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 心身の癒しを求め、ゆかはゆっくりと湯船へ浸かっていく。ああ、と年相応でない声が漏れ、浴室内に反響する。気持ち良さが滲み出て蕩けそうだ。
 至福の時とはまさに今この瞬間のことだろう。

「どうじゃー? 湯加減は」脱衣所から掛けられた声に、
「とっても良いですよぉ」とふやけた声を返す。
「儂も後でいただこうかの」
「一緒に入りますー?」

 浦原商店へ運ばれた頃に夜一が体を拭いてくれたこともあり、特に抵抗もなく。すっかり裸の付き合いとなった。もちろん変な意味合いはない。
 そうして地下勉強部屋での訓練を終えた後には、風呂へ直行することが日課となりつつあった。
 ただ、昨日を除いては。ある出来事のせいで、この至福の時を迎えることができなかった。
 昨晩のことを思い出すと、風呂底へ沈みたくなるほど恥ずかしくなる。

 ──夜一さん、なんであんなこと言ったの……。

 その張本人が来るかもしれない。この状態を知られたら絶対に揶揄われるのが落ちだとわかっている。今日ばかりは誘うんじゃなかったとゆかは後悔した。

 彼が指導に入ると聞いて、厳しいと脅かされて、気合いを入れた所までは良かったのに。
 まさか喜助さんの部屋に放り込まれるなんて。堪らず目を瞑ってしまう。しかも元の居場所には無い彼の自室へと踏み入れてしまった。そりゃ視線があちこち泳ぎますよ、見たこともない部屋をこの目に焼き付けたのだから。仕方ないよねと、自身を慰めては同情した。ただの作業部屋にも拘らず、どこをどう眺めたら良いのか、目のやり場に困ったことは不覚の事実で。やはり情けなかった。おまけに自分から「ビシバシやってくれて大丈夫」とドM発言をするわ、喜助からは「泣かせる趣味はない」と脱ドS宣言をされるわで、恥ずかしいのなんのったらない。
 さらには自宅で盛大に涙した失態までも思い出して、勝手に羞恥心で弾けそうになった。

 ──ああ……穴があったら入って鍵かけたい。このまま風呂に沈んでしまおうか。

 ばしゃ、顔に湯をかけて昨日の言動を忘れようとした。
 ところが手で顔を覆うことで羞恥へ拍車をかける。

 ──喜助さん。わ、わたしの頬に触れたよね。ゆでダコとか訳わからないこと言いながら!

 ばしゃばしゃばしゃ。湯を一気にかけた。極度に露わになったであろう赤面症の瞬間を洗い流そうと躍起になる。人間というのは皮肉にも忘れよう忘れようとほど脳裏に焼き付くもので。
 昨日の一連が頭から離れない。

「いやいや、茹で上がるってなに!」

 あまりの言われように感情が昂った。すでに湯船でのぼせるほどの熱を感じているが、それとは別の熱。近頃は揶揄い文句に慣れ始めていたのに。きっと初めて彼の部屋に入ったからだ。
 勝手に翻弄されて、耐性力がなくて。自己嫌悪に陥った。

 ──急に立ち上がったりして、大人気なかったなあ。

 いつもの冗談なら突っぱねてやり過ごせるのに、どうしてかそれが出来なかった。
 精神的に未熟なせいなのか。喜助の態度はいつもと同じなのに、どうしてかあの時は何かが変で。
 勢い任せに退室しようとすると、上から戸を押さえられて開けられなかった。
 あからさまに不機嫌を晒して辛辣に言い放ったから、単に彼を怒らせてしまったのだと思った。

 ──仮に怒ったとしても。どうせ、私の反応を見て楽しんでる悪趣味なんだろうけど。

 ただ、あの時の様相は切なげで。どこか申し訳なさそうに琥珀色の瞳が揺れていた。帽子を被っていなかったから表情が手に取るようにわかったのだ。だから不覚にもその瞳に囚われてしまって。言い返せずに硬直したこともよく覚えている。そうして彼が近づいてきて、後ろに行けなくなって。

「……あれが壁ドン? いや、あれは襖か」

 定義上、壁ドンと呼んでいいのだろうか。あの時は咄嗟のことで人生初の壁ドンとやらに気づかず損した気分になる。ただ追い詰められた袋の鼠のように、性悪め、程度にしか考えていなかった。
 だからその後に告げられた言葉にも瞬時には理解できなかった。

 ──『貴女が大事で言ってるんスから』
 ──『ゆかサンとの会話は楽しいって意味っス』

 うー、唸りながら湯に入水していく。ぶくぶくと空気が浮いて、恥ずかしさと不甲斐なさで本当に沈みそうになる。むしろこのまま沈んで貝にでもなりたい。意味もなく頭も撫でてきて、向こうは明らかに悪ふざけなのに、自分としたことが一体何を考えてしまったんだ。

 ──私も楽しいですけど、ってなに……! 急に気が動転して……!

 なかったことにしたい。がくりと項垂れてしまう。
 世界が移動できるならタイムリープも出来ませんか。
 無意味な願いを心で唱えては湯船の縁に額をくっ付けた。

 ──『そりゃ何よりっス』

 ああ、あれ絶対呆れてたよね。はあ、大きな溜息が湯気に消える。
 あの喜助がこちらの失言に対して敢えて揶揄い文句を避けたということは、呆れて言葉もでなかったのだろうか。そうに違いない、きっと彼はそういう男だ。
 直後にハッと我に返って。逃げるように部屋を出たものだから、彼も違和感を感じただろう。
 幸い、彼の飄々とした性格が気まずさを遠のけてくれる。そこだけは正直助かった。

「儂も入るぞ神野ー」

 がらっと戸が開いて、この悪戯を仕掛けた犯人が入ってきた。かけ湯をしてから対面へと浸る。

「いやあ、我ながら良い湯じゃの」

 夜一は両腕を湯船の縁へ投げやって自画自賛した。

「夜一さん! 私……このまま沈みそうです」
「おうおう、どうしたのじゃ。湯船で物事を考えておるとのぼせるぞ?」
「夜一さんのせいでしょうが。元はと言えば」
「……はっはっは! 喜助のことか!」
「しーっ!! 名前、出さないで下さいよ」
「そいじゃ、詳しく聞いてやろうかの? 何があったんじゃ? え?」
「真面目に聞いてくれなさそうなので大丈夫です。やっぱり貝になります」

 浴室内には夜一の高笑いが一層響いた。
 その声が喜助に聞こえないようにと願いつつ、もう変な返しはしないと猛省した。

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