長かった。あちらサンの要望で仕方なく赴き、かの大戦の残滓が見られると調べてみれば、その途中で総隊長から別用の頼み事を受け入れて。結果、数日かかった。
これまでのんびりと密かに作業できていたものが、次第に目に見えるほど忙しくなり、変貌していく日常を覚えた。それはそれで悪くはないのだが、まるで護廷公認のような立場にもなれば必然的に要用も多くなるわけで。まあ行けばそうなるだろうとだいたいの予想はついていたものの、思いのほか工程が長引くと心身の疲労は蓄積されていくばかりだった。
けれどようやくこれで現世へ戻れる。ほっとひと息ついた喜助は歩む足を止めた。
「いやあ、今回は働いたっスねぇ」
誰に聞かせるわけでもない労いを自身へ浴びせる。
両手を天へ伸ばしてから首を回すと、ゴキ、グキ。凝った、鈍い音が鳴った。さっさと帰って、熱い風呂にでも浸かって、それから──。
「まだおったんか、珍しい。現世に飽きたか」
その帰路、よォ、と気怠そうに木陰から顔を出したのは平子だった。
「居たくて居たわけじゃないっスよ、いろいろ頼まれましてね」
「そりゃ喜助が居てるて聞いたら厄介モン押しつける絶好のチャンスやろ」
「厄介モンって……残飯処理みたいな言い方されても」
「そこまで言うてへんわ」
「技局に頼まれたらいいんじゃないかと思いますけどね」
「マユリにモノ頼まれへんやろ。命と引き換えやで」
「涅サン、ああ見えて頼まれると喜んで引き受けるタイプっスよ」
「ほんまかそれ」
「さあ」
「テキトーやな」
はは、乾いた声で返してからボクはこれで、と踵を返す筈が。口の端を厭に吊り上げた平子に行く先を阻まれた。
「──最近どうなん、てっきりゆかチャンもこっち連れてくる思ててんけど」
会われへんの寂しいなあ、とわざとらしく空を仰ぐ。
「聞きます? そういうの。ボクに興味ないでしょうに」
「オマエにやないわ、あの娘のこと気にかけてんねん」
「へえ」
「つれへんやっちゃなあ」
「どうもなにも別に普通ですよ。彼女を連れてこなかったのは店番してもらってるだけなんで」
「店番てガキんちょたちにさせたらええやん」
「今、テッサイと遠出してもらってるんスよ」
「ほなあの娘一人っきりか」
「いえ、厳密には夜一サンがいますが」
「実質一人やんけ」
「……遠回しに夜一サンけなしてません?」
「し、してへんわ。夜一はネコゆう意味や」
たしか前にもこんなやり取りがあったな、と懐古に浸るのも束の間。過去を懐かしむどころか、思い返すと途端に彼女の顔が見たくなって堪らなくなる。
「というわけなんで、ボクは一刻も早く帰りたいんス」
「さいですかァ。あー男の惚気話は聞くもんやないな、さっさと帰って構ってやり」
「なんスか、聞いてきたのはそっちでしょうよ」
「相手が人間やからな。そら心配にもなるわ」
「そりゃドーモ。要らない心配をおかけしました」
「まあエエわ、ゆかチャンによろしく伝えたってや」
「ええ、気が向いたら」
今は言付けだけを預かる。いつ伝えるかは後々考えるとして。そうこう立ち話をしていると、憶えのある霊圧があちこち移動してはこちらに近づいてきた。
──ゆかさんと親しい彼女か。
「……ところで副隊長サンがそろそろ来られるかと」
「うわアカン、桃から逃げてんねん。ようさん仕事ある言うてな」
またな、と平子は得意の逃げ足で目の前から消えた。
うっすら近づいてくる見知った霊圧を伝えただけだったが、余程サボりたいらしい。過去、自身が隊長だったこともあり、気持ちはわからなくもない。しかしあんなに避けた覚えはないような。疾うの昔のことで定かではないが。それでもめげない健気な副隊長に喜助は軽く同情した。
ああ。話してしまったばっかりに、疲弊した身体はすっかり彼女で埋もれてしまった。さっさと帰って、熱い風呂にでも浸かって、それから「ただいま」を告げて、なんでもない日常を抱き締めて。ゆかの軽やかな笑い声を浴びてから、この慕わしい想いを囁こうか。
短期間の留守でこんなにも待ち遠しいとは、自分でも驚く。
──ですが、すみません。彼のよろしくという言伝はボクの中で留めておきます、少しの間だけ。
「お留守番をする意味はあるのでしょうか、夜一さん」
誰も来ないですね。ゆかは腹を見せて寝っ転がる黒猫に助けを求めた。
「真面目に店番などするからじゃ。お主も儂と休めばよかろう」
木目廊下でごろんごろんと寝返りを打つ。人語を話さなければ飼い猫と変わらない仕草に、ただただ癒された。
「だって休んでるときにお客さんが来たらどうするんですか」
「まったく神野もお堅い奴じゃの。砕蜂か」
「いや、砕蜂さんだったら夜一さんと一緒に寝てると思いますね」
「それもそうじゃの」
「でも夜一さんがいてくれてよかったですよ。暇すぎて死ぬかと」
「じゃからお主も横になればよかろう」
「だって、……って話が戻っちゃいましたね」
まるで内容のない会話。大きく欠伸をした猫は再び体勢を変えて丸くなった。カチカチと振り子時計の古めかしい音だけが残る。
もうすぐ夕刻になる頃か。入り口から座っているところへ西陽が差してきた。テッサイは子供たちを率いて喜助に頼まれたもの調達しに一日出ている。ゆかもお手伝いに、と店長へ声をかけたが人手は足りているからと却下された。そして代わりに任された今日の店番。
──なんで行っちゃいけなかったのかな、確かに一人くらいお店にいた方がいいけど。
この間から待ちぼうけで一人になると、どうも滅入ってしまう。社会人になってから一人暮らしは長かったのに、人肌を知ってしまうとこんなにも脆いものなのだろうか。
付き合いたては喜助が不定期で不在になっていても、慣れたものだと感じていた。居ない間は趣味に没頭できるし、不在のことは本当に気にしていないし、気にかけて彼の重荷にもなりたくなかったから。
ああこれが塵も積もれば山となる、そのものかもしれない。こんな負の感情を塵と称すのなら、花見の一件から自分はただの厭な奴でしかない。今は膨れあがった塵の山に埋もれた女。
「はあ」
堪らず。身動きができなくなったお山から声がもれた。
死神は老いるまで時間がかかる。だから生き急ぐこともしないし、何百年単位の人生を計画なんて立てずにのんびり過ごされるのかもしれない。
一分、一秒。刻一刻と、今、今、今が自分を追ってきていて、それから逃げたくて仕方がないのに老いから逃れる術はない。人間は半世紀生きたあたりからぐっと老けが目に見えるとして、あと何年この若々しい姿でいられるのだろう。
一瞬でもこの思考が浮かぶともうだめで。漠然とした不安に駆られ、余計に寿命を縮めているように感じてしまって仕方ない。一人で無駄にもがいているみたいで馬鹿らしいとも思う。
──この間、怒らせちゃったしな。
あまり言えなかった本心を、嫌だ、と意思表示したら口論になった。あれを繰り返すのは嫌だから。自身の中で解消をしようと、ゆかはぐっと下唇を噛む。
「溜息なんぞ吐いて、らしくないのう」
夜一は背を丸めたまま言った。
「寝たふりですか。暇すぎて疲れちゃったんで溜息の一つや二つ、三つ四つでますって」
「そんなに暇なら儂が聞いてやっても良いぞ、溜息の三つ四つ」
「大丈夫ですよ、夜一さんが話してくれたら引っ込んじゃいましたから」
お主という奴は、そう言って立ち上がったかと思うと、こちらへ向いて座り直した。そして本物の猫のように前足を舐めだす。本当に、人語を話さなければ、飼い主に起こされた猫が丁寧に顔を洗っているだけにしか見えない。
「なにかあったか、喜助と」
ここの人たちに隠し事はあってないようなものだ。それも包み隠さず直球で。以前、喜助のことが好きなんやろ、と真正面から訊いてきた平子を思い重ねていた。
「なにもないですよ」
本当だ。本当に何もない。何もなくてなさすぎて、独りが多くなってしまったから色々考える時間が増えて、滅入った。それだけだった。
「儂の訊き方が悪かったの。……彼奴が厭になったか」
ああもう。何百年も彼を知っている昔馴染みには敵わない。はあ、ゆかは深々と息を落とした。三つ四つは引っ込んだと取り繕ったはずが、矛盾にも破綻した瞬間だった。
嫌になったか。ゆかはその問いに肯定も否定もできずに、先日、と紡いだ。
「実はちょっと言い合いになって、最後は和解はしたんですけど、」
花見に行けずに待ちぼうけていたあの晩を思い返すだけで、どんよりと気分が沈む。お詫びに夜桜を俯瞰させてもらって仲直りできたあの夜。嬉しくて抱いた憂いは全て消されたはずだった。それでも直前に口から出てしまった言葉は、今更なかったことにはできなかった。
顔を舐め終えた夜一は、相槌を打つこともなく。ゆかの隣に近寄ってから静かに座った。
「私、浦原さんに嫌って言っちゃったんです。嫌いになります、とも。……気持ちを整理しないまま八つ当たりみたいに」
何度目かもわからない息がまた零れる。
「神野の言葉を軽くあしらった喜助が悪い」
間髪入れずに声を挟まれた。
あの時の彼の反応を告げ口する前に、彼女は先に悟っていた。あれを軽くあしらったと断言できるのかは分からないが、「なら結構です」と返された時はとても悲しくて、鮮明に憶えている。自ら嫌だなんて言わなければこんな引き摺ることもなかったかもしれない。そう思えば思うほど、後悔先に立たずで、最初に不快を口にした自分に非があると思わされた。
夜一が女側の肩を持つだけで、じんと目頭が刺激される。
ゆかは胸中に抱えた埋めようのない魂魄の違いも寿命の差も、見ないふりをし続けていた。でも彼女になら告げてもいいのかもしれない。
「最近、一人が長いとだめなんです。その間に自分だけが一気に老いていく気がして」
喜助が隣にいると歳なんてとらないような勘違いをして。
きっと違いを感じさせないようにと彼が懸命に努力してくれていたお陰なのだろう。常日頃から同じ目線に立って、人間と足並みを合わせてくれる彼だ。解っている。頭では解っているのに、なのに。独りになった途端、急に添え木を失ったみたいに折れて。心が弱くなる。
「少しでも厭になったら嘆く前に儂のところへ来い、良いな? その寂しさは独りで抱え込むと憎悪にも成る」
憎悪と言われて、嫌いになりますと放ってしまった瞬間を思い返した。愛憎が入り乱れて、感情任せに告げてはならない一言を発したのを。あれは憎悪になり得る手前だったのだろうか。ただ、嫌いになったのは最終的に寛大になれない自分自身だった。だが彼女の忠告通り、憎からずと想っていた相手も己も全てが逆転してしまうのだとしたら、寂しさは侮ってはならないと肝に銘じた。
──そうだ、夜一さんも砕蜂を置いていってしまって。
ふ、と前の居場所で見たものが降りてくる。
百余年ぶりに再会した時には、憎しみ、呪いまでした砕蜂。あの砕蜂の涙は信頼を裏切られ、何も言わずに去られた寂しさや悲しみから生まれたものならば。夜一の言わんとすることがすとんと胸底に落ちた。崇拝に近かった彼女とはとても比べ物にもならないほどの色事に過ぎないけれど、置いていかれる立場と拡がり続ける不安はほんの少しだけ理解できる気がした。
砕蜂だけじゃない、当時の夜一の心境を考えると居た堪れなかった。喜助を幇助すべく貴族や隊長、その他の立場を全て棄て置いた彼女の内心はとても推し量れない。
そんな大きな問題と自身の抱えるものなんてちっぽけでしかないけれど、人間の心は常々無い物ねだりで傲慢だなと嫌気が増すばかりだった。
「何を言われたかは知らんが、彼奴が青いだけじゃ、気を揉むな」
気にするなと言われても。なかなか、割り切るのは難しくて。彼女も死神で、いいな、なんて。少しでも羨んでしまう自分が大嫌いだ。そんなこと、思いたくはないのに。邪な慾望が広がってしまう。
「……不老の薬とかあったらいいのに」
不死にならなくてもいい。彼と同じように若々しくいられさえすれば、それで。
疾うの昔に消えたはずの憂いが一人になると蘇ってくるから、直視したくない現実から逃げたくなって。
今でも時々夢を見る。
これまでの嬉しかった言行を再確認するように。
こちらの世界に戻ってきた直後、抱き締めてくれながら告げてくれたことは深く焼き付いて、生涯忘れられないだろうから。
──『ボクは縁側で眠そうにする微笑ましいおばあちゃんを眺めていたいんスけどねぇ』
老けたっていいんだ、先に逝っても大丈夫。すぐに若返りの義骸に入れてもらって、──そう勇気を抱かせてくれたのに。独りになると、一分一秒が悪魔みたいに感じられて、この一秒は彼らと同等ではないのだと突きつけられて。いつしか早く彼が戻ってきてほしい、と大きかったはずの勇気が弱々しく萎んでしまうのだ。
甘い蜜は知れば知るほど人を強くするけれど、同時に最弱にもしてしまう。まさに今の自分がその典型のようだった。憂いの一つが潰せるのなら、せめて若い姿で在り続けていたいと願ってしまうのは、双方のためにはならないだろうか。
「なにを言うておる、妙な事を」
夜一は顔を上に向けた。ゆかはそれに目を合わせなかった。誰にも言えなかった本心の欠片を告げたのに、一ミリもすっきりしないのはどうしてだろう。
「冗談です、すみません」
目を細めて笑う。入り口を見ると、先ほどより陽の入りが狭くなり夜の訪れを感じた。すると、すり、猫のおでこが腕に触れる。さらさらとした猫の毛が気持ち良くて。思わず「くすぐったいですよ、夜一さん」とそのおでこをわしゃわしゃと撫でた。
「あんまり腑抜けた面じゃったから、儂の匂いを擦り付けてやったわ」
「だからってマーキングする意味もよくわかりませんよ、まあいいですけど」
彼女なりの励まし、なのだろうか。でもこうして夜一と触れ合うと、不思議なことに萎んでいた気力が戻ってきた。何度かすりすりと繰り返し、ゆかもまた背中や首下を掻いてあげたあと、ピンと尻尾を立てた夜一は喉を鳴らした。飼い猫に面倒を見られたら世話ないな、と頬が緩む。
「あ、」
途端にぴょんと離れた夜一は、店先に向かって声を上げた。
「──だそうじゃ、聞いておったか喜助」
え? ゆかもそちらへ視線を向けると、「ただいまっス」喜助が何事もないように店へ入った。戸を閉め、カラコロ歩み寄る表情は疲労困憊のようだった。夜一の言動から察するに、恐らく聞かれていた。どこからかは分からないけれど、彼が一度も目を合わせてくれないのがその証だとわかる。直前に話していた内容も内容で、妙にひりつく空気が重い。
気まずくなったゆかは、おかえり、が言えないまま。ふらふらと横切る喜助を目で追った。またもや怒らせてしまったかもしれない。しかも本人不在で告げ口みたいな格好は、最低で、最悪だ。
「あの、浦原さん、」
謝らなきゃと立ち上がろうとした時、ぷに、と柔らかい肉球に手の甲を押さえられた。猫にしては、というか常人以上に力がこもっていて少し痛い。強制的に追うことを阻止された。
「二度と神野にそんな顔をさせるな」
腑抜けと言われたことだろう。
それに足を止めた喜助は、「ゆかさん、お話しましょ」と疲労を滲ませた声で振り返った。ようやく交錯した視線は、どこかぎこちなくて、物哀しく映る。これがお疲れだけじゃないことは、誰にでもわかることだった。
「気兼ねなく話せ、お主の感じておることを」
時刻は夕飯時。支度もいろいろあるゆかが返答に悩んでいると、今度は柔らかく肉球を押しつけた。
「案ずるな、風呂は儂が焚いておく。夕餉はテッサイが戻ってきてからで良い。癪な思いをしたら隠さず儂に言え」
良いな? とまた念押しされた。
こうまでしてもらわないと前に進められなくて、改めて不甲斐なさを感じた。また勇気を抱かせてもらって、更には一人ではなく二人分の面倒を見てもらって。こんなに立派な心構えのヒトをさっきは一瞬でも羨んでしまった己が恥ずかしい。人間の汚い部分を露呈させたことを猛省した。
その励ましに再起したゆかは、ありがとうございます、と深々と首肯いてから喜助の後を追った。
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