「浦原さん、ちょっと出てきますね」
買い忘れがあったのを思い出したゆかは慌てて居間を出た。
夕飯はもうすぐなのに、テッサイから聞かれるまですっかり頭から抜けていた。なくても夕食に問題ないとは言われたものの、申し訳なくて戻ることにした。縁側で寛いでいた彼の返事を待たずして玄関に向かう。
上がり框に腰掛けて自分の靴を手に取ったのだけれど、ふと。いつもは気にも留めないのに、今日は目につく彼の履き物。荒々しく脱ぎっぱなしにしてあるそれを、年季が入ってるなあ、なんてじっと観察してしまった。
毎日これを履いているためか随分とくたびれた、いや使い込まれた色合いをしている。
──……わ、浦原さんの足、大きいなあ。
そうっと隣に自分の足を並べてみた。
普段はカラコロと鳴らすだけの木板、という印象だったものが、横も縦も自分のそれとひと回りふた回りも大きくて。浦原喜助の筋肉質な体躯までも同時に連想させた。
──どんな履き心地なんだろう、少しだけなら……ほんの少しだけね。
気になった好奇心に言い訳を重ねながら、ゆかは恐る恐る彼の下駄に両足を嵌めてみる。鼻緒部分がほんのり広がっていて、喜助の甲高そうな足が脳裏に浮かぶ。
彼よりも短い足指がそこを潜るけれど、見てわかるくらいぶかぶかだ。男性の下駄、いや、浦原さんって高身長だから足も大きいわけだ。
──灯台下暗し、違うかな、ふふ。
近すぎて気づかなかった事実に顔が思わずにやけてしまった。そのまま立ってみたものの体幹がぐらついて、カラ、コロ、と不慣れな音が響く。
「わっと、……と」
危ない危ない。重みのある下駄に重心を持ってかれて、足首をうっかり挫いてしまいそうだった。にしてもこれで戦闘するなんてすごいなあ、とゆかは小さな感心を示していた。
「なーにヒトの下駄を履いて楽しんでるんスか」
背後からの声に、ぎゃあっと肩が上がる。
ずいぶん汚い声を上げてしまった。絶対に揶揄われる。数秒先の未来が目に見えていた私は振り返りながら、一言目に「す、すみません」と謝った。特段悪いことをした訳ではないけれど、こっそり興味本位なことをしたのは間違いない。
「べ、別に大きいなって思っただけで……楽しんでいた訳ではないです」
腰を下ろし、すぐさま下駄を脱いだ。勝手に履いて、彼の存在を妙に確かめたりなんかして。自らしたことなのに恥じらいが。下手なこと言ったら自滅しそうなので、視線は合わせないように努めた。あの姿を見られていたなんて、弾む好奇心に気を取られすぎていた。
「へー、その割には長いこと玄関で座ってましたね」
「……いつから見てたんですか」
「最初っからいましたよ、買い物にいくのに財布を忘れてたんで」
「も、もっと早く言ってくださいよ!」
「ヒトの下駄で遊ばないでくださいって?」
「違います、お財布を忘れてることです」
へらへらと笑われた。でも忘れ物を持ってきてくれたことへ、ありがとうございます、とポンコツな頭を下げる。失念した自分が強く言う立場ではないし、情けなさと共に感謝の念を向けた。
「んじゃ、アタシも一緒に外へいきますか」
「あ、はい。忘れっぽくて心配ですよね……」
恋人のものを履いて浮かれてるわ、見られて恥ずかしいわ、おまけに一番大事なものを忘れるわで悲しくなる。多分彼は、他にもやらかすかもしれないと心配したんだと思った。
「いえ、せっかくあっためてもらったんで、コレ」
そう言って、無骨に節くれ立った足指を鼻緒へ通す。
くたびれたはずのそれにぴったりと収まって、彼の作務衣によく馴染んでいた。
──別に、暖めてたわけじゃないけど。
そう思いながらも胸奥は愚直にむず痒くなって、自ずとはにかんでしまう。隠れて履いたことに本人はどう思っているか分からないけれど、その些細な一言で救われたような、朗らかな心遣いを勝手に感じて。
颯爽と歩き出す彼。やっぱり履き慣れているだけあってしっくりくるなあ、と大きなそれに見惚れていた。
「そんなに興味あります? ヒトの足なんかじっと見て」
顔や体ではなく足元を見続けるゆかに解せない、とでも言いたげに。
「だって私は普段履かないですし、改めて見ると馴染んでて浦原さんにお似合いだなあって感心しちゃって」
自称ハンサムなんでしょう? と笑って返した。
こちらがそう思っているかは話が別だが、それは触れないでおく。
「……なんだか、ゆかさんからの率直な褒め言葉って珍しい気が」
てっきり、ようやくアタシのハンサムさが伝わりましたか! などと乗ってくるものだと思っていたので、指摘されると妙に照れ臭くなった。
「ああー、お財布持ってきてくれたので。その御礼ってことで」
照れ隠しに理由付けをして自分のサンダルを履く。
前に立つ喜助がガラリと店の引き戸を開けた。
「今度、あなたの草履でも見にいきましょ」
喜助からの思いがけない提案に、ぱあっと顔を上げる。
「はい、ぜひ、見にいきたいです!」
嬉々として快諾すると、
「ゆかサンの和装も悪くないと思うんスよねぇ」
喜助がこちらを見ながら首を傾げている。
その言い草はなんだか大雑把に見立てられている気がして、直前の心遣いはどうしたのか、と言い募りたくなった。似合うでしょうね、の一言もないのかと。期待してしまうのは傲慢なのだろうか。
「ええー。悪くないってなんですか、うっとりすること間違いなしですよ」
「ハハハ、いやぁーあなたも言うことがアタシに似てきました」
「それってどういう意味ですか」
「長く一緒にいると好みや言動が似てくるそうで」
「だからそれって、──」
「アラ嬉しくなさそう」
「う、嬉しい嬉しくないとかじゃなくて、浦原さんがそう言わせてるんですー」
「似てくれてあたしは嬉しいっスけどねえ」
──そうなんだ、喜助さんは嬉しいのか。
彼の新しい内面を垣間見た気がして、まだ知らない一面があったのかと減らず口を少し噤む。
「ゆかさんが着るんですよ、似合うに決まってるでしょう」
はい、と差し出された手のひらへ自身のそれを重ねると、いかに彼の存在が大きいか思い知らされた。足や体だけじゃなくて、日常の中心にいてくれる存在が。
「今度はなに笑ってるんスか」
「いーえ、なんでもないです」
ぺったんぺったんと静かに擦るサンダル、かっこんかっこんと穏やかに響く下駄。隣同士、不揃いに歩いていく。
急がないと夕飯に遅れてしまうのに、ゆったりとした足取りでスーパーに向かう。二つに伸びた影が幸せを導いているようで、ゆかは心の中でテッサイに謝っておいた。
──この時間が愛おしいので、ちょっとだけ喜助さんをお貸りします。
もしかしたら、ただ単に自分も浦原さんと同じようにして歩いてみたかっただけなのかもしれない。
自身ですら気づけなかった願望にいち早く察してくれる心根も、その独特な装いも、あなただから大好きだ。
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