喜助がこちらに背を向けると、大きな穿界門が目の前に現れる。人間を通すため霊子変換機と結合符で覆われた門で行くようだ。実際に目の当たりにすると、その大きさに圧倒される。そして身支度を終えた夜一も横に立って、穿界門を同じように見上げていた。

「向こうには今日中に行くと伝えておる。よって断界の壁も固定されておろう。かつてのように走る必要はないじゃろう?」

 かつてのようにとは、一護たちがルキア奪還のために尸魂界へ向かった時のことだろう。

「涅サンと阿近サンにはボクから伝えたんで、そこんとこは大丈夫っスよ」

 もう追放された身ではないから危険な状態で通る必要はなくなったのだと年月の経過を実感した。
 その一方で、未だ気分がすっきりしない。もやもやとした心境に足を戸惑わせながら、夜一の後に続いて一歩ずつ穿界門へと赴く。不意に。立ち止まった夜一が耳打ちをした。

「最後に言葉を交わさんで良いか、喜助に」

 彼の名を耳にしただけで、胸が騒つく。夜一さんだってもうわかっているんだと、この意地の張り合いにようやく諦めがついた。迷える気持ちを汲んでくれた彼女に「少しだけ待っててもらえませんか」とお願いをして、踵を返した。ぽんと肩を叩かれ、それにぎこちなく笑う。

 足取り重く、ゆっくりと歩み寄り、深呼吸をしてから喜助の前で立ち止まる。これから話すことを他の誰にも聞こえないようにと距離をさらに詰め、じっと彼を見据えた。

「直前に、すみません」前置きをしてから紡ぐ。
 しっかりしろ、と自身に喝を入れながら、今にも震えそうな唇を動かした。

「あの。帰ってきたら……聞いてくれませんか。私の、話を」

 いつものような赤面をするほどの熱はなく。存外、心臓は落ち着いている。
 とは思ったもののやはり無言の間を恐れてか、喜助の返事を待たずして矢継ぎ早に重ねていった。

「えっと、それでどうこうって訳じゃなくって。話した上で判断を委ねます。どのように扱っても構いません。私に選択肢はありませんから、ですから、」

 いくら喝を入れても、視界は滲んで、発する声も段々と震えてくる。次に会う時が最後かもしれない。一瞬でもそう考えると、胸がぎゅっと縛られたように苦しくなった。笑顔で出発したいのに、と拳を握った。すると、ふわり、薄い色素の髪が降りてきた。

 ──ああこの懐かしくて、もどかしくて、どこか安心する香り。

 そのままゆかの左頬へ喜助が近づくと、耳許で囁いた。

「……どんな話でも聞く覚悟っス。貴女を追いつめてしまったようで、申し訳ない」

 とくん、心臓が鳴った。いつもならうるさくなる鼓動も、今は優しく響く。

「最善を尽くす所存ですから、そんな顔をしないで下さい」

 それにこくりと首肯いて素直に受け入れた。耳に息がかかるくらいの距離なのに喜助が不安を取り除こうとしてくれるから冷静を保てた。むしろ普段より低い声色が聞き心地よかった。

「はい、」とだけ返すと、一歩引いた喜助と再び向き合う形になった。こちらを見下ろす目は三日月のように細められ、柔らかく口許を綻ばせている。

 ──ああ、また囚われた。このゆるゆるとした優しい双眸が、淡い琥珀色が、好きだ。

 僅かに揺れる珠は、胸奥がきゅっと締め付けるほど円らに映って、こちらを掴んで離さない。

「今、この腕で。ゆかサンを抱きしめたいのは山々ですが、皆がいる手前、控えさせて下さい」
「──っ!」

 冗談だとわかっているのに、脳がそれを冗談とは受け入れてくれなくて。全身に熱が上がっていく。またゆでダコと言われてしまうのだろう。ゆかが俯くと、頭に喜助の大きな手が触れた。

 片手でくしゃくしゃとひと撫で、ふた撫で。彼に視線を向けようとするけれど、その大きな掌で阻止されて。どんな顔でそうしているのか確かめることもできず、大人しく甘受するしかなかった。
 されるがまま、喜助の胴体が近づいてくる。作務衣から覗く筋肉質な厚みに、体が硬直する。

 ──ちっ、ちかい。

 喜助が「代わりに……」と呟いたあと前髪にふっと息がかかった、気がした。
 髪越しに残る柔らかな感触。正直、何をされたのか理解が追いつかなかった。
 髪の上からとあって、湿った感覚もなくて。確認しようにもどう訊いたらいいか声が出ない。

 ──ちょっと待っ、髪に……え? いや、もしかして。

 ようやく掌が離れて自由がきく。確かめることが叶ったその顔は愉快げに弧を描いていた。

「えっと、今。あの……」
「代わりに、おまじないかけといたっス」

 ゆでダコと言われないようにだろうか。代わりにと頭部を何度か撫でた挙句、髪越しに触れるまじないとは。触れたそれがひょっとして唇かと一瞬でも疑うと、途端に羞恥と焦燥が押し寄せた。

 ──髪に口づけですか、なんて間違ってたら死ぬほど恥ずかしいし……!

 だとしたら周りにはしっかり見られているのではと、眼がおろおろと泳ぐ。
 それを察したのか「みんなからは死角になってるんでお気になさらず」と相変わらず悪びれることもなく飄々としていた。そうか、彼にはなんてことないのだ。昂りが冷却されると、過剰反応したことが哀しくなった。結局いまの真相を確かめることなく、ゆかはじりじりと後ずさりをする。

「……大人が大人に何のおまじないですか、も、もう行きますからね?」

 穿界門へ向き直して走り去ろうとすると、ああ、と呼び止められた。

「くれぐれも、無理はしないように。気をつけていってらっしゃい、ゆかサン」

 この声が暫く聞けなくなる、久々に聞けたのに。そう思うとやっぱり寂しくなる。
 いつもの仕返しでもないが、喜助を少しだけ驚かせてみたくて。ゆかは振り向きざまに返した。

「はい、頑張って勉強してきますね。 ……いってきます、喜助さん」

 本来なら呼んではいけなかった、呼ぶべきではなかった。けれど言い慣れた名であなたを呼んでみたかった、一度でもいい。
 彼にとっては特別なことではないかもしれないけど、自分にとっては勇気がいる瞬間で。
 思いがけない返しになっただろうか。それとも疑念を深めるだけに過ぎないだろうか。
 あとで何を言われてもいいから、今だけはどうか、このまま素直に呼ばせてほしい。

 直後。喜助は一瞬間だけ目を丸くしてから、そっと微笑んだ。それはまるで、そよ風みたいに緩やかで。追い風のようなその笑みは、先ほどまで重かったゆかの足取りを弾ませた。

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