「ゆかサン、起きてくださいな。お薬飲みますよー」
両肩を持って前後に揺するも起きる気配がない。そう、彼女の体内にはまだ虚の一部が潜伏している。また悪夢を見られては、苦しい思いをさせてしまうのに。
幸いなことに、対象の霊体解析は完了している。
早ければ今晩、就寝前にでも飲ませて反応を窺おうと思ったのだが、これでは飲ませられない。
──対抗薬は一応、持ってきているんスけどねぇ。
一回起こさないと、と悩んでいた矢先、それは唐突に始まった。
ゆかの霊圧が、急激に乱れ始める。
「──なっ」
目の前で突然始まった現象に、喜助は目を見開いた。
「うっ、」
ゆかが息苦しそうな声を上げる。
喜助は瞬時にこれの意味することが、たった今懸念していた出来事だと確信した。
──よりによって、こんな時に……!
喜助は苦虫を噛み潰したような表情で懐から薬を出した。
「……っ、ゆかサン! 起きて下さい!」
声を荒げて体を更に大きく揺らすも反応はなく、ただ辛そうに顔を顰めるばかりだった。
まずい、深い睡眠であればあるほど向こうにとっては都合が良い。しかも睡眠不足のあとの、この眠り。以前のように簡単に呼びかけただけでは起きるはずもなく、──。
「だれ……か」
うわ言で助けを求めるゆかの眉間には皺が寄り、額には汗が滲んでいた。
喜助の頭には真っ先にあの時の状況が蘇る。どうする、と躊躇したものの考える間は無かった。
もはや奴が優勢だとしたら。起こして投薬することに希望をかけられない。最悪の事態はもうそこまで来ている。
喜助は、無理矢理にでも悪夢を消滅させる他ない、と楕円形の錠剤を手に出した。
瞬時に自身の口へ含み、カリッ、と錠剤を飲みやすくなるよう噛み砕く。
「これは不可抗力っスよ、恨まないでくださいね……!」
ゆかを横に寝かせ、口を開ける。器官に入らぬよう食道までの経路を確保した。
躊躇いなく喜助が唇をつけると、舌で勢いよく喉の奥まで錠剤を滑り込ませた。
入れた錠剤を冷めたお茶で流し込んだ。すぐさま口を押さえ、吐き出すのを防ぐ。
「んんっ、」
ゆかは嚥下の反射運動で自然と飲み込めたようだ。
飲み込む際にむせそうな声が聞こえたものの、強力な悪夢の影響で起きる気配はない。
彼女の口を掌で押さえて、何秒経ったのだろう。たったの数秒が、数分にも感じられた。
荒かった吐息や苦しそうな顔色が次第に落ち着きを見せ、ゆかは再び小さな寝息を立て始めた。
「……間一髪、っスね、」
安堵の息を零した喜助はこれでもう悪夢は見なくて済むだろうと確信した。
口移しで投薬したあと、起こさぬようゆっくりと離れてゆかを上から見下ろす。
照明に照らされた艶っぽい黒髪を撫でてみると、柔らかな絹のような感触が指の腹を刺激した。
そしてごく自然に、ゆかの唇へ自身のものを近づけていた。
彼女の唇についた悲痛な痕が目に入り、触れる前に我に返る。
柄にもない自身の行動を自覚すると、どくん、と心音が高鳴り慌ててゆかから離れた。
喜助は口許に手をかざし、何事もなかったかのように装った。
──今、何をしようと……。
そんなに慾に流され易かったのかと再び自己嫌悪に陥った。
それとも単なる口移しで僅かな煩悩が入ったか? 口移しなど、人口呼吸と変わらないじゃないか。ただの気の迷いだとしても、あり得ない。全くこの弱さには反吐が出そうだった。
このままでは倫理上も精神衛生上も良くないと、仰向けのゆかから体を退けた。
そんな気も知らずに、ゆかは規則正しい寝息を立てている。
これは暫く起きないだろうな、と安易に予想できた。彼女が起きたら口移しを話の種に揶揄ってやっても良かったのだが、自分がこの様では笑い話にもならない。
「……ゆかサン、寝室、失礼しますよ」
冷えますからこちらで寝ましょう、と横抱きした。パチ、と寝室の電気をつけてベッドの上へと運ぶ。先ほどの一件があってか傍に居たら悪いなと後ろめたくなり、喜助はソファへ戻った。
そこで仰向けになると、テーブルに置かれた帽子を顔の上に乗せ、暫く頭を冷やすことにした。
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