ピンポーン、──。
チャイムを二度押しても迎えはなく、沈黙。
夜までかかりそうだった仕事が夕方頃に終わり、ゆかの家へ訪ねてみたがどうやら不在らしい。
「すいまっせーん、アタシっスよー」
ふらっと商店に立ち寄られたのは昼過ぎだった。
彼女も直帰だったようで、道すがら「暇だから何かお手伝いしましょうか?」と声をかけてくれたのだが、尸魂界からのクレームやら対処やらで「いえ、今日は大丈夫っス!」と慌ただしく断ってしまった。
落ち着いたので改めてこちらから出向いた訳なのだが。
──居留守……? でも霊圧はここにあるんスよねぇ。
こういう時に相手の居場所が分かってしまうのは些か心苦しい。しかし感じてしまうものは仕方がない。
ここに彼女はいるはずなのだから。
そんなことを玄関ドアの前で考えているうちに、外へ面している通気口からふわっと湯気が抜ける。そして漂う花の香り。
「……ナルホド、聞こえてなかっただけっスか」
そうと分かれば、と喜助はドアの鍵穴に手を伸ばした。
水の音が止まる。暗がり廊下の向こうから生活音が響く。
ガラリ、戸が開き。パタパタ、移動して。ゴォー、と風を送る機械音。恐らくは浴室から出て、洗面所を歩き、ドライヤーをかけているのだろう。
耳から入ってくるそれらは想像に容易い。と同時に、普段聴き慣れない音なだけに腹底からじわじわと情慾が掻き立てられた。彼女の部屋に泊まることは滅多になく、風呂上がりを待つこともそうそうない。
──いやぁ、どんな風に慌てふためくか。
好奇が疼く。風呂に入っている間に自分がいたら、それは大層驚くことだろう。驚愕することはわかっている。わかった上でその反応が見たくて堪らない。心底、悪趣味だと自覚している。昔馴染みにも『お主は恥を知れ恥を』などと言われ兼ねないなと胸中で密かに懺悔した。
ドア越しからは、ふう、気持ち良さげな溜め息が。いい湯だった、と続きそうなほどの気息を聞いた直後、リビングの扉が開かれた。タオルを首からかけ、まだ乾き切っていない髪をしんなりとさせたゆかが部屋に入る。
「──うわっ!」
喜助を一目見るなり幽霊でもみたかのような驚きよう。
ゆかはすぐさまTシャツの裾を両手で伸ばした。その行為で気づいたが、いつもと部屋着が異なっている。下部の長さが全然足りない。というか、下衣がない。真っ白の大きめなシャツから覗く太ももは、通常であれば隠れているのだが。隠せば隠そうとするほど、そこに目が行くのは当然のことで。
「どーもォ、ゆかサン」
早めに終わったんでお邪魔してましたぁ、と喜助は気にしない素振りで挨拶をした。
ところがゆかはそれどころではないようで、頭から更に湯気が上がる勢いであたふたしている。予見通りの反応、良い感度だ。
「……み、見た!?」
見た、とは。
その先にある秘部のことか、下着は履いていないのか。彼女のことだから履いてはいるのだろう。が、逆の可能性も捨てきれない。確信はないが。
ああそうか。いずれにしても、何かが見えたか見えていないか、ゆかからは分からないらしい。つまりはこちらの返答次第。今の関係性が自分に委ねられたような気がして、この状況はとても唆られる。
まさか最初の一声がこれだとは思わず、羞恥を露わにする姿は想像の斜め上だった。都合が良いと思ってしまう自分は性根が若干捻くれているだろうか。いや、男として、恋人として湧き上がってくる情慾は致し方がない本能だ。それに、このような光景はなかなか拝めないので、そうならば、──。
「そりゃあ、バッチリ」
嘘ではない。凝視したのは別の方だが。
彼女の意図したことが服の下に隠れているものだったら、残念なことに一ミリも拝めていない。ただ、風呂上りの火照っているであろう腿の付け根あたりはしっかりと眼に焼き付けている。喜助はそれを意図して答えていた。
「み、見られた、」
そんなに衝撃だったのか。
相手が恋人なのだから偶然で見えてもいいだろうに。うわあ、だの、どうしよう、と。念仏のように呟いている。それはそれで艶かしいとすら思う。
かあっと再びのぼせたような顔。それを覆おうと一度、両手を裾から離した。
すると今度は、あっ離したらいけない、と口にはしていないものの表情がそう言っていて、なんだか愉快だ。口許が緩む。顔も足も隠したいのに、彼女の立場で言うならば穴があったら入りたい気分なのだろう。
「いやぁ大変いい眺めっス、早めに来てよかった」
「! ……変態。なにがいい眺めですか、勝手に入って来て、」
「そんな心外っスよぉ。あたしとゆかさんの仲なんスから、なにも必死に隠すことはないでしょう」
「隠しますよ隠します! よりによってお風呂入ってる時に……!」
「ちゃんとピンポン鳴らしましたよ? 聞こえなかったっスか?」
「聞こえるわけないじゃないですか。……浦原さんのことだから鍵もどうにかして開けたんでしょう、鍵の意味がない」
「居留守されてたら悲しいんでね、ちょちょいっと」
「ピッキングはやめてください」
「ならアタシに合鍵くれたらいいのに」
「こういうことになるのであげないです」
「あんまり変わらないと思いますよ?」
「自分で言わないでください」
ぐっとTシャツを握り締めたゆかは項垂れる。
落とす視線の先には露わになった太ももが。夏場は目にする回数が増える、いつもの御御足。いつもと言ってもこんなに晒される機会は少ないので語弊はあるが、それでも男にはない艶やかさは眼福そのもの。血行が良いのかほんのり火照ったような赤みが一層惑わしてくる。
それが貴女の体の一部なのだから、正直こっちの身にもなってほしい。据え膳というか生殺しというか。触りたいどころか彼女を抱え込みたいという衝動を堪えるのは、あまり快いものではないのだが。
──少しくらい我が儘は赦されませんか、ね?
喜助はポリポリと頬を掻いてから、誘導を試みる。
「そこで固まらずに。さあさ、そのままこちらへ」
しかし彼女はこちらを一瞥してから、足早にタタタ、とリビングを抜けようとした。それでも頑なに裾を持っている。
「逃げないでくださいよー」
見兼ねた喜助はその腕を柔らかく掴んだ。
「あっ、ここを通らないと奥の寝室に行けないじゃないですか……! あっちに部屋着が」
──部屋着が? ということは、つまり。
「ええっと、下着は履いてらっしゃるんですね」
「え? 当たり前じゃないですか。さっき見えたって、あ、ひょっとして嘘ついた、とか」
「嘘じゃないっスよ、アタシからはバッチリ見えてましたし。あなたのその御御足が」
「じゃっ、じゃあ見てないじゃないですか!」
「その見てないっていうのは、服に隠れた下着っスか?」
「言わせようとするのやめてください」
仕方なし。攻防戦を終わらせるべく、喜助は寝室へ逃げようとする彼女の腰を持って、ひょいと持ち上げた。
「ぎゃあ、」と声を上げながらもシャツの裾から手を外すことはしない。こちらも敢えてゆかの手を退かすことは不本意というか、流石に嫌われても困るので控えていた。ああ、この布一枚が分厚い石板にさえ感じられる。
この大きな服を彼女が纏っているのはあまり見たことはなかった。背丈より二回りほどもゆとりのある服に身を包む女性というのは、存外に可愛らしい、というのが率直な感想だった。
ソファに腰掛けてから、ぽすん、と彼女を膝に下ろす。するとさっきまでの威勢は何処へやら。すっかり大人しくなり、ちんまりと座る彼女は、軋むほど強く抱き締めたくなるくらい唆られる。
「あららずいぶんと静かになっちゃって」
「こういうことするから、仕方ないじゃないですか……」
諦観して首を垂れるも、まだ見られまいと体を縮こませている。
「ところでその大きな服、アタシといる時はあまり着てくれないような」
「これは、暑いときとか、ゆるっとしたいとき、とか、」
顔を背けてしどろもどろ答える様子がいじらしい。
反応から察するに、この服も、ましてや上衣一枚しか纏わない姿など見られたくはなかったのだろう。
「あんまり不安がらないでほしいっスねぇ。そりゃあアタシだってあなたの全てを把握しておきたいですけど、この布をぺらっと捲って恋人を不快な思いにさせよう、なんてことはしませんから」
本心を言ったつもりだったのだが、彼女の返しは、
「どの口が言うんですか、さっきからずっとニタニタしてる人が」
とまあ実に的を射たもので。
それにアハハ、と綻べば、笑って誤魔化さないでください、と責められる始末。
「私はいじめられてる気分ですよ」
ぷりぷりと細やかな怒りをぶつけられた。すでに不快な思いにさせているぞ、と諭されている気がしなくもない。
「……でも浦原さんは私の恋人ですから、なんていうか、あ、いやじっくり見ていい訳じゃなくて、その、」
「では見ない代わりに触ってもいい、と?」
「い、いきなり飛躍しましたね……」
「生殺しにさせられてるあなたの大型犬が、律儀に言いつけを守ってる訳ですから、少しくらいはいいかなあと」
「う、」
それなりに正当な事を伝えられたのか、ゆかは言葉を詰まらせていた。
すると数秒を置いてから意を決したように「分かりました」と首肯する。
そして「いいですよ、少しなら」と続けた。
「はい?」
聞き間違いじゃないかと喜助は思わず聞き返した。
「ですから触っていいって言ったんです、少しなら」
恐らく彼女は、ダボついた服の下から体の至る所を弄られると思っているに違いない。その覚悟は悪くないどころか迸る劣情にとってはこの上ない恩恵だが、彼女に我慢させてまで触るのは何かの実験台に縛りつけた感覚と同じような気がして、正直戴けなかった。どこかの現開発局長なら飛んで喜ぶ提案なのだろうが。
喜助は「そんじゃ、有り難く」と断ってから、まずは布越しの太ももに手のひらを置いた。たったのそれだけで、ぴく、と肩が上がって反応を示す。
「触っていい」と了承をしたのに、やっぱり怯えているような。半分までかかっている上衣を少し捲って指を滑らせた。
ゆかはその裾をぎゅっと握りしめる。背後から俯いた顔は窺えないが、きっと目蓋を閉じてはどうしようか思案しているのだろうと想像に容易い。
すり、と手の甲で猫の毛を撫でるように。風呂から上がって時間が経っているせいか、少しひんやりとして、湯冷めのような冷たさがあった。対する喜助は体温が高い。対比する互いの冷温、この温度差は彼女も感じているはず。
彼女の言葉に甘えて、何度か撫でては後ろから彼女の様子を窺っていた。
こうしてようやく、先ほどから目に焼き付いて堪らなかった肌に触れることが叶った訳だが、──。
「はい、肩の力を抜いて」
奥ゆかしい処から名残惜しむように離れて両肩に、ぽん、と手のひらを乗せた。ビクつかせる肩はやはり力が入っている。なので暫く揉み解してあげると、「えっ?」と前方から声が響いた。
肩の力を抜いて、と牽制してから本当に肩しか触らないことが想定外だったらしい。はてさて、何かを考えていたのか、或いは期待してたのか。ゆかは「……肩揉み」と零すと力んでいた肩が柔らかくなっていく。
「おや、どこか別のところを触ってほしかったならそう言ってくださいよ」
「そうじゃなくって、てっきり、私……、もういいです肩揉みがいいです!」
「はいはい」
肌を触るのはもう終わり? とでも告げているような本音を声色に滲ませて。
「湯冷めしちゃうといけないんでね、太ももを暖めてから肩揉みに移行しました」
そう笑えば、ゆかからは「はあ」と短い返事。
まるで行動原理がいまいち解せない、と不思議そうに。
「んじゃ、お望みどおり寝室へ部屋着をどうぞ」
膝裏に腕を通して横抱きにする。
幸か不幸か、大きめの白シャツが邪魔をして。彼女の下着は愚か透き通る肌などは全く見えない。こちらの残念さを彼女は露知らず、「うわっ」と驚きながら再び裾を引っ張って、腰から臀部あたりを気にしていた。
必死な動作がなんだか小動物のようであんまり可愛らしかったので、ふと彼女の額に口づけを落とした。愛くるしさに感謝を込めて、音も立てずに触れただけの、唇。
ふわりと洗い立てのシャンプーの香りが鼻腔を擽る。
するとまた大人しくなり。慌てたり驚いたり、いじけてみたり、悦んだり。忙しいヒトだなあ、とクツクツ喉が鳴る。
喜助は抱えた彼女をべッドへと運んだ。そっと座らせると、控えめに足を崩した彼女は気が抜けたような面持ちで喜助を見上げていた。
まだどこか憂いを拭いきれていない双眸へ、
「ではゆかさん。部屋着、履いちゃいます? それともこのまま一緒に布団に包まります?」
キシ、とベッドに腰掛けながら問いかける。
こちらが与えた選択肢に彼女は、ふふ、と笑みを零してから、
「ちゃんと履いてから、一緒に布団に包まります」
喜助の手を取ってぐい、と引いた。
勢いのまま、ベッドの上に喜助が仰向けになるとゆかは立ち上がり、そそくさと見慣れた下衣を身につけて戻ってくる。
──猫みたいっスねえ、嫌がっていたと思えば嬉しそうにして。なにがマタタビだったのかまでは知りませんが。
大きく広げた喜助の両腕に、自ら包まれにいくゆかは心底嬉しそうな色を浮かべていた。
こちらが無理強いせずとも、彼女が求める時にはこうして睦まじく──。
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