに包んで言うたで」

 対する発言に嘘のないよう、ゆかは即答で事実を暴露する。

「いや全然包まれてなかったですよ。あの時、私に過剰反応しすぎって言ってましたけど、私のツッコミ大正解じゃないですか」

 雛森は「信じられない!」と声を荒げた。
 失礼極まりない、と再び不服を申し立てる。

「隊首会で浦原さんの報告が議題に上がる度に、帰ってきたらその話ばかりだったんですよ」
「くぉら、桃。ええ加減にしいや」
「なるほど。それで、平子さんは私を霊長類の長だと思った訳ですね」
「オサなんて言うてへんてさっきも言うたやろ」
「ああ霊長類最強、でしたっけ。こちらの言い方では」

 そう言って横目を向ければ、雛森が頬を緩ませて嬉しそうにしていた。
 未だトゲがある言い方ではあるものの、緊張感が抜けてきたと感じる。

「そうですよね、平子隊長。絶対こんなん霊長類最強やん、て常々言ってましたよね。でもそれを直接言ったら失礼なんですよ。わかりました?」

 ぴしゃりと雛森が諫めると、平子は首を垂らした。

「……ようわかったわ、悪かったなゆかちゃん」
「いえ。私も言い過ぎました、すみません。でも思い返せばその前にお褒めの言葉を頂いたので良しとします」

 それを聞いた平子は「は?」と忘れたようにとぼける。本当に忘れたのかもしれないが、それならそれで都合が良い。横で雛森は「隊長なんて言ったのー?」と小首を傾げた。

「えっと、『思っとったより上玉やなァ』って言ってくださいましたよ」

 直後、平子は掌を顔に当てて項垂れた。言葉にするなら、堪忍してや、と言いたげで。

「まあ平子隊長! 隊長のこと、薄々感じてましたけどやっぱり口下手ですよね」
「なんでもええけどな、ここは修学旅行の暴露大会なんか。ちゃうやろ? さっさと稽古でもなんでもつけてもらい」

 気怠そうな平子に「はーい」と雛森が快く立ち上がると、稽古と聞いたゆかは髪を一つに結い始めた。ポニーテールにすると横からも後ろからも見た目は夜一のファンそのもの。

「おっと、アカンなそれはアカン」

 平子に呼び止められてなにかを否定される。なにを禁止されているのかわからない。
 なんでしょうか、と隊長席へ近寄った。

「桃。一着余ってる死覇装、貸してやり。この見なりやと夜一と喜助が目に浮かんで敵わんわ」

 ああ、きっと彼は奇異な目に晒されるのを避けさせたいのかと表に出さない優しさが滲んだ。

「あたしはこのままでも可愛いと思うけどなあ」

 そう言いながらも雛森は隊長命令に従い、隊士室へ向かって行った。
 この隊長はこちらを直視せずに参ったようにしている。本当にあの二人が浮かぶのかもしれない。

「……その上から羽織るだけでええで」
「平子さん、お心遣いありがとうございます。実はこれ、浦原さんが夜一さんの衣装に似せて作ってくれたんです。夜一さんとお揃いで嬉しいのですが、こちらでは逆に目立つみたいですね」
「まあ、ゆかちゃんがさっきみたいになってもええなら、別に無理にとは言わへんけど」

 平子の人柄が心に沁みて、眉を落として微笑む。

「やっぱり、人目を気にかけて下さったんですね」

 環境変化が著しいからと終始恐縮してしまう己があまりにも情けなくて、卑下してしまった。
 ぱたぱたと雛森が死覇装を抱えて戻ってきて、はい、と手渡す。

「お洗濯したばっかりだから、大丈夫だと思うけど」

 洗濯してなくても平気だよと秘めながら有り難く受け取った。平子に言われたとおり、上から死覇装を羽織るだけ。腰元で軽く白い帯を締めると、不恰好ではあるがそれなりに着こなせた。

「じゃ、平子隊長。あとはお願いしますね!」

 明るい声音の副隊長は執務室を出ようとする。
 あ、いけない。ゆかは急いでリュックから鬼道集を取り出して、彼女の後をついて行った。

「なんや、これから忙しなるなァ。……これ半分、喜助のせいやろ」

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