§


「…………いや」

 むくれたゆかは目を逸らして呟いた。
 直前に何度か、すいません、と誠意をもって謝罪したものの、結果これだ。何がいやとは告げなかったが、そんなもの訊かずとも分かる。それを敢えて口にしたのであればこちらも応じるまで。

「そっスか、嫌なら嫌で結構っス」
「もう、ほんとうに嫌いになります」
「ええ、ですから結構です、と」

 一瞥すれば、彼女はぐっと口を一文字に結んでいた。普段から我慢強い印象があってか今も涙を浮かべることはなかった。いつものようにさらに許容してくれるものだと、どこかで思い上がっていたのかもしれない。

「わかった、帰ります」

 直前の感情的な声色と打って変わって。冷ややかな音が耳に残る。僅かに漂う違和感が、胸底を騒つかせた。
 今更ながら今回ばかりはまずかったかもわからない。自分の大人げない態度は昔から変わらないのは承知なのだが、それが仇となることも多々。またか。こうなるまで気づけない己の気質を軽く呪う。

 ──たしかに待たせすぎましたけど、

 そんなのいつものことじゃないか、と喜助は自身の立場を正当化させていた。
 彼女が恋人を置き去りにして遠ざかっていく。
 帰ると言ったのだから当然なのだが、さて追いかけるべきなのだろうか。マイナスの現状からなにをどうしても、嫌いから回復することは難しい。実は追いかけてほしいという裏返しの魂胆なら、それはそれで面倒だ。

 女心とやらが厄介で考えあぐねる。はあ、とため息を落とす先は、待ち合わせ場所にしていたとある公園の正門。ちょうど桜が見頃だと有名で、本来であれば仲睦まじく肩を寄せ合っているはずだった。

 午後の待ち合わせから数時間、辺りはすっかり陽が落ちて。着いたときには閉園時間をとうに過ぎてしまっていた。だからゆかはすでに帰宅しただろうと特に急ぐこともなく。正門の前に立っている姿が目に飛び込んだ時には、まさか、と思った。それも憂いた表情で。すぐさま駆け寄って、スミマセン、と頭を下げたけれども言下に返されたのが、あの嫌悪のひと言だった。

 何時間も待ちぼうけにさせたのだから当然の態度、報いだろう。こちらの言い分としては、緊急性の高い虚の処理と死神サンたちからの要望で、致し方なく優先順位がひっくり返ってしまったのだが。

 言い訳がましく聞こえるだけなので敢えて噤んだ。一瞬で片付くだろうと過信しすぎた自身にも嫌気が増していく。その上、恋人になんの連絡もしなかった数時間前の己が憎い。明らかにこちらが悪いのに拒絶されたことが腑に落ちず、彼女の「嫌い」を構わないと一蹴するなんて、完全に選択肢を誤った。

 ──ああ、なんで意地を張ってしまったかな。

 事の発端は彼女との予定をすっぽかしたことだ。
すっぽかしたと言うのは些か語弊があるな。立場上、私事より優先すべきことは山ほどあって。だがこれまで共に過ごしてきた恋人にはこれを理解してくれているものだと甘えきっていた。
 理解、許容、同意は全て「わかった」の同語で片付くものの、それぞれに秘められた真意までは汲めなかった。と気づいたところで、後の祭りなのだけれども。どうやら自分はそんな彼女の優しさに頼りきっていたらしい。

「……どうしますかね」

 どうするもなにも。一択だろう。
 ぽりぽりと首裏を掻いては、自身への鬱憤がこぼれる。このまま放棄して帰路へつくのは容易いが、それでは余りにも彼女の心を蔑ろにしすぎだ。散々やらかしておいてそれはないだろうとなけなしの良心が疼く。元々自身への評価云々を気にする性ではないが、あの「嫌い」は流石に堪えた。

 ──そうか、だからか。

 他者どころか己の本心すらも読めなかったなんて。なんと馬鹿らしい。彼女の「嫌い」が不快だったから、自分はらしくもなくあんな返しをしたのか。だから気づいたところで遅いのだといったい何遍、もはや嘲笑すら起きない。
 どうしても繋ぎ止めたいのであればその手を掴むしかないだろうに。

「はーい、ゆかサン。ちょっと待ってくださいな、と」

 喜助はいつもの調子を装って背後から腕をとった。
 遠く離れた場所であってもその距離は意味をなさない。瞬歩というものがあればどうとでもなってしまうから、死神というのは分が悪いと感じる。人間と共に歩むには根本的な違いが大きすぎて死神が狡猾に映ってしまう。いや死神という括りではなくて、自身が狡い要素しかないわけで。

 ──いまさら卑怯だの天邪鬼だの言われても、これがボクなんで仕方がない。

 曲がった性根を正すには時がかかりすぎた。
 それでも彼女に対してだけは、──。

 抵抗することのないゆかの腕は普段よりも華奢に感じた。こんな風に後ろから手をとることは滅多にないからか、触り慣れない。力加減を誤ったらぽきっと折れてしまいそうな人間の女性の体躯に、喜助は呼び止めておいてたじろいだ。

「……浦原さん。私は帰るんですけど」
「あー、さっきは嫌で結構、なんて言ってしまいましたが、あれは言葉のあやでして」
「言葉のあや」
「はい。いつもボクの事情で振り回しちゃって心底申し訳ないなあ、と思ってます」
「言葉が軽い気がする」
「それはアタシの性格でしょうよ」

 ゆかは押し黙った。
 一度心頭した憤りはそう簡単に収まることがないのだろうか。彼女ならすぐに損ねた機嫌を直してくれてなんでも多目にみてくれるものだと安心しきっていた。

「ほんと、いやになります。だからいやでいやで嫌いに、」
「すいません、こんなことばっかりで。花見すらままならず、貴女には嫌悪感を抱かれても仕方ないなとは分かってまして」
「そりゃ浦原さんの待ちぼうけにはもう慣れましたけど」
「あら慣れちゃったんスか」
「……ああまたかって思うことも、それを仕方ないよねって許容できない自分も。無事でいてくれたらそれでいいって願っていても結局は嘘ついていい女ぶってるようで嫌になっていくんです」
「あのー、それって……ボクを嫌いになってるんですよね?」
「ええそうですよ。でも。それ以上に自分のことが嫌いになるし、それに浦原さんをいやになっても嫌いで終われるわけないじゃないですか。……結局は、好きなんですから」

 今まで堪えていたものが溢れたように、そのまなじりを滲ませた。途端にじわじわと浮かんでは揺れるそれに声を呑む。

 普段はなんでもないように「わかった」の首肯で応えてくれた彼女、あれは強がっていただけのこちらの勘違いで。ほんとうは許しきれていなかった。それどころか、許しきれないゆか自身に嫌気が差していた、なんて。

 ──ああ、これまで僕は恋人のなにを見ていたのだろう。

「先ほどボクを嫌いになると言った時、ゆかさんにそう言われるのだけは何故か納得がいかなかった。……ええ、これがすごく身勝手な感情だとは解っています」

 ちゃんと言わなければ伝わらない。今度は間違わないように自らの口で。

「ゆかさんが好きだから腑に落ちず、好きだから反発したんでしょうね」

 俯瞰的に言葉尻を投げてしまい、半ば逃げたようにも響く。それが悟られないうちに握っていた腕を、くい、と引っ張ってゆかを寄せた。逃してはいけない、逃したくはない存在を確かに閉じ込めておきたくて。

「お詫びに。花見、行きましょうか。遅くなっちゃいましたが」
「でも正門はもうあいてないですよ?」
「今夜は特別に上から見下ろせます。それも月明かりに照らされた夜桜です」
「いいんですか、またそんなことに死神の力を使って」
「そんなことが今の僕には最優先で最重要なんスけど」
「……じゃあ、お願いします」
「そうと決まればさっそく。どこでもいいんで掴まっててください」

 久しぶりの高所へゆかはびくりと肩を強張らせた。
 そういう些細な挙動が胸に沁みてくる。

「はいつきました」と耳許で囁けば、彼女は恐る恐る振り返って、自ずと身を乗り出した。

「わあ、満開……!」

 その声音だけでわかる。今きっと目を見開いて、先ほどまで潤ませていた瞳はきらきらと輝かせているのだろう。
 真下には公園内の大樹たちが誇らしげに花弁を咲かせていた。それは長い桜並木となってずらりと連なっている。

 二人で肩を寄せ合うどころか、こうして彼女を抱えて隙間なく触れ合って。結果的には本音をぶつけ合って良かったのではないか、と都合良く捉えてしまう。

「そんなにはしゃがなくても、もっと近くへ行きますから」
「上から見る桜がこんな素敵だったなんて、初めてで、あっすみません、わたし舞い上がっちゃって」
「下から見上げるのと違って、こうして見下ろすのもなかなか絶景っスね」
「ほんと、月明かりに揺れてるのがあんまり綺麗で、」

 彼女は感嘆に声を呑んだようだった。
 こんな自分の側にいれば他のヒトにはない寂しさを今後も与えてしまうかもしれない。だが他のヒトにはない景色を無限に与えられる。そこらの人間と比べることは一長一短であって、無意味なことだとは重々理解しているが、それでも貴女にだけは特別で最愛を感じていてほしい。

「まあ、こんなことができるボクと居てよかったでしょう」

 一難どころか多難ばかりであろうとも、良かったと。そう思っていてほしい。

「はい、」

 頬を紅潮させたゆかは、桜に負けず劣らずの笑みを喜助に向けた。

「……浦原さんじゃないと、上からお花見なんてできないですしね!」

 彼女も彼女でまた素直じゃないそうで。それがまた自分たちには不可欠だろうから、余計に心が擽られる。

「ええー、ボクはお花見要員っスか?」
「あ、夏になったら花火も上から見てみたいです」
「ヘリコプター代わりにしてません?」
「ははっ、案外そうかもしれない」
「肯定しちゃうんスか。まあなんでもいいっスけど」
「やった。ヘリコプター、ゲットしました」
「一度乗ったらなかなか降りられないですよ」
「降りたくないですもん、今は」

『嫌い』の先に待っていたのはとんでもなく甘い願望で、一番に求めていたものだった。

「……そっスね、ボクも今は降ろしたくはない」

 本来あるべき姿を愛おしく想いながらどちらからともなく口づけを交わした。

 ──まったくヒトの気も知らないで、死神の僕なんかに身を任せる貴女がどうしてこんなに愛おしいのだろう。

 互いの想いが行き違うこともまたあるかもしれない。それでも、その度にはこうして見失わないように繋ぎ直していきたい、と強く想う。


prev back next

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -