「んじゃ、ボクはこれから作業するんで。またお話しましょ」
夜一にそれとなく退室を促した。
「そうじゃな、邪魔したのう」そう言い残してから、襖を開け出て行った。
研究物が散乱とした部屋にしんとした静寂が戻る。ふう、小さく息を吐いて気分を切り替えた。
机上の液晶に向かって作業を再開する。カタカタと画面を見ながら打ち込んでは、あれこれ考え合わせて。必要な情報収集に指を動かした。資料を取り出そうと右手を棚に伸ばす。
すると、廊下の奥から軋む足音が。
「うわあっ、夜一さん何するんですか!」
何やら外が騒がしい。この声は明らかにゆかだった。廊下に渡るほどの声を発するなんて彼女にしては珍しく。戸に揺れる影を見つめる。静かになったかと思ったのも束の間。
がた、と響くと同時に戸が勢いよく開き、予想していた人物が転がり込んだ。
「あ……すみません。お邪魔しちゃって」
右手は棚へ伸ばしたまま。見下ろした先のゆかはむくりと転んだ体を起こす。
「大丈夫っスか? ずいぶんと勢い良かったっスけど……」
すぐに夜一の仕業だろうと察知したが、恐らく本人もその企みに嵌められたのだろう。喜助は同情の目を向けた。
「夜一さんに行くように言われて、その」
案の定。立ち上がったゆかはどこかまごついている。
「立ち話もなんですから、こちらにどーぞ。散らかっていてすみませんが」
自室にあった木製の丸椅子を取り出して置くと、ゆかは「そんな、わざわざすみません」と、控えめに座った。喜助はくるりと向き直す。
「それで、夜一サンに?」
「あ、えっと……浦原さんも指導をして下さると聞いて、御礼を兼ねて挨拶を、と思いまして」
そう言う割に歯切れが悪く。眼は右往左往と動いている。その真意に意図がなかなか掴めない。
──夜一サン、妙なことを吹き込みましたかねえ。いやぁ……やりかねない。
ゆかの様子を窺いながら、夜一の目論見に頭を働かせていく。
「ええ、順を追ってですが少しずつ。やることは白打など基本的なことっスよ。そんな身構えなくていいっスから」
緊張を解くよういつも通りに接したが、未だ視線はあちこちへと。
「よ、よろしくお願いします。それから、ビシバシやってくれても私、大丈夫なので!」
ようやく目を合わせたと思いきや、ゆかは威勢よく言い放った。
「……はい。ゆかサン、なんだかいつもより気合いが入っているといいますか……。夜一サンに何て言われました?」
まるで話が噛み合っていないようで、へ? という顔を向けた。
「夜一さんは、浦原さんの指導はかなり厳しいので泣き言を垂れる前にきちんと筋を通した方が良い、と言っていました。なので私もしっかりと戦闘を学ぼうと決心したんです。それを夜一さんに伝えたら、直接言って来いと首根っこを掴まれまして……放り込まれました」
成る程。呆れ気味に夜一の姿を浮かべた。作業があると言ったのに放り込むあたりが実に昔馴染みらしい。
「アハハ、わかりました。夜一サンの脅かしにまんまと引っかかったんスね? アタシの指導は確かに男性には厳しく手荒かもしれませんが、女性にはぜーんぜんそんなことないっスよ」
もちろん泣かせる趣味もありませんし。最後にそう付け足せば、「夜一さん……!!」と。
その顔はみるみるうちに赤面していった。さらに何か思い当たる節があったようで、口に手を添えて考え込む。一気に耳まで真っ赤に。近頃の彼女は人慣れしたように思えたが、言葉遊びにはまだ敏感な反応をするようで。きっとそれを知った夜一も楽しんでいるのだろう。
ころころ変わる表情や声色は見ている分には実に愉快だ。
──やっぱり揶揄い甲斐があるんスよねえ。ねェ夜一サン。
喜助は口の端を緩める。
「またゆでダコみたいになってますよ? ……この部屋そんなに暑いっスかね?」
熱を確かめるようにして右手指先を紅い頬へとあてた。目を見開いたゆかは、ぱくぱくと開閉を繰り返して「だ……大丈夫です」と一言。彼女のわかりやすい反応に堪らずクツクツと喉が鳴る。
「アタシとの修行の決心も結構ですが無理は禁物ですよ? すぐに茹で上がっても困りますから」
頬から指を離すとゆかは慌てたように「こ、これは、違います!」と否定した。
そう言い切ったものの、何が違うのか本人もよくわかっていなさそうだった。
「ではっ、お仕事中にすみませんでした!」
ゆかはさっと丸椅子から立ち上がった。素早く一礼をし、俯き加減でそそくさと立ち去る。
──ああ、すこーし悪ふざけが過ぎたっスかね。
少々言い過ぎたかと喜助は一緒に席を立って、引き戸に手をかけるゆかの後ろにつく。
その上から戸を押さえると、引けない戸に気づいた彼女が振り返り。
「戸を閉めてまで悪戯ですか? いい加減に──」
先ほどよりも冷たい声色の彼女を、手で囲うように見下ろす。
この身長差が妙に遠く感じて、頭を下げて近づけた。
ここまでの至近距離で彼女をまじまじと見るのはあの薬を投与した以来で。
不意にそれが頭に過る。ああ、厭な感覚を想い出してしまった。
こういう時に帽子を被っていれば表情を誤魔化せたのに。眉間が疼いた。
ゆかが後退りする。閉められた戸がその行先を邪魔をして。ごと、と彼女の背中が戸にあたり、喜助も体を止めた。目線の高さを合わせつつ膝を屈めてから距離を詰めて。
耳元近くまで唇を寄せると、硬直するゆかに囁く。
「そんなに冷たくしないで下さいよ。貴女が大事で言ってるんスから」
押さえていた手をゆかの頭に置いて、ぽんと軽く撫でた。
「なっ」
眉根を寄せたゆかは両腕で喜助の顔を遮ろうとする。それを察した喜助は撫でていた手で両腕を振り払った。
「怪しい意味じゃないっスよ? ゆかサンとの会話は楽しいって意味っス」
へえ、今度は赤面しないのか。好奇心に胸を膨らませて反応を眺める。
ゆかは視線を落として何かを呟いた。が、もごもごと口篭ってうまく聞き取れない。
「……も、た…………です」
「はい?」
喜助ははっきりと確かめるべく、その口許を覗き込む。
俯いたまま。目をぎゅっと強く瞑り、彼女が口を開けた。
「……私も、楽しいです……けど」
いつもなら。それに揶揄って終わっていただろう。予期しなかった返答に声を呑んでしまった。
その言葉を理解した時には、こちらも目線を逸らしていて。
彼女が俯いていてくれて良かったと、安堵する自分が情けない。
「……そりゃ何よりっス」
いつもなら。強気に突っぱねられて終わっていただろう。
今日はやけに素直で。最近の言動も著しくそれが目立っていて。いや、率直な感情を出さなかっただけなのかもしれない。にしても、この歳にしてもなお、女に感情を揺さぶられるとは。
──ホント勘弁して下さいよ、夜一サン……。
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