いつも何かしら考え事をしている印象はどこの場所でも変わらないんだなと感じた。
「お待たせ、しました」
靴を履き終え、店の外へと出た。待たせているとわかっては、ゆっくりしていられない。
ゆかの声に喜助が振り返ると、扇子を翳して微笑んでいる。
「急がなくても。そんなに外へ行きたかったスか? アタシと」
どうしてそういう言葉がぺらぺら出てくるのだろう。
久々の外出に浮かれていたせいか、その質問に「そうかもしれないですねぇ」と肯定に返した。
喜助は「あら珍しく素直っスね」と口角を上げて。彼と出会ってから一週間ほどしか経っていないが、お世話になるにあたって会話は欠かせない。最初こそ緊張していたものの、以前の憧れの人ポジションは少しずつ降格され、今では胡散臭い世話好きの店主にまで心を許すようになった。
「失礼ですね、私はいつでも素直で天真爛漫ですよ」
自然と冗談が言えるくらいになった。
上司に対して使うそれと同じような返しで、安定感も出てくる。
「自分で言う言葉じゃないっスよね、それ」
「う、」──前言撤回。慣れないこどを言うもんじゃないな、と反省した。
「でも、貴女はよく笑うようになった。そこは素直で天真爛漫っスよね」
帽子奥からこちらを見下ろす喜助。その双眸が優しく細められていて、別人の表情かと思った。
自分の知らない喜助が、また一つ増えていく。
「……こうやって、他人から言われる言葉っス」
扇子を広げ、にこやかに勝ち誇る物言いは、よく知っている喜助だ。
「わ、わかりましたよ、揶揄い方が意地悪いですよ」
なんだ冗談か。揶揄されて暗い影が残る。なんだか変にもやつく。単に喜助の言い方が意地悪なのかと思うと、それだけで落ち込む心の狭い自分に嫌気が差した。
「揶揄ってないんスけどねぇ……。ほら、行きますよ? 散歩」
喜助はゆかの歩幅に合わせて歩き出した。病み上がりな体、背丈も標準。見上げるくらい高い喜助はもっと早いペースで歩くのだろう。直前のやり取りと打って変わった些細な優しさに心がじんわりと温かくなった。それが気のせいでも、嬉しい。
何も考えずにただ歩いては、喜助と今日は天気がいい、などと他愛もない会話をしていた。
そうして気づけば、自分の家近くまで来ている。
この角を曲がればマンションまでの一本道。つまりそこは、襲われたところ。
蘇る記憶と恐怖は足取りを重くさせ、次第に全身が、すくんでゆく。
「あ、あの」──やっぱりちょっと不安なんですけど、そう思って声をかけた。
「まだ怖いっスよね。ここ、通るのやめときます?」
皆まで言わずとも彼はわかっている。
もしやここまで来たかったことも、敢えてついて来るのも全て想定内だったのか。
「いや、行かないと。でもちょっとだけ待って、下さい」
呼吸を置いて立ち止まる。右に立つ喜助は黙ってゆかの言葉を聞いていた。
「……あの時みたいな、状況じゃないし。もう大丈夫、です」
ぽつりぽつりと絞り出した声は、自分を奮い立たせた。
「そっス。アタシが居ますからね」
悔しいが、今回は自信家な喜助の言う通りだ。ここを通らないと家には辿り着けないし、一人で来ていたら、足が止まってに折り返していたかもしれない。
「ありがとう、ございます」
ゆっくりと道を歩いていく。ああ、ここで襲われたな、と辺りをまじまじと眺めた。不思議なことに、そこには何事もなく綺麗に修復されたのであろう道路が続いていた。
「こちらこそ、ありがとっス。ゆかサン」
「え、なんで?」
感謝される筋合いなど、と思っていると、にんまりと喜助がゆかの右手を指差した。
ぎゅっと掴んでいる羽織の裾が目に入る。知らぬうちに、なんてことを。
ちょっと待って下さい、と呼び止めた時にでも無意識に掴んでしまったのか。
「うわっ」恥ずかしくなって堪らず手を離そうとしたのだが、彼の手にそれを防がれた。
「ああ、そのままで。はい、素直でよろしいっス」
ゆかの手は彼の服を掴み、その甲を彼が上から抑えている。この非現実感の溢れる状況を見て、一気に目眩がした。一方、喜助はにまにまと楽しそうだ。
──いくら自分がした事とはいえ……! 完全に遊ばれている……。
そっと喜助の手が離れても、自分の右手は硬直したように握ったまま。
ああ言われては、離すに離せない。右手はそこへ置いてきたことにして平常心に努めた。
──違う違う、今は御守りを探すことに集中するんだ!
惑わしにやられそうになったが、本来の目的に思考を戻した。ゆかはキョロキョロと再び見渡していく。それだけじゃ見つからないよね、と肩を落としつつ歩くと、襲われた場所はあっと言う間に通過した。全然怖くなかった。恐れを感じさせずに通ることが出来たのは、喜助のおかげか。別ことに考えが移り、恐怖する間すらもなかったと思う。
「何を、周りばかり気にしてるんスか?」
鋭い喜助は、すぐさま問いかける。
「い、いや! ご近所さんに見られたら、ねぇ。ほら」
咄嗟に口任せの嘘を吐いてみるも、きっと探し物くらいバレるんだろうな、と思っていた。
「……嫌っスか、アタシと居るのを見られるのは」
「えっ」
「なーんて、冗談スよ」
そう笑って冗談を放つ。何でもお見通しの喜助は、そこには居なかった。
喜助さんでも読み間違える事もあるんだな、なんて呑気なことを思いつつ、「そういう訳じゃないですよ」と当たり障りなく返した。
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