いや、今までが非日常的すぎたのだとぼんやりとした頭で整理をつけていた。
一方的に帰宅許可を告げられてから数日。傷の治りを待ってから浦原商店を後にした。
数回に分けて荷物を持ち帰って、これが最後のひとかたまり。夜一や喜助に荷運びを手伝おうかと幾度も訊ねられたが、散々お世話になった手前、それはすべて断った。
「ただいまあ」
しんとした静寂がゆかを迎え入れる。誰に言うわけでもなく、家に戻ってきたことへの形式的な挨拶を吐き出しながら荷物をリビングの隅へと追いやる。
そのまま「よいしょ」と歳不相応な声を上げてから、ゆったりとソファへ腰掛けた。
喜助に『これから』の話をされた時は、あまりに唐突すぎて思考が追いつかず、茫然と目を背けた。その直後に監視下≠ヘ終わりと宣告され、やっと我に返った。
ああそうだった、ただの居候の人間だったと。あくまで危険を排除するための監視なのだと。
──一護も織姫も通い稽古だったんだから、当然。それに最初から期限付きの居候だった訳だし。
なにを今更、と自分に言い聞かせる行為は一体なんの意味があるのか。本来、人間と死神が同じ屋根の下に暮らすだなんて現実的ではないのだ。
「リモコンは……と、あったあった」
久しぶりのお一人様を満喫しようと真正面のテレビをつける。画面に映った天気予報を無心に眺める。けれどそこから流れる丁寧な日本語さえもただの雑音に過ぎず、一度浮かんだ不穏を和らげるには程遠く。
──『今日は雨が降るそうですよ』
──『では降られないうちに、戻りましょ』
いつかの会話が流れる。彼の優しい声色や香りが体に残っていて、なんとも言えない喪失感が体を支配していた。それに伴う可笑しな感情も波のように押し寄せる。ああもうせっかく気分を変えようとしたのに意味がないとソファを立つ。今度は湯を沸かしに流し台へ。しかしそこでも結果は同じだった。どこへ向かっても目を瞑っても、何もしていても。彼の影が後を追ってくる。
結局ソファに戻ったゆかは頭を抱えて。関わり過ぎていた。
自覚してはいけない。この感情を理解してはいけない。駄目だ駄目だとわかっているのに、どこまでも心は弱く、脆く。霊力を暴発させてしまったあの瞬間からなんら成長していない自身があまりに情けなくて反吐が出そうだった。
──出るな、止まれ。どうして、なんで、
頭ではわかっているのに、体が心が言うことを聞かない。寂しさから苦しいのか、誰かを呼べばいいのか。ゆかはそれらの考えが全てハズレなのだと薄々気づいていた。だから誰かにすがることもできず、適当な理由をつけてどこかへ行く訳でもなく。さらさらと溢れてくるこの涙を傍観した。
ああ苦し──。胸が締め付けられる痛みは、喜助を考えれば考えるほどに増していく。
認めたくないこれは、認めざるを得なくて。
いくら頑なに拒んでも、静観していた涙を受け入れるしかなくて。
──いつのまにか、こんなにも想っていたの。
馬鹿だ、大馬鹿者だ。愛慕の気持ちにはっきりと気づいた途端、肩の荷が下りたように静かに泣き続けた。憎からず思っていた小さな芽がいつしかこれほどまでに大きくなっていたなんて。
「……さい、あく……」
いなくなってから気づくとは安い恋愛ドラマかと。笑止の沙汰だった。大事なものは皆全て、失くしてからやっとその価値を見い出す。人間とは実に愚かなもので、失くしてみなければその大切さがいかに体に染みついていたのかさえ気づくことができない。
──ほんと、なにも学んでない。
前の世界を失くした時も、周りの人々が一変した時も。変わってみないと気づけない。
ゆかは自身の愚考を恨んだ。ぐしぐしと溢れ出たそれらを腕で拭うもあまり効果はなく。
「……っ、ぅ」
唯一の救いは霊圧制御を身につけておいたこと。今なら誰にも気づかれずに終わらせることが出来る。この涙を出し切ろう。出し切って忘れてやろう。この想いは相手に好かれたいだとか、最早そういう問題ではい。彼に対して抱いた感情は今いる世界にとって不徳極まりなく、ただの迷惑でしかないのだ。異端な世界で惹かれたことをなかったことにすべく、ゆかはある決断をした。
──尸魂界へ行くとき以外は違うところで稽古をしよう、それがいい。
すなわち浦原商店にはもう出向かないということ。
以前に見た、現世へ送られた死神たちが斬魄刀と対話した空き地。きっとそこなら誰にも邪魔されない。木々に覆われた場所なら近くにあるはずだと踏んでいた。
浦原商店へ訪れる回数が目に見えて減ったと周知されても、察しのいい人ばかりなのだから敢えて触れてはこないだろう。こんな大人がぼろぼろと大粒の雫を落としながらひとしきり泣いた後はとてもスッキリとした。ただの茫然自失、意気消沈と言えばそれまでだが。けれどもう考えない。これからは自分の身を守ることだけに集中すべく、鬼道の教本を手に取って読み進めた。
雨のように湧いてきた涙滴もなかったことのように落ち着いて、夢中で言霊を覚えていく。
どれほど時間は経過したであろうか。
気がついたらカーテンの隙間から射る日差しがなくなり、すっかり夜だと気づかされた。
──ピンポーン。突然鳴ったチャイムに肩が跳ねた。おずおずと体が強張る。どこに緊張する理由があるのかと己に憤った。ただの呼鈴に一瞬でも彼かなと思わされる自分はなんて女々しいのだろうと、再び厭な感情が淀む。
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