朝方歩いた所をまた見て回るも、特に変わったものはなく。しばらく彷徨う。曲がっては細道へ入り、どれも見知った風景でとても違う場所とは思えなかった。ただ周りの人々の言動がおかしいだけで。するとポケットの中で再び振動が、──プルルルル。
「げ、」画面を見るとまたあの人物が出てきた。応答に戸惑った。
けれど人格まで前と変わらない上司ならば、怒っていても適当にあしらいやすい彼。
「…………はい」
「おい、神野か? 何だ今の間は! 何か喋れ!」
「用があるのはそちらでは」
我ながら上司に向かって酷い口の利き方だと思う。
「お前、またそういう言い方を……。今日、先方には俺から上手いこと言っておくから休め。必要だったら長期取ってもいいからな」
どうやらこちらの神野ゆかも面倒臭い輩には辛辣な態度をとっているらしい。ハナから知らない職場の取引先など行く気もなかったが、変わらぬ上司の性格に正直安心した。
「ありがとう、ございます」
「珍しいな、お前から礼を言われると調子狂うぜ。とっとと体調を整えて来いよ」
内心失礼な、と思いながらも気遣ってくれる彼には安堵の思いが込み上げた。しかし目上に御礼しない部下って一体。あちらの場所ではちゃんと礼節を弁えていたと思うのだが。
「はあ。ではお言葉に、甘え、て……」
──遠く前方から、カランコロン、と。
下駄の音。帽子を目深に被っていて性別までは窺えない。ゆっくりと近づいてくる姿に言葉を失った。その人はこちらを見向きもせず、颯爽と横を通り過ぎて行く。
「おい神野、どうした? 大丈夫か?」
電話越しの上司が心配そうに早口になった。不安げな声色を余所に、目前の人物へ意識が奪われていく。レベルたっか、背丈も服もそっくり。そう心で呟くと、会話の最中だったことを忘れかけ、我に返った。
「いえ、レベルの高いコスプレイヤーが通ったので非常に驚いた次第です」
「そうか。お前、はっ倒すぞ」
続けて「もう時間だから切るが後で連絡しろ」と言い残して、今度は一方的に切られてしまった。
どれだけレベルが高かったのか説明しようと思ったのに。そして振り返ると、すでにコスプレイヤーの姿はなく。代わりに曲がり角から黒猫が飛び出した。
──いや、このタイミングで? これもコスプレイヤーさんの装備の一つだったのかな。
まるである物語に出てくるようなシーンを見ているようで正直興奮した。
好奇心が抑えきれずに頬が緩んでいくと、黒猫はじっとこちらを見つめる。
「なに、完成度たっけーなとか言って欲しいの? ……な訳ないか」
小さく屈み「偶然だよね」と呆れ笑った。にゃあ、と一鳴きしたその猫に「君も餌かな? 野良猫に餌はあげちゃいけないルールなの。ごめんね」と地域マナーを教えてあげた。そうしてその場から離れ、結局何の手がかりも掴めないまま家へ戻ると郵便受けにチラシやら何やらが入っていた。
──郵便受けも変わりなし、宛名も神野ゆか様、か。
ああやっぱり記憶障害なのかもしれない。そう思った矢先、一枚のDMに我が目を疑った。
「住所が、」え、だの、あ、だの。声にならない声で口をパクパクと今にも泡を吹きそうだった。
よく見知ったそれとは全く別の、あってはあらない表記になっていたのだ。
──『空座町』
そこから先は声が出なかった。自分は東京都23区内にいたし、むしろこの地名は架空のもので。
しかも自身のよく知っている、あのお話の地名だなんて。そんなこと、あっていいわけが。
──どうして。一体、何がどうなって、
チラシを持ち、立ち尽くす自分の思考回路は止まってしまった。脳内処理が追いつかない。目の焦点も合わず段々と霞んでいき、倒れそうな感覚に陥る。すると先ほどあしらった黒猫が既に足元まで来ていた。にゃあ、と一声あげると血相を変え、逃げるように家へ駆け込んだ。ばたん! と荒々しくドアを閉め、靴を脱ぎ捨てリビングへ。握り締めたチラシや郵便物をテーブルへ投げやった。
「なんだ、これっ!」
新手のホラーか何かですか、とソファで膝を抱え込み体を震わせる。
あの空座町と言えば、ユウレイが沢山お出ましすることで有名だ。呼鈴が鳴っても絶対出ない、絶対出ない、とホラー映画の最悪なシチュエーションを想定した。
──ここが本当に空座町なら、あの黒猫って!?
もし想定している黒猫が彼女ならなんて無礼なことを。小馬鹿にした言行を悔いた。
「えっじゃあ」
先ほどのカランコロンと下駄を鳴らし、緑色のストライプ帽で歩いていたのって、まさか。
──まさか、本人、だったのか。
確かに今の時期に下駄って寒いだろうと思ったが、あんなに全身フル装備でやって来たら、コスプレイヤーだって思う。しかし、よくよく考えてみれば、コスプレイヤーがこんなイベントもない住宅街へ一人出歩くという違和感に気づくべきであった。
「あー、ちゃんと顔見れば良かった……」
もったいないことをしたと肩を落とす。なにせ物語内ではそれなりに好意的な人物なのだから。完結後も彼の生死をはっきりさせたくて小説を読んだりして。本当に好きな人柄だった。いや、過去形にする必要はないのだけれど、とうに完結して追う物がなく過ぎた事にしていた。
──あれ、だったら手元にあるいつもの小説は?
存在してるものだと本を探してみる。昨日まで通勤時に読んでいたのだ。ないわけがない。ところが鞄を漁るも、どこにも本が見当たらなくて。本棚を捜索してもその形跡すら皆無で。読み物が存在しないことに落胆する余裕もなく、状況把握せねばと無い頭を懸命に働かせた。
「やっぱり、ここは本当に……」
本の風景を見て確信したわけじゃないが、郵便物もアプリの地図も空座町を表示していた。
どこからか、彼の声で「ご名答!」なんて聞こえてきそうなのに。そんなわけもなく自嘲する。けれど恐らくこの場所でもただの一般人。だから映画の物語みたいにはいかないだろう。そんな残念なもどかしさを押さえつけ、憧憬の念を呑み込んだ。
──出会いたいけど、出会っちゃいけない、気がする。
膨らむ気持ちを隠し、線を引くように後退りした。
あれこれ思索したのち別世界の可能性が強まって、度重なる混乱が少しだけ落ち着いた頃。
……ああそういえば、上司が電話しろって言ってたな。それどころじゃなくてすっかり忘れていたが、優しい言葉をかけてくれた上司にはダメ元で状況を報告しようと携帯を手に取った。
「もしもし、」
「おお、神野か。丁度取引先から出てきた所だ。先方さんが心配してたぞ。ちゃんと治せよー」
意外としっかりと面倒見てくれるのか、彼の声音に棘はなく心地良い。一方で、この人はきっと頭がおかしくなった程度でしか見ていないのかも、と感じる程の軽々しい口調ではあった。
「そのことなんですが、」
今朝の出来事、置かれた状況、妙な部分を掻い摘んで告げてみる。ある作品に似た世界とまでは言わなかった。が、存在し得ない物があったことをざっくりと伝えた。部下という適度な距離感。そして上司の性格を信頼しているからこその告白だったが、僅かばかり声が震えた。
「そうか……、よくわからねぇけど、そのままで良いんじゃねぇか? 仕事はまたこれから覚えたらいい。籍はここにあるんだからな。記憶障害とでも言っておけ。早目に病院でも行けよな」
あっさりと受け入れられたことに拍子抜けしたが、恐らく上司の口ぶりからすると、本当に記憶障害だと思っているのだろう。ちょっぴり心が晴れた。
「あまり驚かないんですね、でも、ありがとうございます」
「だーから、調子狂うんだっつーの。いつまでも礼言いまくってたらはっ倒すぞ」
「どれだけ普段の私は無礼なんですか」
「ま、お前自身の根っこは変わってないようだからな。ゆっくり休んでまた職場へ来い」
「はい、また連絡します」
最後は御礼を言わなかった。言いたくなるほどの優しさだったが、上司を安心させたい気持ちの方が上回っていた。それに心なしか気力も戻っている気がする。人に話すと元気になるのは女性特有なのだろうか。
──さて、と。これから変わった所を調べて、出来ることを考えなくちゃ。
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