「ボクもまだ甘美が足りないようなんで、」
そう返した。
お祭りを終えたくない。それを意味したものの、少しばかり曲解されたかもしれない。悶々とした胸の内を秘めたまま。ゆかは、ひょい、と米俵のように担がれ運ばれていく。
悪戯だとかお菓子だとかそういうものはもう要らないから、寂寥に勝る愛しさを腕に込めたゆかは、ぎゅうっと喜助の首回りへ抱きついていた。
「……いやぁ、弱りましたねぇ」
彼は口で言うほど弱ってない、絶対に。
身も心も頭脳も鋼な喜助に、いったい何に弱いんですか、と問いたかった。聞いたところで巧みに躱されるか、天邪鬼な答えしか戻ってこなさそうなので、知らないふりして呑み込んだ。
──あーあ、なんで私はさっきのこと引きずっちゃうんだろう、……やだな。
次第に不貞腐れてくる。自ら一緒にいたいと我儘を言ったのに。
それがただの奥様方に対する焼きもち所以で、勝手に機嫌を損ねただけなのもしっかりと自覚していた。
抱きついた彼の首裏で、自分がしかめっ面のままであることも、なかなかこの思いが晴れないことも。厭になるくらい理解している。
つまり、たったの一回の口づけでは元を取るどころか全然足りていない。何が足りないのかは正直わからないけれど、とにかくもやもやが付き纏って枯渇している。
商店の手伝いをしすぎて、ついに自分も商人根性が移ってしまったのだろうか。彼の愛に対してだけは意地汚いように感じた。
──仕事と私情を混同させてるなんて、喜助さんそういうの嫌いそう。
妬いているのが伝わったとしても私情全開になるのだけは避けたかったのにな、感情の制御はなかなか難しい。
彼から甘言を囁かれたところで、意地悪に育てられた嫉妬心はそう容易く大人しくならなかった。お色気むんむんな奥様方に囲まれた喜助を思い出すだけで、口をむっと曲げてしまう。
いつもだったら、それは良かったですね、と流して一時間後にはけろっと忘れているはずなのに。どうしたものか。
ハロウィンをお開きしてからから数十分。今回の悪魔さんは随分と長居をするらしい。もう十分なのであの世へお戻りください、とゆかは心の中で葛藤し続けた。
「はい、お嬢さん。着きましたよ」
喜助の自室へ入ると、ぽす、と畳の上に下ろされる。
──またお嬢さんって、……こっちが勝手に機嫌悪くしたみたいに。
まあ実際にそうなんだけど、と図星になる。
嫉妬の渦に揉まれたせいか、ゆかはぶすっとした声で「ありがとうございました」と礼だけ告げた。
「まだやきもち妬いてるのにお礼はちゃんと言ってくれるんスね。貴女のそういうところ、好きですよ」
「……そうやって好感度上げようとする」
「そんなあ、アタシはホントのことを言ったまでっスよぉ」
隠れて手を繋いでくれて、自分も意地悪だからそれに舞い上がっては喜んで。汚い嫉妬心が帳消しになったはずのに、二人きりになるとぶり返す。
──ああ、やだやだ。
これはどういう心理なのだろう? 自分のことなのにわからない。あまり誰かへ妬くという感情を抱いてこなかったせいか、これが正常なのか、異常なのか。少なくともゆかにとってこの心理状態は異常だ。脳内アラートが鳴り続けている。
「…………」
無言のまま気持ちを整理していると、段々と自信がなくなってきた。
以前、雑誌によくあるコラムで読んだことを思い出す。女の人が結婚すると、色気が増すだとか増さないだとか。ってそもそも相手は子持ちだし。そんな大きい括りで定義しないでほしい。ただの記事を思い出しただけなのに、自分が典型的なヤな女になった気がして余計に落ち込む。
こんな時に限って、前の場所で喜助が『ウチは美少女から人妻まで大人気っスよん』とウキウキにコンか誰かへ告げていたのを思い出してしまう始末。
あれもまた冗談めいていたが、『人妻から大人気』は間違いどころか大正解だった。
人間、一旦醜いと、とことん醜い。
「……魅力的ですよね、人妻って」
言ってはいけない一言が。溜息混じりに滑りでた。
八つ当たりのようなことを吐くなんて。出てしまってから後悔した。
「あ、い、今のは齟齬で、え、と、撤回を」
慌ててなかったことにしようと否定するも、
「ええ、まあ魅力的ではありますが」
あっけらかんと肯定された。
やはりあの親御さんたちは自分にはないものを持って輝いている、魅力的で当然だとばっさり斬られた気がした。
──ですよね分かります、と同調すべき?
──彼氏という立場から形だけでも否定されたかった?
ああ、今の自分は確実に面倒な女へと成り下がっている。そう思われているに違いない。こんなどろどろとした心持ちで正しい受け答えが難しくて。とても哀しい。
──自分で言っておいてショック受けるとか、馬鹿すぎて笑えない。
男と女ではやはり考え方が違うらしい。
男は自信過剰、女は自信過少と聞いたことがある。無論、喜助も自信家で、論理的思考にも長けていて、感情になんて流されない。そんな人と対話をしていると、混乱どころか不安が生じてきた。
全ては彼の御心が理解できない自分のせいなのだけれど。結局、行き詰まったゆかは「そ、そうですよね」という同意を選んだ。
「はい。皆さん魅力的な方々ですよ、良いところがないヒトなんていないっス。まあその逆も然りですが。だからありますよね、何かしら良いところは」
そう諭すように言われるとぐうの音も出ず。
全くその通りだった。
ゆかが反省の色を浮かべて視線を落とすと、喜助は続けて言った。
「ただあたしはその数ある魅力の中でも、ゆかさんの魅力にしか惹かれないってだけで」
また絆された。いとも簡単に、解毒。
この甘言が情けないほどに嬉しくて、目が潤む。
煽て方が喜助らしくて口が巧いとも思う、けれど先に悦んでしまうのが事実で。
些事なことで妬き続けた自分は大馬鹿者だった。妬みだすとなかなか自己肯定ができないから、彼からの確信が欲しかっただけだった。
「……浦原さん」
落とした視線を喜助に戻す。
その眉は八の字に寄せられていた。これは困っているのか、通り越してのお怒りなのか。やっぱり男性の思考は読めなかった。
「ごめんなさい、私、浦原さんが女性に囲まれて嫌だなあって思ってしまって。なんの落ち度もないのに勝手に妬いてしまって」
ほんとうに申し訳ないです、と頭を下げた。
「正直、意外でした。ゆかさんがこういった感情を向けるなんてこれまでなかったんで。あたしも男ですし、まあ妬かれて嬉しいと思ってしまったのが本音なんスけど」
お互いの気持ちは口にしないと伝わらない。今日を終える前にちゃんと話せてよかった。
ゆかが安堵感に浸っていると、喜助は続けた。
「ただちょっと人妻さんたちと長話が過ぎましたね、ご心配おかけしました」
一件落着と思いきや、またむくむくとあの悪魔が顔を出す。
それを咄嗟に感じたのか、喜助が「え、なんでまた顔を顰めてるんスか」と驚きを露わにした。
男の人はいつもは論理的なのに、妙なところで鈍感が過ぎるらしい。一度冷静を挟んだ今なら、沸沸とぶり返す理由がわかる。
「また人妻って言いましたね」
「あ、それは単に一般名詞の表現なだけで」
「もう人妻って言うの禁止で」
「そういうゆかさんが一番言ってるじゃないっスか」
「私はいいんです、私は。浦原さんは見るのも言うのも今後一切禁止です!」
ここまで理不尽な我が儘を言ったのは初めてかもしれない。それに「はい」とも「いいえ」とも答えない喜助は「ハハハ」とだけ返した。
これは今後ともご近所付き合いを宜しくする顔だ。仕方がないし不可抗力なのもわかっている、けれど。それを内心で嬉しそうに享受する姿が想像できてしまうから、前途多難でしかなかった。
「まあまあ、手を出してくださいな」
「なんですか」
あからさまに不機嫌な手のひらを差し出した。
「はいこちら、カボチャの中に詰め合わせです」
ころんと転がったのは予め用意してくれていた小さなお菓子の詰め合わせ。入れ物には顔が掘られて可愛らしい。
「お菓子、ですか」
「カボチャにも花言葉があるらしいんですよ。『広大』とか『寛大な心』とか」
「へえ、そうなんですね」
「ですから今日のところは落ち着いて、ね?」
「このカボチャは手乗りサイズでちっちゃいですけどね」
生憎、今の自分は花言葉のように心が狭く寛大ではない。もはや完全にああ言えばこう言う人間になっている。
「ありゃ、今日のゆかさんは格段に手厳しい」
「厳しくしたいわけじゃ、……」
「致し方ないっスねぇ」
カボチャが一旦退かされると、否応なく喜助の押し倒し戦略が始まった。
「わっ、」両手首を上にまとめられ、喜助の大きな手のひらで畳に柔らかく押さえつけられる。力は入っていないのに振り解けない。
武力行使だと声を上げようとすると、唇に親指を添えられて、──。
「その減らず口は誰に似たのか、まあボクなんでしょうけど」
「んんー!」と閉じられた唇から喋れない代わりに音が洩れる。
抗議することも嫌味を言うことも、強制的に阻止された。
見苦しい嫉妬から始まった彼への八つ当たりは大人しく萎んでいって、沈静される。面倒な女への対処には慣れているようで、やはり何百年も生きている喜助の方が上手であった。
大きく長い親指が外されると同時に、喜助に口を塞がれる。浅く音を立て、くっついては焦らすように離れて。何度目かに深く深く貪られると、湿った接吻音だけが和室に反響した。
「……ふ、っ」
息をする間をくれない。苦しい口づけは幸せの証。
眼元が熱を帯びていく。そのまなじりに滲む涙も幸せの証。素直じゃない心よりも体の方が正直だった。
この数時間で湧き上がり続けた妬みや憤怒も、この行為で全て打ち消される。たったのこれだけで。
ただあなたの愛情を形で示して欲しかった。
散々喚いて我儘を主張し続けてようやく叶った子供みたいに喜んでしまう。ひょっとしたら子供の方が聞き分けがいいかも。
飼い主に構ってもらえた猫みたいに喉を鳴らして驚喜するさまにも思えて、また目の端に涙が滲んだ。
仰向けの体に喜助の重みを少しずつ感じる。
腕や足で囲われて全体重まではかけられていないけれど、体の密着度が高まる度に喜助の体温から重さ、体躯の全てを受け止めていた。
食み合うだけの口づけから、さらに奥までこじ開けられた。深くねっとりと舌を絡められていく。
「はあ、はあ、」と互いの気息が荒く溶けていった。
体力お化けみたいな喜助でも女とのキスだけで息が乱れる、なんて。自惚れたことを考えてしまうと一気に全身がほとばしる。
自分でも知らないうちに色香なんかあったりして。もしかしたら彼はそれを感じ取ってくれているのだろうか。
絡め合う中で、あなたの人妻ではないけれど上手く惑わせられていたらいいな、なんて。そんな罰当たりなことをぼんやりと考えていた。
喜助の唇が一旦離れて、ゆかは短く息を吸う。
垂れかかる彼の前髪がくすぐったい。
薄目でその間を覗けば、彼には珍しく頬を紅潮とさせて、その双眸は充血気味に潤んでいた。とても艶っぽくて、男の色香を感じた。自分との行為でこんな表情を晒してくれる満足感でいっぱいになる。
満たされて、溢れて、もっと見たくなって、もっと、──。
そう感じた時には、ゆかは喜助の両頬を挟んで、自ら頭を浮かせていた。今度はこちらから口づけを仕掛けていく。なるべく濃厚になるように。
「……っ、ぁ、」
仕掛けた割に慣れている訳ではないので、嬌声もどきの呼気が洩れては溢れる。けれど彼との心理戦を重ねていく度に、次第に学んできた。
まず喜助は主導権を握って攻めたスキンシップをとるけれど、その中で安心させようと徐々に慣らしてくれる。こういった行為に於いても、彼は彼なりの計画があるみたいに絆してくれるから、──私は全てを欲しくなる。
赴くままに。ゆかから舌を捻じ込むと、歓迎するように絡めてきた。
その瞬間に一旦離れ、喜助の舌の先へ軽く、かぷ、と歯を立てずに甘噛みした。
「……ん、……」
鼻から抜けるような声を出したのは喜助だった。
──こんな声、初めてかもしれない。
嬉しくて、幸せで、感謝すら腹底から迫り上がる。
彼にこんな声を出させられるのは自分しかいないのだと、皆無だった自信が泉から湧き上がるようだった。
そのまま、啄むように唇を吸ったり、ちろりと時には控えめに舐めてみたり。
煙管特有の渋さを強く感じる時もあるけれど、今日は子供と接していたせいかその苦味はあまり感じなかった。だから無味のはずなのに、この行為が甘美に富んでいて口内が蕩けてしまいそう。
「……っ、……」
気息と一緒に絡め続けていると、してみたいことを感じ取ったのか、喜助は受け身のようにこちらの独り善がりを受け入れてくれた。
単に嫉妬からきた熱苦しい独占欲をぶつけていると云えば、それまでだけれど。
すると重力に屈したように、ずっしりと喜助が首筋に顔を埋めた。
同時に、グッと彼の熱い下半身が腹部に当たったような、気がした。これはひょっとして。
恍惚感に浸ってぼわぼわしているのに、これから進むかもしれない事柄だけは、瞬時に脳裏で浮かべてしまう。すっかり煩悩塗れになっていた。今日の自分は悪魔のお祭りとは似つかわしくないくらいに、一段とはしたない思考をしているらしい。
喜助は、は、と息を吐いてから深く吸って、乱れた呼吸を整えているようだった。
その幽かな吐息がゆかの鼓膜を震わせる。
「……っ、そう、……うん」
耳元で囁かれた短い言葉は、肯定の『そう』……だと思う。それに続いた『うん』も恐らく得心のいったような、満足したような響きをしていた。
これはきっと、それでいい、という意味の、──。
いつもなら、「いいっスよ」「よくできました」とか。どこか俯瞰的な、柔らかく思慮を配っているのに。直後に彼らしい単語は続かなかった。短くはあったけれど、今のは褒めてくれたのだと思いたい。
喜助は顔を埋めたまま、ゆかの髪をぐしゃりと揉んで頬に唇を寄せた。
「……き、すけさん、あの、噛んでしまって、痛くなかった、……ですか」
回らない頭で、ゆかもまた緊張と本能の滾りを声に滲ませた。
「……は、痛いわけ、ないじゃない、スか、……」
頬に口の先が触れたまま喋られて、ぬるく篭った息があたる。それに勘違いじゃなければ、彼も今、同じように本能の滾りを抑えきれなくて、こんな自分に慾情してくれている。扇情的に映っているはず。
薄い布越し。下腹部に感じる熱くて硬さがあるものが、きっとその証なのだと、ゆかは胸を高鳴らせていた。
今までは余裕がなくてあまり気づけなかった。でも今は全身が敏感になって、気づいてしまった。こういった時、女側からはどういうアクションを起こせば良いのか。
「あー、少しだけ待ってください。じきに、……収まるんで」
ハッとして薄ら開けていた眼を見張ってしまう。
彼の顔が横にあってよかった。きっと今、すごく恥ずかしい顔をしている。
──収まる、って。
多分、腹部で主張し続けているそれなんだろうけれど。
それを敢えて問いただすことはあまりに野暮で、空気を読めていないと感じたので噤んだ。続くのなら、続いても。ゆかはゴクリと生唾を呑み込んだ。
「ゆかさんから、あんな風にこられるとは……予想の斜め、遥か彼方の上だった、んで」
途切れ途切れに肩口で囁く。
彼はどんな表情なのか。どんな想いで紡いでいるのか、声色だけでは窺い知れない。辛いのかもしれないと思うと、彼女として心苦しくなった。
──私はいいですよ、準備できてます、大丈夫です。
たったそれだけなのに、喉を通ってこない。
言え、言うんだ、こちらから。
でないと彼にこうして思い止まらせてしまうのに。
自分が勝手に妬いて、愛を確かめたくなって、その衝動が抑えられなくてようやく進む時になったら、結局また彼に我慢を強いてしまう。
以前に喜助は言っていた。
『あなたと同じ足並みでこの先を生きていきたいんス。──なのでお預けです、あなたが同じように僕を求めてくれるまで』
それに似たことを、乱菊も。
自分には理解しきれないことを彼女は憶測なのに完璧に察していた。きっと死神だから、理解が通じていたのかもしれない。悔しいけれど、時間感覚が異なる自分には死神への配慮と想像力が乏しいのだと感じた。
二人とも大人だから何百年も生きてる大人だから、──。
『大人だから、欲張りになるの。欲深くなって、でも大人だから抑制する』
そしてその後、耳貸して、と乱菊が囁いたある言葉が脳裏によぎる。
ただそれを告げるにはまだ勇気がいった。なにしろ言ったことがないから。でもきっと今この瞬間が。彼女の言った、『いざその時』のはず。
ここで進まなければ喜助はいつまでもこちらに合わせてしまう。そんなことはこれで終わりにしよう、とゆかは口を開けた。
「……わたし、喜助さんと──」
喜助さんとならしたいです、と続くはずが、人差し指でそっと押さえられた。
せっかく喉を通った決心は、口から出てくることはなく消滅した。
敢えて言わせまいとするようで、その本意が分からなかった。彼の男性としての自尊心から、聞きたくなかったのかもしれない。乱菊になら分かるかもしれないことを人間には解せない。ゆかは閉口した。
数十秒してから喜助は顔を上げ、鼻先が触れそうなほど近くで見下ろす。
そのまま再び唇が重なった。今度は荒々しくなく、慈しむように柔らかく絡み合う。一旦落ち着いた情慾が形を変えたみたいに、優しい口づけだった。
「まだっスよ、まだ」
そう紡いだ喜助は言葉以上に苦しそうで、その苦しさが彼の慾情からくるものなのかどうか。理解すべきなのに彼の真意すら分からないことが不甲斐なさすぎる。
──なんで、まだ、なんだろう。
今、こちらからも求めていたと思ったのだけれど。
彼にとっては『まだ』お預けだった。
「……こういうのはお互いが求めてこそ成立する。一方的じゃ駄目なんスよ」
この仄暗い和室の中でもただ目に焼きついたのは、眉根を寄せていながらも目尻を垂らした困り顔。
困ることなんて二人の間に何もないのに。
ああ、愛しくて愛しくて、堪らない。
きっと彼は欲張りで、何事においても妥協せず、常に高みを目指す人だから、もっともっと求められたいのだと思うことにした。
──他の誰でもない、私から求められたいから。
そう思ったら、なんて可愛いのだろう。
「わかりました。……また我慢させてしまって、すみません」
発した謝罪以上に笑ってしまった。
だって今、事に及ぼうと思えばできたのに、それを遮ったのは彼だったから。以前は自分から「まって」と口走ってしまったけれど、さっきまでは違った。自ら求め始めていた。
彼の科学者、研究者としての性が情事に対してもそうさせているのがなんだかおかしくて。先に笑みがこぼれていた。
「いえ、あとはボクの匙加減というか。お楽しみはあとに取っておくタイプでして」
へらへらと喜助も笑い返した。
こうして微笑み合っている空間が好きだ。
この世界に自分たちしか存在していない気がして、時空から切り離された感覚に陥る。
「ふふ、奇遇ですね、私も好きなものは最後に食べるんですよ」
気がつけば嫉妬に塗れた黒い塊はとうに消えていた。
今夜の招かれざる悪魔さんは、いつしかこの甘ったるいやり取りに呆れて帰っていったらしい。
でもきっと。もしまた現れても今日みたいに動じることはないと確信できる。たとえ心に醜い悪魔が生まれたとしても、彼がこうして追っ払ってくれるから、何度でも。
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