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「あのー、ゆかサン……?」

 彼女を腕に閉じ込めたまま呼びかける。最初こそ小さく声を上げて涙を流していたが、その後は静かに肩を震わせていた。恐らく数十分間は声を殺して泣いていたのだろうか。収まったと思い名を呼んでみれば、寝息を立てていた。どうやら泣き疲れてしまったらしい。
 ここ最近の彼女は、未だ体内に残った虚に怯えていたせいか、眠りが浅いようだった。いつ襲われるかわからない不安で数時間おきに目を覚ましている、と夜一が憂いていたのが記憶に新しい。やっと安眠できたのかもしれない。そう思うと無理もないか、と起こすのを控えた。

「失礼しますね」

 密着していた体を剥がす。今にも涎を垂らしそうな勢いで寝ている。ふ、とその顔を覗くと、睫毛がまだ濡れていた。喜助は袖口でそれをそっと拭った。その周りに視線を落とせば、涙の跡が目についた。更にその下には、噛み締めていた唇が悲痛な痕を残している。
 そんな彼女の姿を見ては、心が痛んだ。

 ──こんなつもりではなかった。

 少しだけ核心に迫って確認しようとしただけだった。だが、彼女の方が察しが早かったらしい。こんなに取り乱す姿を目の当たりにするとは、唯一の盲点だった。
 彼女にとってこの話は単純なことではないようで、早まったことをしたと。
 後味悪く、後悔と呵責が尾を引く。

 ──『でも、私、本当は……』

 ゆかがその先を言おうとした時、どうして阻止したのか。その先を聞きたくなかったのか、いや追求心はあったはずだ。真実が判明した可能性もあったのに、あの現象に興味があっただろう。
 自ら起こした行動に、正直戸惑いが隠せなかった。

 ──何してんスかね、本当に。

 喜助は小さく息を漏らすと、金色の前髪をくしゃ、と握り頭を抱えた。
 面倒事に関わる気など、なかったのに──。
 彼女に対する情けで繋ぎ止めたこの関係は、いつまで続ければいいのか。
 取り乱した時に彼女へ告げた言葉、あれは本心だ。あの娘の泣き顔や辛そうな表情を目にすると、罪悪感で一杯になる。それは出会った頃の意識となんら変わらない。ならば、所詮は己が傷つくのを恐れ、保身のために出た言葉だったのかもしれない。

 ──ああ、酷い男だ……。

 ただ一つだけ、納得のいかないことがあった。それは彼女が『一護』と紡いだこと。
 特段親しい訳でもなさそうなのに、慣れたように呼んでいた。あの時のゆかの様子は感情的になり、うっかり口走ったようにも思える。敢えて彼女なりの意図があったのだろうか。思い返せば、霊力暴発が起こり彼女と対面した際も、似たような現象があった。

 ──そう、あの時も『きすけ』と。

 あれは決して聞き間違いではない。
 どうやら彼女は覚えていないらしく、であれば無意識に名を発したことになる。となると、どうも納得がいかない。
 あの呼名にも何か理由が? と考えると、様々な可能性が浮上する。

 ──なぜ、名前を。……逆に、避けているのか。

 普段は苗字を、例外時に下の名を。可能性の中でも万が一の最悪な顛末が彼女に秘められていたら。彼女は敵にもなり得る。少しずつ彼女から信頼を得てきた以上、なるべく疑いの目は向けたくはない。そんなに自分は、彼女にとって善の存在で居たいのか。喜助はなんて浅はかな考えだ、と自己を嫌悪した。入り混じった感情をなかったように押し込み、頭を垂れるゆかへと視線を戻す。

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