§


 じっとり、脂汗が滲む額。整った空調もない現状。
 顰めっ面のゆかは湿度の高い和室から逃げるように、風にあたろうと涼みに座ったのだが──。

「……浦原さん、暑いです」
「アタシに言われましても、夏日ですし」
「いや、言いますよ言います」
「えーなんでっスか」
「そりゃ縁側で密着されたら余計に暑苦しいですよ!」

 ぴたりと背から離れない人肌に堪らず抗議した。

「ほら、扇子で仰いで差し上げますから」

 生温い風が、へばり付いた前髪をそよがす。
 十分とは言えない暑気払いに、ゆかは唇を尖らせながら返した。

「……えっと、背中が暑いんですが」

 後ろに篭る二人の熱。離れたら冷えてきっと心地よいだろうに。と同時に物寂しさも覚えそうな、ああでもこれは秘めておこう。彼が飽きるまで、今暫くは──。

 鳥がさえずって、蝉が合唱して。
 そよ風を受けながら、ぼんやりと雲を眺めて。カラン、と近くに置いた麦茶の氷の溶ける音だけが、清涼を運ぶ。

 やがて喜助は、体勢を変えようと両膝を立てながらゆかの体を挟む。それに更なる密着感と暑苦しさを覚えつつも、何も言わずにじっとしていた。なんだかんだ自分もこの涼み方が好きになってしまったらしい。惚れた弱みは恐ろしい。……とは言え、暑いのには変わりないのだけれど。

「そんなこと言って、結局ゆかサンはアタシに合わせてくれますよね」
「仕方ないじゃないですか」
「アタシのことが好きだから?」
「はいはい、誘導するのはずるいですよ」
「何度だって聞きたいんスもん」
「いまは暑くてそれどころじゃないです」
「えーヒドイっス」

 彼は不服そうにしながらも、立てていた膝を胡座に崩した。
 自然と自分の臀部がその中に入る形となって、囲いがなくなり。結果的にほんの少しだけ涼しくなった。
 普段は言わないけれど、この体勢は密かにお気に入りだったりする。唯一安全な空間への侵入が許されたような、そんな気がして。彼の特別を感じずにはいられない。

「でも私、こうするの好きです」
「ええ。知ってます」
「浦原さんの体が大きいからかな、なんだか安心します」
「それも知ってます」

 前にも似たような返しをされたような。
 毎度のことながら、なんで全知なのだろう。その声は軽やかで、ふざけているよりかは楽しそうに聞こえる。
知ってるのに言わせようとするあたり、やっぱり誘導されているような気がした。

 ──でもいっか、暑さは凌げているし。

 なにより幸福感でいっぱいだ。
 これが彼なりの愛し方なのかなと思うと満更でもなく、目尻が垂れていく。

「知ってますよ、ボクが離れたら物寂しいのも、あなたが今幸せなのも」
 
 後ろから回る腕が強まる。お互いの肌が密着してまた熱を伴ってきた。なのに嬉しい。ああもう、全てを看破されては何も言い返せない。ただ、えへへと喜色を浮かべるだけ。

 ──ありがとう、ぜんぶ知っていてくれて。

 今にも溶けそうな頬を隠すように、ゆかは夏空を仰いだ。

 纏わり付く汗、人肌。不思議なことにだんだんと心地が良くなってくる。ああだこうだとくっついては揶揄してきた喜助の言葉数も減ってきた。少し風通しが良くなって同じように涼んでいるのだと思う。

 このまま目を瞑ってしまうと、蝉時雨も時折ちりんと響く風鈴も子守唄に聴こえてきて、うつらうつらと首が垂れる。何もしない時間、至福だ。会話も減ってくると、恐らく彼も眠たいのかもしれない。

 かくん、ゆかが大きく前方へ頭を垂らしそうになった時、

「おっと」

 喜助がそのおでこを手のひらで受け止める。優しく支えつつ、背後にいる喜助の肩口へ頭を預けるように体を抱いた。

「……あ、すみません、いま寝ちゃってました、」

 はっと潤む瞳を薄ら覗かせる。
 首だけ振り返るように見上げると、

「いいっスよ、まだ暫くこうしていても」

 時間もあるんで、と喜助もまた眠そうな声で返した。
 だらけた全身が意識よりも先に寝ているようで、力が入らない。今から家事やお手伝いをしようにも、睡魔にやられてしまって立ち上がることも億劫だ。
 喜助の返事を聞いたゆかは、良かった、と再び睡眠に戻ろうとした。

「なんだか、眠くて眠くて……、死にそうです」

 堪らず自身の怠け者っぷりを露呈してしまう。夏場の出勤や出張で疲れが溜まっていたのだと思った。

 ──ねむい、今日はだらける日だ、休もう。

 こういう日も必要だ。
 休養だと都合よく納得し、三大欲求のひとつへ忠実に従うことにする。そのまま体の向きを横に変え、頭を肩口にこてんと乗せた。
 ゆかが再び目蓋を下そうとすると、眠りを促すように喜助が髪を撫ではじめた。さらさらと触ったり、くるくると髪を弄ったり。それがまた心地よかった。普段の寝てばかりの彼とは真逆で、今は彼が睡眠導入剤のようだ。

「……っ、んぅ、」

 ところが夢の世界へ行こうかという瞬間、唇に感触が。虚ろ目を開ける。こちらを覗き込むように喜助が首を傾けていた。

 む、せっかく寝ようとしてたのに。それを妨げられたように感じて軽く眉根を寄せると、喜助は「人工呼吸っス」とよく分からない言い訳を口にした。

「ゆかさんが死にそうって仰ったんで。それは困るなあ、と」

 ああ確かにそう言ったけど、と思えば「なんですかそれ」ふふ、と笑みを零していた。

「でもこうやって浦原さんが生き返らせてくれるなら、心置きなく寝られますね」
「ええ、まあ。どれだけ寝てもいいっスけど、」

 喜助は頬に触れるだけの口づけを落とした。
 無精髭がチクリと頬に当たってから滑るように耳元へ寄り、ふ、と息がかかる。

「あなたが目覚めなかったら流石のボクも困るんで、ちゃんと戻ってきてくださいよ」

 半笑いで囁かれる。自分を見下ろす表情はどこか儚げに微笑んでいて、揶揄しているようにはあまり思えなかった。

 冗談めいて、けれど真っ直ぐな言葉に、なんだか遠い昔のことを思い重ねる。それはまだ虚が頭の中にいて、夢から目が覚めなかった頃、──。
 もし彼もそのことを思い浮かべて言ったのなら、『生き返らせてくれる』なんて言ったのは配慮が足りなかったな、と反省した。あの浦原喜助も、人間が死に直面することが怖いのだろうか、と。死に対していくつもの手段を用意して努力を惜しまない彼なら、口にしないだけで。人間に対しても死は怖いという感情を持ち合わせているのでは、と今更ながらに感じていた。

 ──喜助さん、普段そういうこと言わないのに。

 相手がいつも余裕綽綽に構えているからてっきり怖いものなしだと思い込んでしまって、自分は恋人として察しが悪いな、とつくづく嫌になる。

 肩口からほんのり頭を浮かせたゆかは、喜助の頬に手を添えた。そして、くい、とこちらへ向けて彼がしたのと同じように唇を重ねる。喜助が少しだけ瞠目した様子を見届けてから「大丈夫ですよ」と柔らかく告げた。

「私は必ず浦原さんのいるところに戻ってきて、今みたいに人工呼吸を仕返しますから」
「あたしは眠いからって瀕死になりはしませんよぉ」
「そんなこと言って、私が目覚めなかったら死にそうって顔してましたよ?」

 こちらそう思っていたのが意外だったのか、喜助は「あー、」と何かを言いあぐねてから、ふっと目を細めた。

「そっスね、じゃあ……目覚めの人工呼吸をお願いしようかな」

 ──僕に、と。
 彼には珍しく、その感情を認めるように心の内を吐き出した。直後、手のひらでゆかの目蓋の上を覆う。
 わかりました、と言う前に、その大きな手で視界が遮られてしまった。

「はーい、もう寝てていいっスよ」

 なんだか雑な言い草で寝るように促された。
 あ、さては今の表情を見られたくないんだな? そう確信すると、途端に頬がにやけてしまう。

「ゆかさん。口元、笑ってるの見えてますけど」

 それに「ふふ、ではお昼寝してきます」とだけ返して大人しく口を噤む。喜助をリクライニングの椅子のようにして背を預けていると、生温い風が頬を撫ぜる。外からのそよ風じゃない、パタパタと。扇子で仰いでくれている姿が、目蓋の裏で感じられた。

「……良い夢を。待ってますよ、起きるまで」

 これはつまり目が覚めたら彼にキスをするということ。
 予め約束された口づけは恥ずかしいものがあるが、これで彼を安心させられるなら厭ではない。
 それに今日だけは自分が喜助を思い通りにできている気がして。ちょっぴり楽しい。

 こんな暑気払いも悪くないなあ、なんて夏の猛暑日に感謝しながら昼寝についた。

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