──……いったい何枚同じ服があるんだろう。
聞くところによると背丈に合う反物がないからと全て自作らしい。縫ってる姿は見たことがないのでその真実は定かではない。が、本人が言うからにはそうなのだろう。確かに百年も前の日本人だと平均身長より遥かに高い。ふうん、とその時は聞き流していたけれど、合理的だったんだなあと何枚もの和服を手に納得した。
ゆかは外から取り込んだ作務衣を畳んでから、「よいしょ」と立ち上がった。両腕に抱え込んだ服と羽織りが積み重なって顔半分まで隠れそうだ。辛うじて視界は遮られていないので、このまま一気に全部運んでしまおう。廊下へ出ようと半歩進む。
──と、その前に。
ちら、と視線だけを右下に移すと、だらけきった店長が円卓に突っ伏していた。横向きの顔を覆うように帽子を置いて、ああこれは爆睡しているな、と目視で確認してから残りの家事を終わらせることにした。
──テッサイさんたちがいないうちに片付けないと……。
今日は珍しく重い荷物が沢山あるから、とジン太と雨を連れてテッサイが直々に表へ出向いていった。何の仕入れかは知らないが、大戦後は尸魂界の公認店となったこともあり、なにかと依頼がひっきりなしだった。一方、駄菓子の方は閑散とした人気のようだけれど。
従業員はあくせくと働き、当の店主は休みなのだろうか。休みでなくても昼寝は多いように見える。単に暇なのだろうか。
いや、それくらい疲れてるんだな、と思うことにした。元来の性格がぐうたらでも現に忙しいことは事実。怠けている訳ではなく、疲れているのだ。この服の持ち主である科学者さんは、眼の下に濃い隈ができるほどお疲れなのだ、多分。
そんなことをぼんやりと考えながらせっせと衣類を運ぶ。そして居間と廊下を往復すること数回。
「よーし、おーわり」
子供部屋の前へそれぞれの服を、彼の和服は自室前に。
後は自分たちでしまってもらうことにしている。箪笥まで入れるのはなんだか違うような。商店のお母さんになってしまう気がして、私生活にそこまで介入しても良いのかと、今の立場が曖昧なだけに一歩引いて身の回りの世話に務めていた。
──そういえば最近夜一さんの服、洗ってないなあ。
どうでもいい気づきを得てしまう自分も暇人である。
近頃の彼女は猫の姿でいることが多く、食費も洗濯も少なくて済む。一家を管理するテッサイさんにとってはとても有り難い存在なのでは? なんてケチくさい倹約家みたいな事を浮かべながら、喜助の右隣へと腰を下ろした。
特にすることもなく、ぼうっと眺める先は開けっ放しの縁側。洗濯日和だった外のそよ風を真正面から受けて、ちょうど良い気候が家事終わりのちょっとしたご褒美にも感じられた。
目を瞑って、「んんー」と両腕を伸ばした。
スッキリした面持ちのゆかは頬杖をつきながら、隣でうつ伏せに寝る店主を見下ろす。
「ぐう」
僅かに聞こえた低い唸りはいびきか。
ずいぶんと気持ちよく寝てらっしゃる。その音は激しいわけでもなくすぐに収まって、小さい寝息へ戻る。にしても帽子を顔に乗せているせいか、表情が確認できずなんだかつまらない。
寝顔くらい自分だけの特権なのにな、と静かに唇を結ぶ。考えるうちに、ひょっとして外の日光が眩しいだけなのかもしれないと思い始めた。
「眩しいなら自分の部屋に戻ったらいいのに」
囁いたところで、聞こえていないけれど。
ゆかは遮光してまで寝るのであればと思い、控えめに自室へ戻ることを独り言のように促した。
「……そしたらゆかサンはアタシの部屋に来ないでしょう」
返事が戻ってきてびっくりした。
そのハキハキとした声色に、長いこと狸寝入りをしていたのでは? と疑心が働く。きっと寝たふりが得意なのだろう。声を上げたのに体勢を変えないのはただの怠惰か。
「なんだ起きてるじゃないですか」
「たった今起こされました」
「なら部屋に戻って何度寝でもしてきていいですよ」
「それはイヤっス」
「イヤって、浦原さんは寝るのが趣味みたいなものでしょう」
大きい子供のような駄々っぷりに、軽く吹き出してしまった。
「あなたが色々終わるの待ってたんスよ」
「次は一緒に畳むのどうですか? 緑のもの、多すぎなんですもん」
「それもイヤっス」
「今日は浦原さんのイヤイヤ期ですか」
口ではそう言いながらも「まあ逆に服がぐちゃぐちゃになりそうなのでいいんですけどね」とゆかは見られてない事を良いことに、ふふ、と目を細める。
今では子供たちの母に似た世話焼きだけれど、やっぱりこれは自分だけの役得だなと思い至った。本来は関わり合えなかった人と、こうしてお世話になって、恋仲になって。相手からも世話を任されて、想い返されていることが、それだけで嬉しいと喜べる。
些細なことで大きな幸せを得られる自分はほんとうに単純な人間だなあ、とつくづく実感していた。
すると喜助は「あのー」と何かを言いかけて、間をあける。
「ずっと気になってたことがあるんスけど、」
「はい、なんでしょう」
彼は円卓に突っ伏したまま顔を上げず、横着に会話をし始めた。
「昔あちらでゆかサンがお使いになった鬼道なんですが」
ずいぶん前の話をするなあ、と訝る。
恐らく彼は破面と対峙した時のことを言っているのだと分かった。
「ええ、それが、」
──どうかしました? と訊き返す前に、声を被せられた。
「あたしが過去に使ったものに倣ってました?」
あまり抑揚のない声で掘り返された事実は、突拍子もないもので。正直どうしようかと焦った。彼が言う通り、図星なのだから答えづらい。
「あー、」と考えるふりをしながら、何て返そうか時間を稼ぐ。安易に、そうですよ、なんて言ったら逆手にとられた挙句、揶揄われそうな気がしてならなかった。
「んー、いや、そんなことないんじゃないんですかね。あの時はいっぱいいっぱいで、よく覚えてないんですけど」
どうだったかなー? と見られてもいないのに頬を掻いて誤魔化しに入った。
「そっスかぁ。あの後『お使いになったものは素晴らしかった』って言ったのも世辞なんかじゃないんで、あたしはしっかり憶えてるんですけどねぇ」
分かってはいたが、知らないふりをすると心苦しくなるものだ。確か、救護詰所で入院している間、使用した鬼道がログで残っていて……。あれもあれで顔から火が出そうだった。しかも喜助と二人だけでなく、あの場には夜一や平子もいたような。
だが、そもそも何故今更そんなことを、と逆に問い詰めたいくらいに唐突過ぎる。
「うーん、言われてみればそうだったような」
このまま濁してしまおうと試みた。
それでも体を起こす素振りは見せない喜助は、まだ寝たふりの姿勢で続ける。
「……ただ、この間お守りのメンテナンスをして思い出しただけっスよ」
そうだ、あのお守りが何かの拍子でほつれてしまい、念のため喜助に返したのは一週間ほど前。その事を今、こちらから訊いていないのに、顔を合わせてもないのに、自分の思考があまりに単細胞すぎて見透かされていたのだろうか。ゆかが抱いていた疑問は呆気なく解決されてしまった。
「そ、そうでしたか」
ぎこちなく返すと、直前までのまどろんでいた空気は若干ピリついたものへ変わったような気がした。
──え、もしかして、今日の喜助さん機嫌悪い……?
あまりそんな姿を見たことがないため、判断がつかない。
元いた所でさえ、機嫌を損ねた浦原喜助なんて一つも見なかった。考えてもみれば横にいるのに帽子を顔の上に置いて寝るなんて、普段では見せない寝相に妙だなとは感じていた。だからずっと顔を合わせずに、突っ伏してるのか。とすれば、ふて寝? それすらも分からない。だとしてもその理由が不明で。彼の行動原理をぐるぐると巡らせる度、心拍の上昇を感じた。
「あの時点であたしをどう想っていたかは分かりませんが、もしも。過去に使っていた術を憶えていてくれて、それを実践してくれていた」
かあっと頬に熱が集まっていく。
あの時点でどう想っていたかって、頭脳明晰の人が解らないわけがない。寧ろ言わせるための誘導尋問に違いない。ゆかは、そんなこと分かるでしょう! と声を荒げたかったが、それを告げたら羞恥に自滅するので口を噤んだ。
途端、ガタ、と卓が。
おもむろに喜助は上半身を起こした。
「だとしたら。慕われるってすごく嬉しいことなんスね、……とまあ、そんな事を思ってしまっただけなんで」
ゆっくり瞬きをする眼はまだ眠そうで、仏頂面にも見えた。顔を上げたタイミングに、喜助のご機嫌ナナメのような態度。
思わず身構えてしまう。それでも左隣の喜助へ体を向け、なんてことない素振りで話を続けようとした。
「あ、えっとそのことについては」
あなたの言う通りです、と一言だけ返せばきっと彼のご機嫌は戻る。戻るどころか上機嫌になって本調子以上になりそうなのが目に浮かぶ。
それに小さな嘘でも吐かない方が良いのだ。当たり前だけれど、これまで吐いてきた嘘の中で、良いものなんて一個もなかった。羞恥心から出た保身の嘘も、一度吐いてしまったら自分自身をも欺いてしまう。心苦しさだけが残る。分かっていたのだけれど、最初の弾みで「よく覚えてない」と言ってしまったから、本当の事が言い出せない。
「間違ってたらいいんスよ、気にしないでもらって」
卓上に置き去りにされた帽子。縁側から斜陽が差し込んできて喜助の表情がよくわかる。とろんと眠気を孕む双眸に、不満げに顰められた眉根。
いいから気にしないで、と放った割には似つかわしくない様相を晒していた。そして何かに困惑しているようにも見えた。その何かはよくわからなかった。
「あの鬼道はですね、何て言いましょうか……」
正直に全部憶えてるし、全部浦原さんを想っていた故の行動ですよ、なんて今更言うには彼の態度からして好感触にとってもらえるか不安になる。
初手の一回、さり気なく吐いた嘘が最後まで邪魔をしてしまって。
言い訳やら謝罪やら考えていると、ひょっとして彼の機嫌を損ねた原因は自分にあったのではと思えてきた。しどろもどろなゆかの応対に、喜助が口を開ける。
「……なんだか」
溜め息まじりの、諦めたような呆れ声。
この声のトーンは、よろしくないご機嫌と合致した。きっと自分が何かやってしまったに違いない。小さな嘘を悟られたのかと、どきりとした。
そしてばつが悪そうに視線を逸らした喜助は、抑えた声量で呟く。
「……ボクばっかりあなたを想ってるみたいじゃないですか」
予想だにしなかった吐露にゆかは目を丸めながら、その視線を追う。顔色を窺うように近づいて、「え、と、今のは、」と訊き返したら、──。
「うわあっ」
両肩を掴まれながらひっくり返るようにして、畳の上へ組み敷かれてしまった。ビク、と体が跳ねて強張る。
「すっすみません、怒らせていたんだったら謝りますし、ちゃんと憶えてます! 浦原さんが使った鬼道を真似しました、元いたところで闘ったものを覚えてたので! でも九十なんて無理だったので、なので、えっとその、憶えてないって嘘ついて、……ごめんなさい」
そこまで息継ぎもせず告げると、喜助は、ぽすん、と。ゆかの鎖骨あたりへ頭を垂らした。
そのまま密着されて上半身の重みを感じるが、息苦しくはない。ただ身動ごうにも自由に動けないゆかは、「う、」と困惑を露わにしたまま、真っ直ぐに木目天井を仰ぐしかなかった。
この行動は一体。機嫌が良くなかっただけでなく、単に寝る場所が卓上から自分へ移っただけにも思える。
こちらの思案を余所に、顔を伏せている喜助は口籠もりながら紡ぐ。
「ではあの時もうすでに、ボクを想ってくれていた、と。そういうことですね」
彼の口から洩れる熱が鎖骨と胸の間に広がる。
くぐもった声で確かめるそれに「……はい」と答えてから、彼を納得させたくて「はい」と二度続けた。
喜助はゆっくりと気息を洩らした。
「それ以前から憶えていてくれるほど、ボクはゆかさんの中に居た。その事実が嬉しい」
想いの程度を味わうように「……とても」と重ねた。ぎゅう、と背中に回った腕が強まる。
いつもなら、そんなに好きだったんスかぁ、とかなんとか言うくせに。揶揄ってこない。
彼のこんな態度は見慣れなくて、当たり前じゃない返しにこっちが嬉しくなって。空いた両手で顔を覆ってしまった。
相手が悦ぶさまを聞いて一気に昂っていくこの感情の名前がわからない。あなたが嬉しいことが嬉しい。それだけで胸がいっぱいになる。
──今日の喜助さん、どうしたの。
喜助は顔を胸近くに埋めたまま、ぐりぐり、と左右に揺らしては充てがう。
この行動の意味することが、悦びだけなのか、幸せなのか、甘えなのか。もうどれでもいいくらいに可愛くて、一層愛おしく感じられた。
ゆかはそれへ応えるように、右手で色素の薄い髪をわしゃりと撫で上げながら、左手で彼の肩をそっと抱いた。
家事をしている間は母のような立場だなって感じていたけれど、やっぱり違う。たとえ母性を感じても、彼に対しては常に恋心を向けているし、彼からも同等のもの求めてしまう。
「私もですよ。……だから今でも夢なんじゃないかって思う時があります」
目が覚めて全て幻だったら、と怖い時がある。でも今この瞬間はそんなこと思わない。確かに残る愛らしさを指に乗せて。後頭部の金糸を揉み込むように撫ぜるとまた、ぐり、と顔を押し付けられた。
今日はイヤイヤ期から始まって。と思ったら抱きついて。
それがあんまり珍しいので、
「ふふ、今日の浦原さんは大きい犬か子供ですね」と感想を伝えた。決して悪い意味ではない、むしろ良い意味で喩えている。
もぞもぞとようやく面を上げた喜助は、水面から顔を出した魚みたいにして、唇に優しく触れた。
「どうです、その大きい犬か子供にキスをされるご気分は」
口端を吊り上げて言った。
ああ良かった、いつもの浦原さんに戻った、胸中でほっと息をつく。
「悪くないですね」
「良いって言えばいいのに、あなたも素直じゃないっスね」
「それは浦原さんも。お互いさまですよ」
独りで勝手にご機嫌を損ねていたお返し。
結局その事由は不明だけれど、今となっては大した問題ではない。
今度はゆかから喜助のおでこへ唇を落とすと、彼は再び巣中へ戻るように胸元へと戻っていった。今日は此処が彼のお気に入りらしい。戻っていく直前の満足げに緩みきった頬が可愛かった。堪らずクスクスと笑いが込み上げてくる。
そしてゆかも再び髪の毛をくりくりといじり始めた。
この少しごわついた髪を触ると蘇る、あの日。あんなに遠く飛んでいった蒲公英の綿毛が、自分の足元へ舞い戻ったみたいで。なんだか不思議な感覚に陥った。
掴めそうで掴めなかったはずの花。それも今ではなんの迷いもなく触れられるどころか、こうして花の根っこに捕らえられてしまった。蒲公英に憧れていた雑草はいつしか横にいるのが当たり前になっていた。
「今日のゆかさんはお日様の香りがしますね」
くん、と喜助が鼻をきかせる。
「ああ、さっきまでお布団と洗濯物を取り込んでましたから」
「そっスか、道理で、」
言うと、彼はまた静かになった。
ゆかは、はい、と言う代わりにトントンと肩を叩いて返事をする。
暫くして、喜助の規則的な呼吸が胸を伝う。
生温かい息がだんだんと心地よくなってきた。
微睡みに沈んだ彼から誘われるように、眠気が襲う。指先で喜助の髪を揉みながら、うとうと意識が遠のいて。部屋にいるのに日向ぼっこをしているような安息感。平穏で、心安らいで。
ぱち、と一回瞬きをしようとしたら、目蓋が上がらなくなった。
「うえー、重てぇ。今日はテッサイと雨だけでよかったろ、疲れたぜー」
商店の入り口でジン太はドスンと仕入れた大荷物を置いた。
「ジン太殿、こちらに置いてはなりません。奥の物置き場まで持っていってくださいますかな」
有無を言わせないテッサイの圧にはジン太も逆えず。
「ちぇ、しょうがねぇな」と悪態をつきながらもずりずりと廊下の奥へ引き摺っていく。そのすぐ後ろを雨とテッサイが続いた。
その途中、ジン太が「んあ?」と足を止めた。
戸の開かれた和室の前で気まずそうに中へ視線を向けている。いきなり大人しくなったジン太に「……なあに?」と雨も興味本位でその横へ立った。
「何かあったのですか、ジン太殿」
後ろから顔を覗かせたテッサイは事情を察して「これはこれは」と微笑ましい様子に声を潜めた。あまり子供の前では見せない方が良いような寝格好ではあるが、そこまで際どいものでもない。
「……キスケさんとゆかさん一緒に寝てる」
仲良し、そう雨が見たままを正直に零すと、ジン太が驚いたように固まった。
「ねぇジン太くん、顔が髪の毛と同じ色になってるよ」
なんで? と小首を傾げて問うと、「べっ別になってねーよ!」と荷物を持ってそそくさと奥へ行ってしまった。
それを見届けたあと雨は、「……なんか珍しいね……」今度は残ったテッサイへ賛同を求めるように呟く。
「居間で昼寝とは、店長も神野殿もさぞかしお疲れなのでしょうな」
「そっちもだけど、寝相が」
雨は不思議そうに眺めた。
その視線の先には、ゆかの腹部近くに喜助の頭が乗っかって抱きつくように寝ている。
「確かに神野殿を枕にするなど、店長は後で叱られかねません」
「……うん、お腹の上に頭が乗っててゆかさん重たそう」
「そうですな。……二人が起きるまでそっとしておきましょう」
テッサイは珍しいという子供の率直な感想を受け、察していた。
雨の言う『珍しい』は寝相そのものが珍しいのではなく、どこか他者を近寄らせない排他的な喜助が、安心しきったように身を寄せている姿が珍しいのだと。
二人の仲睦まじい空間に「ふむ」と要領を得たテッサイは、続ける。
「では雨殿、今日は夕飯の支度をお手伝いしてくださいますかな? 本日神野殿には多くを対応していただきましたので」
「はい、わかりました」
むにゃむにゃと。寝言になっていない喜助の声と、その頭を眠りながら撫ぜるゆか。
そんな無防備な寝姿を尻目に、テッサイと雨は献立について話しながら奥へ戻って行った。
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