喜助が部屋に入りそれに続く。
 無音を閉じ込めるように、ゆかは彼に背を向けて静かに戸を閉めた。後ろめたい気持ちが足取りを重くさせる。埃っぽい彼の自室はどんよりと暗雲すら感じさせ、パチ、とつけられた蛍光灯の明かりもそれを晴らすには心許ない。

 先日に嫌だと言ってしまってからぎくしゃくしたような、不穏にさせたことには反省した。なのに漠然としたこの先へ不安は一向に拭えなかった。あれを繰り返してしまったらと思うと本心を告げることが億劫で、怯んで。この恐怖の芽を知らない振りにしてしまいたかった。けれど結果、意図せずとも告げ口の形になってしまった。ならば謝罪するのが当然。

「すみません、さっきは変なことを言ってしまって、」

 そう口火を切ったものの、これを真っ先に言うべきじゃなかったと声にしてから気づいた。
 初動を間違えるのはいつものことだが、最近は失敗続きだ。長丁場の彼の帰りを、嬉々として出迎えることが恋人として、いや人としてまず最初にすべきなのに。

「あっ、おかえりなさい」

 取ってつけたような挨拶になってしまった。
 喜助は帽子を机に置いたところで、ふう、と一息ついた。「ただいま」は帰ってきた時に告げられたからもう言ってくれないのかもしれない。そんな、些事なことで疑心暗鬼になる自分がいちいち邪魔してきて鬱陶しくなる。

「いやあ、疲れましたね」

 口調はまったりと落ち着いていて、ああいつも通りだ。ほっとした。

「向こうでの滞在が長引きましたもんね、」

 彼とはかれこれ長く、と言っても死神年数で見たら短いけれど、それなりに歳月を重ねて側に居るはずなのに、時折りこうして読めない時がある。敢えて読ませないのかもしれないが、それを感じる時はいつも、どうしてこんなにも遠くに感じてしまうのだろう。

「しばらくゆっくり休んでください」

 意識してしまうと変に畏まって、僅かに汗を握る。
 緊張しいのこの性格はいつまでも治らなくて。憂い、不穏、興奮に、驚喜。強張る瞬間はどれも心拍を加速させて、己自身で短命にしている事に他ならなのに。あなたを想う時はいつだってこの小さな心臓は勝手に騒がしく主張するから、向こうの立場になって考えるように努めた。まずは相手だ。大切な人を労ってあげること。それが最優先。
 ゆっくり息を整えたらようやく冷静になってきて、蠢いていた心配の欠片が落ち着いてきた。

 喜助から手で、おいで、と手招きをされて近くへ寄る。
 座りましょうとは言われなかったが、どちらからともなく腰を畳へと下ろした。疲れている彼に立ち話はさせたくなかったので普段通りに振る舞ってくれて、鬱蒼とした空間に晴れ間が差した気がした。

 ──なにを話されるんだろう、この心配性な性格とか、かな。

 客観的にものを考えるほど、自分の欠点が浮き彫りになる。

「ヒトと寄り添うっていうのはそう簡単なことじゃないって、そんなの当たり前のことなんスけどね、わかっていたつもりになっていました」

 どーも舞い上がってたみたいっス、と。
 胡座をかく様子はまるで悄気た犬みたいに。彼の発露するさまがなんだか、後頭部のさらに後ろの方で響くようにぼんやりと感じた。それほどに彼がこんな自覚を持ち合わせて、それを弱味みたいに口外するのが信じられなくて。今は気を遣わないで休んでほしいのに、要らない心配をかけさせてしまったのは自分があんな弱音を吐いたせいだった。

「いえ、浦原さんがそんな風に感じる必要はどこにもないんです。あれは私の気の持ちようの問題で、ですから休みましょう。もうすぐお風呂も沸きますし、お夕飯もきっと豪勢ですよ」

 もうすぐテッサイさんたちが帰ってきますから、と告げると「夜一サンの焚くお風呂は熱いを通り越して熱湯っスよ。暫く経ってくらいがちょうどいいでしょう」と苦笑気味に一蹴された。確かにそれは否めない。湯加減は気分で変わる可能性が高いので、それもそうですね、と首肯いた。
 ところで、そう喜助が紡ぐと少しの間を置いてから続けた。

「……本心っスか、さっきのは」
「え?」
「不老の薬があったらいいのに、とかいう」
「あ……」

 本心だって言ったら、なんて返されるのだろう。
 違うと言ったら、腹の底のどこまでを見透かしてくるのだろう。
 どっちへ転んでも二人にひずむ幽かな違和を、この人には手にとるように伝わってしまって、嘘なんて吐き通せるはずがない。

「本心というか、化粧で補えないところくらいは若々しくいたいって思うのは普通なことだと思います。女心として」

 至極真っ当なことは並べられたと思う。それを鵜呑みにしてくれたら、の話だけれど。

「あなたには因果の鎖がない、簡単に言えば人間の器に入った魂魄な訳です」

 突如そう言って、この身に起きた境遇を口にした。

「人間の身そのものに、ではなく魂魄自体に老化を防ぐモノを施せばできないことはない」

 ──できないことはない。

 思考がぴたりと止んで、すぐまた全身を巡るように動き回った。不可能と思い込んでいたことに選択肢が与えられてしまった。ならば、どうしたい。

 果たしてそれは本当に喉から手が出るほど欲しがっていいのか。求めていいのか。それを得たところで、その後の自分は何を考えて、どう生きて、どんな風にあなたの隣で人間として過ごせるのだろう。それを施してもらっておいて人間の括りでいいはずはない、そんな気がした。

「ですがボクが訊きたいのはそれが本意であれ、そうでなくても。本当に不老がゆかさんの憂いを晴らすに値するものか、ってことなんスよ」

 彼にはこちらの本心どころか思考すら舐めるように悟られていた。永く、共に時間をすごした証かもしれない。自分は相手の、相手はこちらの、なんとなくが。なんとなくではあるけれど筒抜けだ。だから、今のゆかにも喜助の言わんとしていることが正にちょうど自問したことで、まったくの図星だった。

「はい」

 言っている内容を理解した意味で、ただ相槌を打つしかなかった。
 判断を委ねらえているものの、たとえ老化を防げたところで、人間の胸の内にある恋しく想うゆえの寂しさなんて消えるはずがない。そんなことは深く考えなくてもわかっている。現にこの間、花見ができなくて子供みたいに膨れっ面を晒したのがいい例だ。

「……無理、だと思います。年をとらなくなったって、きっと寂しくはなるし、ずっと強くなんていられない。わかっては、いるんです。ただどっちにしろ不安になるなら不老になったらいいのかな、て、」

 己の脆さくらいは自分が一番わかっているから。
 安直でしたすみません、と悪知恵を働かせた悪童のように首を垂らした。夜一と話していた時に感じていた疎外感が、ひしひしと蘇る。本人を目の前にして改めて現実を突きつけられたように、痛い。甘い蜜は知れば知るほど人を強くするけれど、同時に最弱にもしてしまうのだと。

「ゆかさんがこちらへ戻ってきた時にお伝えしたこと、憶えていますか」

 忘れるはずがない、誓約にも似た強い言葉やあの日の全てを。奮い立たせるような、背中を押してくれる想い。あの勇気をもらって種別の呪いから立ち直れて、共に歩むことを固く決めた瞬間。

「も、もちろんですよ……!」

 忘れたなんて思ってほしくない、思われたくなくて声を荒げた。

 ──『ボクは縁側で眠そうにする微笑ましいおばあちゃんを眺めていたいんスけどねぇ』

 一生、いや魂魄になってもずっと。この想い出は消えない。消させない。
 なのに自分の中に潜む厭らしい悪魔が顔を出しては囁いてくる。独りになると脳内の居場所を奪っては乗っ取ってくる。でもこれはお一人様の時間が多くなってしまっただけだ。自分の気の持ちようが悪い、それだけ。

「いえ、すいません。意地悪な訊き方をしました。わかってるんです、忘れる訳がないと。ボクもあなたが憶えているとはわかってはいても、あれ以来、そういったことは口にしていなかったんで。……まあ、それが良くない」

 良くない。なぜ。彼の言わんとしていることが小難しくてよくわからなかった。
 彼の中の辻褄と何か合致しないのか、彼の思考を理解したいのに心苦しい。昔まで、到底理解が及ばなかった言動も、形式的に恋人となった今では、厭にもどかしくて落胆すら覚えてしまう。不釣り合いを感じて仕方がなくなる。

 いつもなら、たとえ自分が不服を持ち合わせても理解できなくても、全て「わかった」の一言、首肯で返していたけれど。妙な意地っ張りが横入りする。我欲が深くなった。悪く言えば我慢ができない。
 普段の会話のように「わかりました、よくないですね」が言えない。どうしてなの。これ以上、彼を困惑させたくはないのに。頭でわかっていないのに、「わかりました」が喉を通ってくれなかった。

「無理して肯定しないでいいっスよ。またこの間みたいに積もりに積もって『嫌い』が出てきちゃいますから」

 あれは流石に堪えました、とふざけ半分で告げる様も、今では真面目に捉えてしまって素直に受け取れない。負の感情が連鎖する。

「ごめんなさい。浦原さんを困らせたくないんですが、その『よくない』という意味が理解できなくて。もちろん私は過去に仰ってくれた浦原さんの一言も、全て憶えていますよ」
「いやぁそれはそれで気恥ずかしいっスけど……まあ、前に居た処の言動一つ一つを憶えているくらいですからね、記憶力は良い方なんでしょう」
「あの、私が言いたいのはそういうことではなくて」
「……あー、まどろっこしい事は止めにしましょうか。ってボクが始めたんでしたっけね、」

 喜助はこちらへ膝歩きで擦り寄った。
 こうして半身だけでも真正面に立ちはだかると、すらりと伸びる背丈に見惚れそうになる。でも一度、手首を引かれて彼の腕の中に収まってしまうと、作務衣の下に潜む隆々とした体躯がそこにはあって、抱いた想像とは真逆のそれに包まれた。

 もう幾度もこうされているのに、草臥れた作務衣が彼の逞しさを隠してしまうから、いつだって意外性に弾けてしまう。そしてそれが、好き。好きで好きで、底知れぬくらい、自分でも馬鹿みたいに、好きの気持ちが膨れ上がって涙が出そうになる。
 ああきっとそれすらも筒抜けなんだろうな、なんて絆されると不安めいていたはずのわだかまりが一気に取っ払われていく。彼の仕事終わりの、しょっぱいような少し酸っぱさもある汗の香りが愛おしいなんて、自分も大概だと思う。

 ふやけそうになる顔を堪えて、その胸元に身を預けていると喜助の声が降ってきた。

「さっきボクが言った、それが良くない、っていうのは一度告げたら分かっているもんだと思い上がっていたこと。心驕りも甚だしかったという意味です」
「…………」

 何も声を返したくはなかった。
 狡い人間だと思われたっていい、今くらい。返さないことでもっと彼が本心を紡いでくれるんじゃないかって狡賢いことを考えてしまってからは、もう大人しく首肯なんかしたくなくて。頭を彼の胸に押しつけることしかしたくなかった。

「過去、安心させる事を告げたからってもう大丈夫だろうと高を括ってはならないってことっスね」

 それにも首肯かず、欲張りだからまだ欲しがった。
 たまの我欲くらい良いでしょうと胸中で唱えても、他人からしてみればいけないことかもしれないし、他の恋人たちはどうしてるのかなんて知らない。
 正直、死神と人間の時点で世間一般の平均なんてどうでもいい。それでも彼の中では過去、一度きりしか囁かなかったのは『良くない』と位置づけた。それが驚きに満ちていて、この上ない悦びで。あなたから紡がれるシロップ漬けみたいな言葉をずっと聴いていたい。

「……あの時、ボクはあなたに何度も言ってもらったのに」

 ──あの時。それはこちらから何度も甘言を囁いた、あの二文字。
 軋むほど抱き締めた喜助が寄り縋りながら「もう一度言って」「もう一回」と乞う姿が、鮮烈に目蓋裏に浮かぶ。懐かしくて、嬉しくて。ようやく想いの吐露が叶ったあの瞬間は、ただ告げたい一心だった。
 二文字が抑えきれず大きくなって四文字へ、彼が望むなら何度でも声が枯れるまで紡ごうと、そう思っていたあの自分をもう一度心に描いた。

「私、喜助さんがすきです、だいすきで、だから、」
「あー、ですから今度はボクがあなたに何遍も告げないと、って話をですね」
「……私からもたくさん言わせてください。言葉にすると弱気な心も強くなるみたいで、あ、それでも時々一人になると萎んじゃうこともあるんですけど……」
「ええ。なのでちゃんと言わないとなって。独りにさせてもボクが常に此処にいる事を」

 此処、と言いながらそっと体を離して、ゆかの胸元を指差した。

 心臓じゃない、体じゃない。それは眼に視えなくて、無形の、──。科学者のあなたがその存在を意図する、なんて。

 想いや心は脳にあるんですよ、と真っ先に言い出しそうな人物なのに。曖昧で抽象的な言及に信じ難い反面、この関係を経たあなたは今ではきっと、すっかりそういうヒトなのだと、目の前にいる浦原喜助を確と感受した。
 一護に言い放った、想う力は強い、なんて本当はご自分が信じていたいのでしょうって。絆なんて言葉、そう簡単に断ち切れるものではないって知っていたのでしょう、と。秘めながら、またあなたの胸の内を垣間見たようだった。

「わかりました、これからも独りにさせる事が多いんですね」

 冗談めかして返せば、「あ、いや、まあ」と煮え切らない返事。それすらも彼らしくて愛おしく思えてしまうからこれを盲目と言うのかもしれない。

「このまま年を重ねておばあちゃんになってもいいんだって、わかってはいます。でもやっぱり確かめたくなっちゃうんです。だから寂しく感じる前に、たとえなったとしても、喜助さんはこの中にいてください、ずっと」

 控えめに指差す喜助の手を取って、自分の胸元へ早まる音が聞こえるくらいに押しつけた。

 僅かに指先がピクリと動いて、喜助は瞠目しながら「……はい」とだけ返した。
 愛に溺れた煩悩塗れの願いは死神に祈っても通じてくれるのだろうか。神様なんて、とは思わないからせめてこのヒトと安心して添い遂げたいだけなのです、とゆかはもう何度目かの同じ願いを心で唱え続けた。

「ボクはあなたとゆっくり、着実に隣で歩んでいきたいっス」
「……もっと、お願いします」
「おばあちゃんになってもあなたの魂魄である事は変わりないんスよ」
「ふふ、もっとです、続けてください」
「欲しがりますねぇ。ボクはゆかさんを好いてますよ、ほらこんなに」
「言い方がなんか、まあいいですけど……。あともう少しもらってもいいですか」
「ええ、もちろんっス。あちらから帰ってきたらこの慕わしい想いを何度も囁こうと思っていました。……多少の行き違いはあってもこうして繋ぎ直していけたらと思いますが、いかがでしょう」
「……はい、私もそうしたいです。あの、慕わしい想いを、ってことは浦原さんには珍しく寂しかったってことですかね」
「まあ、仕事に疲れて帰りたいなあって気持ちを寂しいとするのならそうなんでしょうかね」
「む、やっぱり聞かなかったことにします」

 疲れたから帰りたいの上位互換が寂しいのであれば、と思ったのだが。この人は素直に首を縦に振りそうにないので問わないでおいた。

「えーそんなぁむくれないでくださいよぉ」

 なんにせよ、ほっと安堵に落ち着いた。
 最後には相手の気持ちを確かめるようにしてしまったのは情けなくて狡いけれど、いつの時代も未熟な私たちではありますがってフレーズはよく聞くし、この在り方を肯定した。

 二人が二人だけの幸福を掴んでいたらそれでいい。前向きに顔を上げたら、「ん、」──ただいまの挨拶のような口づけが落とされた。たったのそれだけで満足してしまって、すっかり精神だけは先におばあちゃんかもしれない。ああそれに彼もお疲れだろう。滲み出る疲労は隠せていなかった。

「あ。あちらで桃さんや平子さんには会いました?」
「残念ながら副官サンには会えませんでしたが、隊長サンはサボられてたんで。……ってまた人の腕の中で彼の名を口にしましたね」
「あっ違、いえ、最近会ってなかったら元気かなって、ほんと、それだけでほんとに、なんの悪気もなく、」

 やってしまった。土産話が聞きたくて、なんて言い訳は彼に通じるはずがない。せっかく互いの機嫌も直っていい感じになれたのに! 馬鹿すぎる、うっかりとは言え気を抜きすぎた。

「あーそっスねぇ。平子サン、なんか言ってましたけど忘れちゃいました」
「えっ私に言付けですか?」
「そんな大層な事じゃないと思いますよ、アタシが忘れるくらいですし」
「う」

 自分だけ不平不満不服を掲げておいて、彼の地雷原を踏み抜いてしまった。いや本心で嫌なのかどうかは確かめようにも否定される未来しか見えないからやめたけれど。

「そんなことよりお腹がすいたんであっちに戻りましょ。テッサイたちもそろそろ戻ってくる頃でしょうから」

 今後は安心したからと言って話題を振るタイミングは注意しようと肝に銘じながら「はい、私も腹ぺこです」と差し出された喜助の手をとった。

 あの頃に抱いた至福を重ね合い、五指で絡めながら──。

 魂は滅ぶ、生がある限り。いつかは消える。
 だがその時が訪れても、あなたがいれば。その恐怖すら喰べてしまうのでしょう。

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