聞きたいことは山ほどあるが、まずは荷物をまとめた方がいい。
自室が落ち着くとは言え、のんびりしに来たわけじゃないし、喜助はお店を空けて来ているのだ。
「すぐに荷物を詰めてきますね」
ソファを立とうとした時、喜助に手首を掴まれ阻止された。
「えっと、なにか?」
「腕、冷たいっスよ。支度は暖まってからでどうですか」
半ば強引に腕を引っ張られ、再び座らされてしまった。
そして喜助はなぜか帽子を取ってこちらに被せた。何を考えているのかさっぱりわからない。
ふわ、と彼の香りが鼻腔を掠めると同時に眩む。階段もまともに上れなかったし、大丈夫だと思っていても、まだ体調が優れないのかもしれない。帽子を被っていない喜助は見慣れたつもりなのに、自分の家となると、どうもその絵面に慣れなくて戸惑う。
「じゃ、じゃあ、テレビでもつけましょうか!」
おどおどしてしまって、テレビに逃げることにした。
だがテレビをつけてみたところで、無言が続いてしまう。
──なにこの空気、この状況。
ゆかは被らされていた喜助の帽子をテーブルに置くと、右隣の喜助にさりげなく視線を送った。
喜助はずずっとお茶を一口啜り、マグを置いて一息つく。
「アタシに聞きたいこと、あるんスよね?」
中々言い出せずにいたゆかに代わって、勘付いていた喜助が切り出した。
「はっはい」
「何が聞きたいっスか? 虚について? この世界について? それともなぜ貴女を助けたか?」
こういう時の喜助さんはちょっと怖い、そんな印象を受けた。
どれも全部を答えてはくれなさそうで、信じ難いことを伝えて自分が取り乱したら、彼が諭す。
そこまでが目に見えて想像できる。でも話を切り出すからには、弱味を見せない、動じない。
そう心に決めて、核心に迫る話をすることにした。
「いえ、私の名前や家は、黒崎くんから聞いてたから、知ってるんですよね?」
並べた予想とは別のことを聞かれた喜助は、驚いたようだった。
「……そっスね、はい。黒崎サンから霊感が強い人がいる、と」
喜助はテレビに流れる映像を眺めたまま答えた。
質問してから、こちらを見ていない、一度も。その違和感に気づきながら、事実を告げた。
「私、一護には、家を教えていません」
返答の後、彼はゆっくりとこちらに顔を向けると、低い声で言った。
「ずいぶんと親しい呼び方っスね」
無意識に『一護』と呼び捨てしてしまい、はっと口に手をかざした。
「みんながそう呼んでたから、つい。そんな事より、」
皆と言っても実際会った人は少ない。どうかこれで凌げますようにと願った。
そして喜助は、また視線をゆかから逸らし、俯き加減で零す。
「何故、アタシがこの場所や貴女を知っているか、っスか」
参ったな、と言うように右手を首裏に。彼は意を溜息を吐いた後、続けて口を開く。
「貴女は気づいていないかもしれませんが、アタシは最初から貴女の存在に気づいていました」
「……ストーカーってことですね」
「聞こえはそうですが、違います」
「わかってます、冗談です」
冗談を交えて淡々と受け答えを続ける。変な感情に流されては、自分を見失うだけだ。ある程度は心に余裕を残しておきたい。けれど、最初から知っているとは。意味がよくわからない。
「黒崎サンから、ゆかサンが越してきた、と聞いたのは三週間ほど前のことです」
「ちょうどそのくらいですね」
間違ってはいない。この空座町に来たのは、ちょうどその頃。朝方に体験した地震が原因だと思い込んでいる。すると喜助は「スミマセンが、」と前置きをした。
一体何に謝っているんだと思った直後に、彼は話を掘り下げていく。
「その時期に気になる事象がありましてね、黒崎サンの話を聞いたあと、ついでにこの辺りへ引っ越して来たヒトを調べたんス」
じわりと手に汗を握り、説明に耳を傾ける。
だが傾ける間もなく、理解してきた。彼の言う『最初』と『私の存在』の意味を、──。
「残念ながら、いないんスよ」
彼が結論を発すると同時に、互いの視線が交わった。
──バレる、終わる、何もかも。
脳が警鐘を鳴らす。正直ここまで自分の存在に話が迫るとは思わなかった。
むしろ、予想以上に何かを探られていた。そして何よりも、喜助の話術と頭脳を甘く見ていた。
あの時、動じないと決めたゆかの心に動揺が広がっていく。
「貴女も、ずっとここに住んでいる記録がある」
「っ、……」
それが意味する事実に耐えきれず、顔を背けた。鋭い眼光がまるで刃物のように恐ろしくて。あの眼で真実を突きつけらえたようで、俯いたまま唇を噛み締めた。彼がどこまで突き止めたのかわからないが、薄々勘付いていそうだ。きっとどうにかして前の世界に送還されてしまうのだろうか。
元々、この場所の人間ではないのだから。
──落ち着け、落ち着いて、考えるんだ。
ああ、あんなにも元の世界をなかったことにしないと心に誓っておきながら、元に戻りたいと願いながら、人の心は季節のように移り変わっていく。落ち着いて考えたところで、すでに答は出ていた。こんなにも、失いたくない。どちらの世界も、本物だ。
その答えが我が儘で、どんなに自分勝手だとわかっていても、自分にとってはどちらも現実。
その狭間で取り乱すまいと、必死に感情を律する。
「それで。どうしますか、私を」
──追放でもしますか。
全てを恐れて、その言葉は音になることなく、喉の奥へと引っ込んだ。
目尻には薄っすらと涙が滲み出てくる。決意は何て脆いのかと堪えながら唇を噛む。元の場所へ戻す術などあるのかは知らないが、彼なら何とかしてしまうだろう。だがここの皆との出会いが無かったことになるのは、辛かった。
「違う、違うんスよ、ゆかサン」
一体、何が違うのか。真実の答えはすでに彼の頭にあるのでは。喜助は歯切れが悪かった。
その表情は眉尻を下げて戸惑っているようだったが、こっちが困惑したかった。
そういう結論へ誘導したのではないのか、と。
「今日は、ここまでっス。貴女の辛そうな顔を見ると……、こちらまで苦しくなる」
「なんで」
消化不良ですっきりしない。真実が告げられそうでそうでなくて、このもどかしさが疎ましい。
袋小路も同然の状況に、一層のこと白黒はっきりさせてしまいたかった。事情が明るみに出るのも、遅かれ早かれ時間の問題に過ぎない。もういい、傷は浅い方が諦めもつく。若干、自暴自棄にも似た心情に囚われていた。
「でも、私、本当は……!」
そう声を荒げた瞬間、腕を引かれた。何を言おうとしたのか、頭から全て消えてしまった。
頭の中が真っ白になっていく。その中でただ一つ認識できたのは、深緑色の作務衣。
──後頭部に手を添えられ、抱きしめられている、そう理解したのは数秒経ってからだった。
喜助の心音が聞こえる。自分のそれと混じってわからなくなるほど、どちらも大きく響いていた。
「……いいんです、今は。貴女は、ここに居るじゃないスか」
ここに居る。この感情も感覚も全て現実でいいんだと喜助から諭されたようで。耳元で囁かれた低音が、先ほどまでの決心を裏切るように、涙腺を刺激する。考える間もなく、心の底で抱え込んでいたものが、堰を切って溢れ出した。自身で否定していたものを肯定され、我慢だとか弱味だとかもはや関係なく、これを止める術などなかった。
声にならない声で咽び泣くさまを、喜助は静かに抱きしめていた。
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