洗面所で髪の毛を乾かして、軽く身なりを整えた。朝の支度にはあまり時間がかからないのが取り柄だ。逆を言えば、化粧が薄く適当に済ましているだけなのだが。
 もう動じないぞ、と気合を入れ直して洗面所から出る。

「お待たせしましたあ。さ、行きましょう」

 リビングに戻った頃には、喜助はトレードマークの帽子を被り、準備万全の様子だった。

「ゆかサン、湯冷めしないように暖かくして下さいね」
「はい、ありがとうございます。……あ、荷物、すみません」

 予定以上に荷物が多くなってしまい、喜助が申し出て多くを持ってくれた。
 いつまで浦原商店に居なければならないのかわからないが、独りで過ごすより楽しくなってきたと感じる。でもいつかは出なきゃいけない、それはわかっている。その時が来るまでは、このまま楽しく過ごせたらいい。だからそれまでいってきます、と心の中で呟いた。
 玄関で靴を履くと、喜助が「あ、そういえば」と何かを思い出して止まった。

「どうしました? 忘れ物ですか?」

「あ、いえ。これを貴女に返さないと、と思いまして。はい、アタシが預かっていました」

 渡されたのは、昨日までずっと悩んでは探していた白い御守りだった。
 ──喜助さんがくれた、大事な、唯一の。

「あーっ、御守り! 探してたやつ!」
「探してたんスか? もしや、家に帰ってくる理由って、」
「この御守りを探すためです! 失くしたなんて浦原さんにはとても言えなくて……。たぶん襲われた時に落としたみたいで……。ごめんなさい」
「いえ、謝るのはアタシの方っス。返すのが遅れてしまってスミマセンでした。見つけてくれたのは夜一サンっスけどね」
「夜一さんが。今更ですが、黒崎くんを介して御守りを頂いてしまって。ありがとうございました。タイミングを逃したとは言え、御礼がずいぶんと遅れちゃって」

 両手で受けとって「あー良かった、ほんと良かった」と独り言のように呟く様子を、喜助は不思議そうに眺めていた。念仏のように安堵の言葉を唱えながら、今度は失くさないようにと、鞄の内ポケットへしまい込んだ。マンションの廊下へ出ると、喜助が後ろから遠慮がちに告げる。

「そんな御礼なんて。単なる御守りですし何もしてないっスから。それにもう十分、戴きました」
 それにゆかは振り返り、帽子奥に薄っすら見える喜助の目を直視した。
「え、助けてもらって、住まわせてもらって、今朝は朝食まで。全然返せてないですけど?」
「いーえ、頂いたんですよ。ゆかサンには内緒ですが」
「内緒って、意味ないじゃないですか……」

 ──御礼されたら嫌な人っているよね。きっとそういうタイプなのかな、夜一さんもされたら嫌なのかな、と脳裏に遠慮という二文字が浮かぶ。

「別に御礼されるのが嫌だって訳じゃないんスよ、アタシも夜一サンも」
「その読心術はどこで身に付けたんですか」

 逆に怖いよ、とこつこつ階段を下りていく。一段下るごとに、ああ昨日はこの階段で担がれたんだ、と思い出してしまう。あの非現実的な情景にまた心が騒ついた。
 それにしても、彼は人の心を読むのは得意なのに、こちらからは何考えてるのか掴めない。
 ほんと狡い人だなあと悪態に感心を秘めた。
 マンションの扉が開いて外へ出ると、雲行きは怪しくなり始めていた。

「もう降りそうですね。傘持ってきて良かった」
「寄り道できないっスね」

 どこか寄りたかったのだろうか。そんなことを聞いてもなあ、とそれは口には出さなかった。
 一本道を歩き始めたあたりで鼻先に冷たいものを感じた。「あーあ、降ってきた」そうゆかが呟き、手に持っていた傘をワンタッチで開く。喜助は背が高い。自分が持つ高さで収まるだろうか。
 横目でちらりと窺うと、喜助は「アタシが持った方が、腕が疲れませんよ」と傘を奪う。
 やはり察しが早かった。

「荷物も持って傘まで。ほんと申し訳ないです」

 背は足りないわ荷物は重いわで自分のポンコツさを嘆いた。

「アタシが勝手にやってることっスよ。お気になさらず。それに、」

 喜助の返事に礼を言ってから、次の言葉へ耳を傾ける。

「それに?」
「相合傘って憧れません?」

 そろそろ赤くなる顔も反応に慣れてきた。
 出会ってからこうも畳み掛けて揶揄われると、変な汗が滲むことも少なくなってくる。
「憧れって……、学生じゃないんですよ。まさか、したことないとかー」
 揶揄いに動揺しないことをいいことに、ちょっと強気に発言してみた。言われてばかりじゃない。

「だとしたら可笑しいですか?」
「……は?」

 想定外の真面目なリアクションに拍子抜けして恥ずかしくなってきた。
 まさか、そんな訳ないでしょ、と横目で喜助を見やる。

「よ、夜一さんとか、雨ちゃんとか、いるでしょう?」
「相合傘って、特別なヒトとするからそう言うんスよ?」
「まーたそういうこと言って。否定しないってことは、あるんじゃないですか」
「手厳しいっスねぇ」

 けらけらと 笑う喜助は、この会話を楽しんでいるようだった。

「だんだん冗談に慣れちゃったんスかねぇ」と少しだけ声色に残念さを滲ませて。
「夜一さんの気持ちがわかってきただけです」

 そう正直に告げると、喜助はまた笑い声を零した。今日はよく笑ってくれる、そんな気がした。

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