「──テッサイ!!」
喜助が店内へ上がり叫ぶと、奥から「店長! 至急、こちらへ!」と野太い声が返ってきた。
駆け足で部屋へ入ると、テッサイが鬼道で空間を抑えていた。先に飛び入った夜一は、猫の姿のまま隅からゆかへ近づこうとしていた。
「神野殿! 聞こえますか、落ち着いて下され!」
部屋からは轟々と突風が巻き上がっている。テッサイの呼びかけは届いていない。彼女は渦巻いた風の中に独り立っていた。窓硝子は割れ、飛び散って。その硝子が飛び舞い、彼女に小さな切り傷を幾つか作っていた。皮肉にも、まるであの晩のかまいたちのように。自分自身を傷つけている。
「神野、聞こえるか! ……テッサイ、一体どうしたのじゃ」
「それが……神野殿の霊圧に揺れを感じ見に来たところ、立って読書をしておられたのですが、急に異様な霊圧になっていきまして」
夜一自身も彼女からは落ち着いた、世辞にも強いとは言えない微かな霊圧しか感じていなかった。
まるで別人だ、まさかこのような事態になるとは、と驚きを隠せない双眸でゆかを見やる。
「……急激な霊力の増大、暴発。そこから制御不能の霊圧で渦巻いてるっスね」
喜助は帽子を抑えながら、冷静に続けた。
「この圧はちょっと想像以上っスけど」
「それはわかっておる。何故、あの神野がこの様な……。いや、今は原因よりも神野を優先じゃ」
「仕方ないっスね、ボクが抑えます。危険因子の扱いには長けてるんで」
その言い様に、夜一が喜助を止めようとしたのも束の間、彼の辛辣な表情を受け声を呑み込んだ。
喜助は大風に立ち向かうように、直立不動の彼女へと近づいていく。
「ゆかサン、」
真正面へ立ち、呼びかけるも視線が下を向き朦朧としている。喜助に気づいていないようだった。渦巻く霊圧の中、喜助はゆかの左肩に手を乗せて目線を合わせる。彼女の目は薄く開いているものの、焦点があっていない。喜助はその様子を見て、目を細めた。さて、どしたものかと困ったように自嘲する。右手はゆかの肩に乗せたまま左手で帽子を外し、その帽子を自身の胸に当てた。
「ゆかサン、アタシです」
顔を晒してから懸命に呼びかけ、ゆかの意識を戻そうとする。
「落ち着いて下さい。聞こえますか」
贖罪意識からか、意に反して胸が苦しい。他人にこんなにも感情を揺すぶられるのは百余年前の再来を彷彿とさせる。彼女との関係を繋ぐ罪悪感を皮肉なほどに受け、再び事態を悪化させてしまったことを胸中で詫びた。ここで彼女の意識があったなら、スミマセンの一言も言えただろうに。この荒れた姿を見ると、いつものように軽々と言えなかった。
「……って聞こえる訳ないっスよね、」
無害な彼女を手当てして、この世界の如何なる危険から遠ざけることさえ出来れば良かった。それだけなのに、想定の更に上へ、彼女自身が危険な状態に近づいている。いくらその可能性があったとは言え、時が早過ぎる、喜助はそう感じていた。あの夜、助けに向かった時もそうだった。強く周りを感化させやすい霊圧の黒崎サンを近づけては、瞬時の暴発も有り得た。だから自ら出向いたというのに。結局、調査に手こずり、多くの生傷をつけてしまった。今回も、この様。
「致し方ないっスね」
こうなっては力尽くで意識を落とした方が早いと、喜助は帽子を投げ、空いた左手に拳を握る。
鳩尾に小さく白打を入れたら収まるだろう。もしくは縛道でもかけて強引に収めるか。いや、縛道だけでは根本的に霊圧を鎮めることは出来ない。一般の女性に手をあげるなど、と躊躇いもあったが、憎まれても仕方ないと覚悟する。喜助は意を決して拳を握り直すも、また怪我を負わせてしまうことへ自責の念を感じずにはいられなかった。しかし自分が止めなければ、テッサイや夜一に任せる羽目になる。
──本当に申し訳ない。
どうせ憎まれるのなら、と最後は彼女の双眸を見据え、詫びながら名を呼んだ。
「すみません、ゆかサン」
喜助が白打を入れようと左拳に霊圧を込める。その直後だった。
「……きすけ、さん」
女の声色。それは紛れもなく目の前の彼女、ゆかから出たものだった。
喜助は唐突に名を呼ばれ、目を丸くした。そして嵐のような霊圧は何事も無かったかのように、しん、と静かに収まっていた。
「……もう大丈夫っスよ。皆、ここに居ますから」
自身にも言い聞かせるように彼女に告げた。自分としたことが、この不可解な事象に戸惑っている。喜助は力んだ拳を解き、両手でそっとゆかの肩を抱いた。彼女は長いこと増大した霊圧を放っていたせいか、肩を支えられたと同時に意識を失っていた。すうすうと寝息を立てているようだったが、暴発した霊力とその圧のお陰で、内部に潜む虚は抑えられているはず。喜助は小さく安堵の息を零した。そして少し離れた所には、落ちたタオルと読んでいたであろう本が。
ああこの娘は独りで懸命に戦っていたんだと悟った。
──居ない間に、無理をさせてしまった。
背後から、声が飛び交う。
「店長、一体、何をしたので……?」
「儂も喜助が白打を入れると思った矢先に、急に霊圧が収まりおったから、何が起こったのか」
ゆかを支えながら、喜助が振り返った。
「ボクも何が何だか、ハハハ。ま、結果オーライってことで」
「神野にはまた生傷が増えてしもうたが、お主に気絶させられずに済んで良かったとしよう」
夜一は歩み寄ると、ほっと胸を撫で下ろした。
「ええ。本当、良かったっス」
つられて喜助も溜息を零しながら彼女を見やる。
夜一は喜助の視線を見逃さなかった。ゆかを見守るように眺めたその眼差しを、──。
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