朝方、時刻はまだ陽も出ていない午前五時頃。
 下からつき突き上げられる大きな揺れでバッと上半身を起こす。轟々と音が響き床が揺れている。地震だ。そう確信したゆかは勢いよくベッドから飛び降りて、貴重品と上着を手にした。

 ──怖い、まだ揺れてる……。とにかく外へ出なきゃ。

 電気はまだ通っているようで玄関の灯りをつける。

「なん、なのっ! この揺れ、」

 一向に鎮まらない地震に恐怖を抱きながら走って表へ出た。三階の部屋から階段を駈け下り、転びそうになったがマンションの自動扉が開いて安堵する。「はあ、はあっ」呼吸を整えると、恐怖していた心も次第に落ち着き始めた。
 低い外気温が徐々に身体の熱を奪っていき、薄着で出てきたことを実感させる。今は秋から冬にかかる季節。陽も出ていない空の下、パジャマに上着一枚で立つ行為は危険だ。ゴミ出しでもない限り。しかし何かがおかしい。辺りを見回して気づいた。

 ──外に誰もいない。 なんでだろう、そんなに大きな揺れじゃなかったってこと?

 不安に煽られ、マンション前の通りを歩く。どこも壊れてはいない。揺れた形跡もなかった。街に変わったところはなく、ただ自分だけが薄着で歩いている事実に落胆した。肩まで垂れる黒髪も横跳ねの寝癖を残したままで、その姿は滑稽に見えた。
「夢、だったのかな……」落とした声は、閑散とした道路へ消える。
 長い間揺れていたし焦るほどリアルな感覚だったのに。ゆかは困惑した。考えても考えても答えは出なかった。テレビでも見て確認しよう。緊急速報なら今頃出ているはずだとしかめっ面で来た道を戻る。マンション前に着くとこの辺をうろついている白黒の猫たちが餌くれと言わんばかりに、にゃあにゃあと擦り寄ってきた。

「はいはい、ごめんね、餌はあげられないんだよ」

 代わりに近所のお爺ちゃんが餌をあげている日々を知っている。後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。部屋に入ってテレビをつける。妙だ、チャンネルを幾つか変えても欲しい情報がない。結構な地震だと思っていたのに被害が皆無だったのか。やっぱり自分が見た夢だったのか。滅多に夢なんて見ないのに。そうだとしても、そんなに疲れていたのか? 
 思考が堂々巡りしたまま、朝のニュース番組をただ呆然と見つめていた。
 こんなに早朝から起きることはなく、仕事がある平日も直前まで寝て慌てて出ることが多い。横になっているうちに再び睡魔に襲われる。時刻はまだ五時台だしあと二時間は大丈夫だろうと、寝室へ移動すると仰向けに転がった。

 ──プルルル。枕元で一定の長さを保ち、鳴り響く。携帯の着信音で目が覚めて。発信元を見ると『上司』とあった。職場の上司が電話? なぜ。訝しみながら通話をタップした。朝から電話なんて、その前に上司に番号教えてたっけ。ぼんやりと寝ぼけ頭で「もしもし」と話す。

「神野か!? 今どこにいる!」

 声色は確かに自分の知る上司だが、その口調はとても怒っているように聞こえた。
「え、自宅ですが?」そう言い放った瞬間、一度言葉を呑んだ上司は勢いよく怒鳴り始めた。

「お前、何考えてんだ! 今日は取引先に向かうから、七時には最寄りへ来るよう昨日も言っていただろう! 忘れたとは言わせねぇぞ!」
「……え? 取引先、ですか? 私が取引先へ向かう?」
「当たり前だ! お前の顧客なんだからな、寝ぼけてんじゃねぇぞ!」

 上司の怒声は止まらない。しかし身に覚えがない。そもそも職場は営業なんて関係なかった。おまけに職種はアシスタントに近い内勤事務。専属秘書でもないし外へ出たことなんてまずなかった。

「あのお、どなたかと間違えて電話されてませんか? 貴方は私の職場の上司ではないはずです」

 自分が正しい、そう確信しているゆかは攻防戦を終わらせたい一心で告げた。

「はっ? いつもお前に電話しているだろう神野ゆか! 俺をからかっているが今回ばかりは」

 プツ──。思わず怖くなって、話している途中で切ってしまった。頭が、脳が、警報を鳴らしていたのだ。何かがおかしいと。上司の声は知っている。向こうも自分の本名を知っている。だが今まで何年も勤め続けた職場を勘違いする訳がなかった。

 ──もしかして、今朝の地震からおかしくなった……?

 机上にある倒れたままの置物。やっぱり地震はあったはずだ、あの出来事は本物だった。ゆかは改めて確信に至った。それをどうしても立証したくて、急いで身支度をするといつもお世話になっているお隣夫婦の奥様に聞いてみることにした。

 ──七時半か、ゴミ出し場で待ってたら来るかな。

 早めに外へ出てから暫くゴミ袋を片手に立ち辺りを見回していると、案の定。ちょうどゴミ出しで偶然ですね、という面構えで奥様と鉢合わせした。

「おはよう、ゆかちゃん」
「おはようございます。……今朝、大丈夫でした?」

 向こうから声をかけてきたので本題に入った。地震があったのだから不自然ではないだろう。

「今朝? 何かあったかしら?」

 予想外の返答にゆかは思わず目を見開いた。あれだけの揺れに気づかないなどあるのだろうか。

「えっ、えっと、結構大きな地震がありましたよね?」

 段々と半信半疑になりつつも、自分の確信は揺るがしたくはなかった。

「あら全然気づかなかったわあ。うーん、ウチは平気みたいよ」
「そう、ですか」
「それじゃ、そろそろウチの子保育園に連れてくからお先に戻るわね」

 そう言い残した彼女がゴミ置き場から玄関へ向かおうとした時、矛盾に気づく。

「……あれ、お子さんいましたっけ?」
「何言ってるの、この間も公園で遊んでくれたじゃない。二人目はまだだけど」

 こちらの様子が変だと言いたげな奥様は呆れ気味で。

「あ、あはは! そうでした、二人目かと思っちゃって、つい……」

 咄嗟に笑顔を貼り付けて。そのまま機械のように手を振って奥様を見送った。

「また遊んであげてね」「はい」そう答えるも、そんなはずはない。これは知っているようで違う。それか自分の脳内がおかしくなってしまったかのどちらかだ。まさか記憶障害でも起きてしまったのか。あの奥様には未だ子供がいなかったはずだ。いや、そう認識している。なぜなら子供と遊んだ記憶がない。それに世間話程度にしか話をしなかったが、確かにこれからと言っていた。
 手を繋いで仲睦まじく前を歩く夫婦。それを見つめながら帰ったことが何度もあった。
 微笑ましい光景をくれた夫婦に、勝手ながらも勇気を貰っていたのだ。

 ──自分の記憶を、気持ちを無かったことにはしない、調べないと。

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