何の前触れもなく、ただ一言。それを告げれた夜一はその話題に眼を瞠った。そうして如何にも怪訝そうな色を露わにした。
「お主は本当にそれで良いのか? 悔やまぬか」
「そればっかりは、わかりませんが。そろそろ潮時っスよ」
一瞬の沈黙が二人を包む。夜一は「そうか」と零し、すっとその場から立ち上がった。
そして喜助の横を避けるように廊下へ向かう。残された喜助は視線を落としたまま、ぐっと拳を握りしめては、長いこと畳の目を見つめていた。
──すでに後手に回ってますかね。
己に呆れて自嘲すらできない。旧くからの良き理解者である夜一も耐えられずあの反応を見せた。
全く、苦慮と言うものは何百年経とうと慣れるものではない。
喜助はふと、過去に織姫が虚圏へ連れ去られた一件を思い返した。あの時も様々な配慮に苦心を重ねて。結果、戦線から外しあぐねたせいで敵に捕らえられてしまったなと懐古に浸る。
──いや、さすがに今回は、ばつが悪い。
喜助は一つまた一つ、溜息を落として仰向けに寝転がった。静かに目を瞑る。その上に腕を置いて、ゆかと手合わせした昼間を回想した。目蓋の裏には彼女の姿が鮮明に浮き上がっていって、その柔らかな声音が反響した。
「……参ったな、」
仕方なしに傷を負わせた挙句、結局はこちらの思惑を口走ってしまい。それをなかったことにしようと、終いにはゆかの頬に口づけた。幸い自分の意図したことは明確には伝わっていなかったようで。だったら最初から口走るなよ、と情けなくも息を吐いた。
──ゆかさんは立派な覚悟ができていたのに、それを見ないように潰そうとした。
彼女からあの覚悟の言葉を聞いた時には確信した、手遅れだと。もう前へと歩み始めている。なのにその覚悟をなかったことにしようとした、──それは何故。
彼女を危険な身に置きたくなかった、その理由は自分の中でわかっていたのかもしれない。
かあっと灼けるような情慾を彼女に対して向けるなど、あってはいけない。自覚、など。だから今が潮時だ。
──ゆかサン、夜一サン、すみません。甲斐性のない男で。
ここらで手を打つとしましょう、と思い立った喜助はむくりと起き上がった。
するとちょうど廊下から風呂上がりのゆかが、ほくほくと湯気を上げて部屋に入って来た。
首からタオルを垂らして。しっとりと濡れた髪が艶かしい。向けてはならない邪な慾が再び湧き上がる。
「あ、浦原さん。まだいたんですか? ここで寝たら風邪ひきますよ?」
ゆかが喜助の近くに腰を下ろすと、気付かれないよう息を深く吸った。
「ゆかサンも、風邪をひかないよう暖かくして下さいね。……あと。これからは体に無理をしないで、危なくなったら必ず助けを呼ぶこと」
突拍子もなく何を言いだすんだ、とゆかが目を丸くする。直後に眉を下げてその表情は辛そうに見えた。少しの間をあけたあと、告げられた内容を理解したのか、血色のいい唇を震わせた。
「ええっと。浦原さん、それって……」
唇を小さく噛み締めて。言葉を選んで発しているのがわかった。
何かを訊きたそうだったがそれは途中で音にならずに消えていった。
「おめでとっス、アタシの監視下は終わりです。これからは自宅に戻って通い稽古になります」
ゆかからは返事は疎か、頷きすらなかった。
僅かに俯いたあとすぐさま顔を上げて。出逢った頃のように、にへらと笑って言った。
「そうですか、やっと独り立ちできるってことですね? 今までたくさんお世話になりました」
座ったまま一礼すると、その毛先から水滴が垂れ落ち畳に染みを作る。
それに気づいた彼女は髪の水気を拭き取るように頭部全体をタオルで覆った。
「こちらこそっス。またいつでもいらして下さい、」
そう告げると、彼女はタオルで隠しれたまま「はい、もちろん」と軽い口調で答えた。
「湯冷めしちゃうので、髪を乾かしてきますね」
続けて、おやすみなさい、とだけ言い残しゆかは立ち去った。
喜助は声を返すことなくその後ろ姿をただ見つめていた。決断を揺るがすように、先ほど問われた夜一の言葉が頭の中でこだまする。
──『本当にそれで良いのか? 悔やまぬか』
答えはわかっていたのだろう。だが自覚をしたら後戻りはできない、だからこうする他なかった。
これが彼女にとっても自身にとっても最善策なのだから。
まだ何もなかったことに戻れるのなら、一番最初に後戻りを──。
「……もう遅いっスよ、言っちゃいました」
喜助の掠れた声は誰にも聞かれることなく、静寂の中へと消えていった。
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