なんの用もない休日。
正午まで寝て、誰から咎められることもなくむくりと身を起こし、台所へ向かう。子供たちの戯れる声が店先から響いて、朝から賑やかだなあと感じる。すると意識の向こうであの声が、もう昼ですよ、と囁いた。
ふらふらと冷蔵庫から取り出した牛乳パックをそのまま口へ注ぐ。ぼんやりと、直接口をつけないでください、棲みついた小言がまた。喜助の寝惚けた頭がようやくお目覚めに至った。
いつからだ。いつからこんな、たった一人の存在が体内に染み付いてしまったのだろうか。これまで他者を必要としないどころか、認識することさえ面倒だったというのに。彼女と過ごす限られた時間。それを知った今では、自身をくだらない男だと蔑むほどに、隣に居るのが当たり前となって生活の一部と化していた。
「うわ、今まで寝てたのかよ。ダメ店長」
振り返れば、炭酸を取りに来たジン太が。
彼女のいない今の自分は正に駄目人間そのもので、喜助は「おふぁよ」と欠伸混じりに返した。
「いやもう昼だぜ」
そう言い残してからまた廊下を駆けて行った。
あと数日か、カレンダーを眺める。
一週間の流れが著しく遅い気がした。時の流れは一瞬だったり妙に長かったり。作業に忙しい間は然程気にはならなかった。一度没頭してしまえば誤魔化しがきく。これは開発過程でもそうだが、気の持ちようで長短が生じるものだと理解していたからだ。
ただ、こんな形でしっくりくる証明をさせられるとは。
改めて実感している、──今が一瞬で過ぎ去ればいいのに、と。
そう欲すること自体、一人の女が居着いている証に他ならなかった。人間と死神では経過速度が異なるにも拘らず。蜜に甘えて寄り添っている。それが善くても、悪くても。
ああ、考えたところで暇だ。夜までは特にすることもないので二度寝でもするかと自室へ戻ろうとすると、なにやら店内が騒がしい。ばたばたと足音が行ったり来たり。
ジン太の学友が遊びに来たのかとその先を眼で追えば、驚いた。求めていた今が、ほんとうに一瞬で──。
「あ、浦原さん。ただいま戻りました、日程がちょっと早く終わったので」
疲れました、と大きな荷物が式台に置かれる。溜息とともにずっしりと。
「ゆかさん」
その帰りを確かめるように名を紡いでいた。
先にかけるべき言葉があるはずなのに、まだ体が寝惚けているようだった。
「……おかえんなさい。出張、お疲れさまでした」
いつも通りの返し。特段取り繕ってはいない。
予定より早かったなとは思ったものの、彼女が先にその理由を告げたのでそれには触れなかった。
「あれ、なんかいつもと反応が違う気がします。……あ、お一人様、満喫してました?」
ゆかは小首を傾げてこちらの顔を覗いた。
女性の勘とはよく言ったもので。息を吐くように意表を突いてくるから侮れない。貴女はすっと隙間に踏み入ってきて、何気ない一言で懐に溶け込んでくる。
──いつもと反応が違う? そりゃそうだ。居るのが日常となってその朗らかさに触れ続けていたら、帰りが待ち遠しくもなりますよ。分かってますか、貴女がいないたったの数日でボクがどれほどの体たらくだったか。
挙句、こんな風に待ちぼうけさせられて、と胸の内を伝えるのはなんだか僅少の自尊心が傷つきかねないので、あはは、と惚けておいた。
「そんなことないですって、久しぶりに声が聴けたのでしみじみしてたんス」
「えー、ほんとうかなあ、あやしい」
「ほんとっスよ、アタシは大人しく店番してましたし」
「いや寝癖ついてますけど」
戻ってきて早々、頬を膨らます姿。これがまた日々には欠かせない刺激になっているから、見ているこちらはつられて綻ぶ。
「なにニヤニヤしてるんですか、……って、口周りに牛乳残ってますよ。また直飲みしたんでしょう」
駄目だって何回言えば、とポケットからハンカチを取り出して半ば強引に拭き取られた。
──こうして言いつけが守れなかったことも、ちくちく小言を挟まれることも、残念ながら今のボクには不可欠なんですよ。
──だからこれからも傍にいてもらえませんかね。
ふう、ひと息吐きながらゆかは円卓にパソコンを置いた。
「浦原さん少しここ使っていいですか? 報告書、書かなきゃいけなくて」
帰ってきてもまだ休まらない。出張報告を終えてからまでがお仕事。心身へとへとになりながらも資料を取り出した。
「ええ、どうぞご自由に」その隣へ喜助も腰を下ろす。
許可をいただいたので電源をつける。
起動するまでの真っ黒い画面に疲労困憊した自身の真顔と、喜助のヘラついた顔が映り込んだ。
「……なんか近くないですか?」
「この卓が狭いんス、普段からこんなもんでしょ」
「普段、まあそうですけど、」
「なんならアタシの部屋使ってもいいっスよ」
「移動したところで浦原さんが隣に居座るんですよね」
「そりゃもちろん。アタシの部屋ですし」
まあいっか、と暫くそのまま資料片手に内容を打ち込んだ。疲れすぎて正直、頭にはあまり入っていない。ただ思い出しながら要点だけを書き留めるように。あとで清書しようと無言で記録を打ち込んでいた。
ただ、仕事をこなしながら隣に恋人がいるとどうも。
その人物が興味津々といった様子でじっと視線を送るため、気が散ってくる。けれどこの胸の内を告げるのは久々に顔を合わせていることもあって、ぐっと呑み込んだ。
あと少し、これを終わらせてしまえば、──。
十分ほどして、ぴた、とゆかの打つ手が止まる。
「あの、」
「なんでしょ」
「横から見られてると仕事しづらいっていうか」
「アタシにお構いなく進めてください」
「いやだからパソコンならともかく、……私の顔になんかついてます?」
「なにも? 見てるだけなんでお気になさらず」
そう呟いた喜助は眺め続ける。
「ああもう、わかりましたよ」
観念したゆかはキーボードから手を離して喜助と向き合った。彼はそれに満足したように、にんまり顔で迎えた。
「浦原さんのくっつき虫」
「はい、なんとでも」
「作業しないでほしいならそう言えばいいじゃないですか」
「とんでもない。お仕事を邪魔しようなんて思ってませんし、お手伝いできたらいいなと思ってますよ」
「大丈夫ですよ、あとで清書するのでもうやめにします」
書いていた文書を保存してパソコンを閉じようとすると、ずずい、と横から割り込んだ喜助がその手を止めた。
「清書、とはその箇条書きの要点を文章にまとめればいいんスよね?」
「ええ、まあ……そうです、けど、」
貸してください、と喜助が打ち始めると雑な文章がみるみるうちに綺麗なものへ整っていく。カタカタと手慣れたようにタイプして。喜助のタイピング姿を初めて見たが、流石と言うべきか、打つ手が早い。真面目に仕事する様子を意識して見ないのでなんだかそれが新鮮に映った。
「えっ、ええ、なにしてるんですか」
されるがままゆかは目を瞠った。
そう口では制しつつも、自分も自分で仕事をやってもらっているから敢えて強く止めることはせず。まったく、ちゃっかりしていると思う。
喜助がひと通り下までスクロールすると、確認するようにこちらへ見せ、上書き保存をした。その間、僅か数分だった。
「はい、こんなもんでしょ。ボクは内容をよく分かっていませんから辻褄が合うように手直ししといてくださいな」
くっつき虫だと嫌味を吐いてしまった相手がきらきらと後光のように輝いて見える。直前までの、鬱憤の溜まっていた態度を申し訳なく懺悔したいくらい。
「え、うそ。浦原さんが神様に見えてきた」
「はは。神様ではないっスね、死神なんで」
「では今日から神様の称号を与えます」
「あなたの神になれるのなら至極光栄ってもんです」
「もう神にでもなんでも」
半ば唖然としながら彼を崇めた。
出来上がっていた報告書はほぼ手直しが必要がなく、そのままでも十分に意味合いが通じるものとなっていたからだ。
地頭が良い理系とは清書までも早いのか、と自分の平々凡々さを改めて自覚させられた。……と落胆を覚えたのは一瞬で、仕事が終わってしまったことの方が嬉しくて、凡人ゆえの自虐は即座に消滅した。
「……ほんと、すごい……」
スクロールしては溢れでる称賛。
人には得手不得手があるから仕方ないと気を良くしてしまう始末。だから自分は向上心が足りないのだ、と秀才の喜助を隣にしみじみ、天賦の才とその違いを受け入れていた。
「ですがゆかサン、ちゃーんと目を通してくださいよ? なにか間違えて怒られたりでもしたらボクが居た堪れなくなる」
「大丈夫ですよ、最後まで完璧でしたから」
「ならいいんスけど」
「これで上司に送っちゃいます」
「はい、ご苦労さまです」
作業が終わったのを見届けた喜助は、ぽん、と頭に手のひらを乗せた。くしゃくしゃと揉まれて、預けるように自ら俯いた。もっと撫でてほしいとまでは言えない。けれどこの行為がそれを暗に示していることは、きっと伝わっているだろう。
すると喜助が胡座をかいたまま背後に擦り寄った。
その中へ収めるようにゆかの腰を「よっと」と軽く浮かせて腕を回す。背中に伝わる人肌、心音。それだけじゃない密着度に安心感。結局くっつき虫は自分も一緒だ。自分のことにいっぱいいっぱいで棚にあげていたけれど、これがあるから頑張れる、なによりも嬉しいご褒美に違いないのだから。
──ああ、幸せ。
これでようやく出張とお仕事から解放された。心からほっとする。癒されるとはこういう感覚なのだと思う。これは久しぶりの安息だ。甘いものを食べた時みたいに、いやそれ以上にゆるゆると頬が蕩けてくる。
花よりも団子よりも、なんの形もないあなたとの時間が愛おしい。
「浦原さん、ありがとうございました」
待っててくれたこと、最後のお手伝い、全部を含めて、心から──。
「いえいえ、無事にお戻りになってなにより」
「私はただ出張に行ってきただけなんですけどね」
こうして過保護みたいに心配されることが今更な気がして、妙に照れ臭くて。思わず顔を背ける。
二人の時間を満喫すべくパソコンを閉じようすると、──ポン。新着メールの受信音がデスクトップで響いた。
再び脳みそが仕事脳に切り替わる。瞬時に察する嫌な予感。先ほど送った上司からの返事だろう。
悲しいことに彼の返信が早いことを熟知している。相変わらずチェックが早くて良いんだか、悪いんだか。そう内心で塵ほどの愚痴を吐き出したのちにメールを開くと、やはりメールは上司からだった。
『今回の長期出張、お疲れさまでした。報告書はざっと拝見した。ところで最後のコメントだが、神野の希望ということで今後は考慮する。返信は不要』
──へ、コメント? なんのこと?
ゆかは送信済みの文書を開いて、下の下へ進む。すると最後の総括したあたりに、なにやら不自然に非表示になっているコメントが隠れていた。
『コメント [神野]:今後の出張は可能でしたら一週間以内でお願いいたします。二週間は長くて心身への負担が大きいようです。出張後の報告書も提出猶予を長めに設けて下さると助かります』
──えっうそ、なんてこと!
こんなこと書いていない。間違っても報告書に、なんて。
書き方こそ控えめではあるが今後の要望と不満と取れる内容が書き綴られている。それに気づくと同時に、瞬時に先ほどの喜助のタイピング姿が過った。
ああ、これは。確実についさっき仕込まれたものだ。
一気に血の気が引いていく。上司になんて言い訳をしようかとぐるぐると考えを巡らせていた。言い訳もなにも、もう送ってしまったし、向こうも受け入れてしまった訳だが。
「う、浦原さん! なんで書いて、てかこれ送っちゃったし、でもどうして、」
背後に居座る喜助にあわあわと状況説明と上司からの返信を告げると、彼は悪びれた様子もなく「なに言ってるんですかぁ」と笑っていた。
「アタシは言いましたよ? 『ちゃーんと目を通してくださいよ』って」
図星を喰らったゆかは負けじと喜助に言い張る。
「イタズラの度を超えてますし、か、隠しておくなんて悪徳にもほどがありますよ……! それにあの人は──」
なにを思ったのか、身振り手振りで上司の人物像を伝えていた。彼は優しいけれど、どういう評価をくれるか分からないし、なるべく穏和に上司と部下を築いていきたいのに、と。要は次会ったらなに言われるかは分からないと伝えたかったのだが、動揺してしまってあまり実のないことを口にしていたと思う。
「そんなハナから悪戯なんて思ってやってないですよ」
喜助の飄飄とするさまは事の重大さと釣り合わず。
近いうちに訪れるかもしれない叱責の未来へゆかは「ああ、」と項垂れた。いや叱責はないかも、まだ分からないけれども。
いずれにしても送ってしまったものは取り消せない。それに最後まで流してチェックした自分の非が大きかった。あまり言い過ぎると責任転嫁な気もしてくる。すると気が動転する手前のゆかを落ち着かせるように、喜助は答えた。
「実際、ゆかサンだって長期出張なんて疲れるでしょう? それにちっとも業務が減らないご様子なんでゆかサンのためを思って書き加えさせていただきました」
ぐうの音もでない。確かにその通りだった。そもそも前の居場所では内勤で、こちらに来てからは強制的に営業と出張の外勤を強いられている。
最近は業績が良くなったせいか更に部内の設定目標が高くなって、余裕のない働き方をしていた。自分自身、仕方がないと割り切っていたけれど業務自体ほんとうは肌に合っていないのだから、そりゃあ疲れる。
なんだかんだ結局、社会人として主張すべきことも喜助の手助けを得てしまい、仕事の面でも面倒をかけてしまったようだった。──むしろ、これで良かったのでは?
言いにくい本心をこういうった形で上司へ指摘するのはどうかと思うが、方法はどうであれ「考慮する」という前向きな言葉をもらったのだから。
「……すみません。えっと、結果的に良い返事をいただけたので、ご配慮を…ありがとうございました」
これを良い方向に捉えることへ思考を変えてみた。
自分のことだから第三者から指摘されないと身体を駄目にしていたかもしれない。
「やり口はちょっと強引でしたが、ゆかさんはアタシと居てもずっと生真面目さんなんで」
「は、はい、仰るとおりです」
首をつままれた猫のようにしゅんと喜助の指摘を聞き入れた。
「ただでさえ人間の寿命は短いんスから、あんまり無理をしない」
寿命と聞いて、重めの鉛が胸に引っ掛けられたような。
無理をするなと言う喜助の要望は単純だけれど、ずっしりと響いた。命を削るような過重労働は控えろ、とも聞こえて。皆まで言わない彼の思い遣りが、自身の不甲斐なさを引き立てた。
これが彼の本心なのだと気づくのがまた遅かった。誰よりもこちらの短命を気にかけているのだと。だから、つまり、彼が言いたいことは。
「それとボクはゆかさんが思っている以上に、限られた時間を大切にしたいと思ってます」
ああまた言わせてしまった。本来、人間側が気にかけるべきことを。彼の一番近くにいる者として先日の嫉妬から情けなさが募る一方だった。
そしてようやく悟った。
不在だった間、彼は自分のような人間を想いながら待ってくれていたのだと。お一人様を満喫してましたか、だなんて。なんて馬鹿なことを聞いたのだろう。仲間が常にいても、一世紀以上も永く独り身で自由気ままに過ごしていた彼に対して。
帰ってきて早々、恋人を蔑ろにして仕事したり、素っ気なかったり。己のことばかり考え始めたら、この関係は拗れてしまうのに。馴れと垂れは紙一重、今の自分はいつも寄り添ってくれる喜助に頼りきっていた。
「私も、大切にしたい、です。……浦原さんにはご心配をおかけしたり、いつまでも甘えてばかりでごめんなさい」
いつからだろう。
こんなにも他人を必要として、いつしか一人じゃ立っていられなくなっていて。もしもあなたがいなかったら、とうっかり考えただけでも困ってしまう。途方に暮れて、夜明けの来ない日々が目に浮かぶ。
一緒にいる時間が穏やかで楽しくて、そこに居てくれたら他に何もいらないくらいの平穏が染み付いて。この優しさの知った今では、もう今更全てをなかったことにはできないから。
「なに言ってるんですか逆ですよ。甘えなさすぎなんですよ、あなたは。……ボクにも、周りにも」
いつも真逆の言葉をくれる彼。
読心に長けているからだけじゃなくて、恋人だから理解してくれるんだって自惚れることは、この関係を赦された特権だと信じたい。
こんな、恋人にもちゃんと配慮できていない自分だけれど、配慮できなくなるまで自由に振る舞ってしまうのはあなただけなので、
──……なので、これからもこうやって傍で支えてくれると、嬉しいです。
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