全身に浸透したそれは、次第に色を変えていく。
焦がれたようなとち狂ったような。沸沸と迫り上がる想いを指先に乗せ、喜助は対面するゆかの目元に触れた。すでに涙は乾き、伝った跡が浮き上がっていた。
「あぁ……そんなに泣いたら目が腫れるでしょうに」
呆れるような言い草の裏には、自制する意図があった。が、なかなか抑制し難い。自分が泣かせた訳ではないのに、彼女が流すものは何故だか美しいとさえ思う。
綺麗だと擽られる。自分の中へ閉じ込めてしまいたいと自我が躍動する。彼女と出逢って芽生えた観念。ここでもまた、惚れた弱みというものが顔を出しては邪魔をした。
「だって、本当にいいお話で、」
そう答えた矢先には、もう。
──ああ、耐えられそうにないな。
喜助は眦に添えた指先をそのままに、もう片手の親指で顎を軽く押して彼女の唇を開けた。薄く開いた空間へ吸い込まれるように唇が重なる。
それでも遠慮という二文字を念頭においては、浅く啄むように触れて。
「ふ、」
小さく洩らす息に煽られ、些か大胆になっていく。
彼女はぎこちなさを残しながらも、こちらからの口吸いに答えてくれる。寸前の遠慮は何処へやら、重ねる度に荒々しくなり。角度を変えては、喰むような深い口づけを繰り返した。
こうして触れられて誰よりも近くにいるのに、その存在を確かめるほど求めてしまう。逢えなかった期間はたったの二週間だ、昔と違って年単位ですらない。それがこんなにも待ち遠しかったのだろうか。
──……まずいな。
終始画面から流れてきた他人の紛い物の色恋に誘発されたか。
恋物語に乗せられて、彼女が再び消えてしまうのではないかと馬鹿げた空想が働いたか。
そんな都合の良い言い訳として片付けようとしたが、ゆかの家に来て早い段階から慾情していた事実。単に本能が疼いただけだ。この二時間半は、堪えていた劣情を加速させる時間に過ぎなかった。
息継ぐ間すら惜しい。「は、ぁ」どちらの気息かも分からぬまま。もはやどちらのものでもいい。
喜助は胡座の中に座るゆかの腰に手を添えて、軽々とソファへ横たわらせた。組み敷くほど強引にせず、ゆっくりと理性を保つように装って。
それほど慾に駆られていない証だったのだが、ほとばしる体内の熱に抗えない。
「……ぅ、ぅら、ん」
名を呼ぼうをしたゆかの口を塞ぐ。
本来だったら名を呼ばれて止めていた。悪いが今日は少しばかり自制が間に合わない。喜助は両手で恍惚と染め上がった頬を包み込んだ。唇を押し付け、この機を逃すまいと貪る。
さらに喜助はソファの間に片手を滑り込ませ、ゆかの後ろ頭を支える。動けまいと固定するように、真黒い猫っ毛をくしゃりと柔らかく掴んだ。指先からも感じる繊細な女の髪。自身には無いそれに、激しい高揚感を禁じえなかった。
──もっと、
己の本能が求めるがままに身を任せていた。
先程まで含んでいたほろ苦い珈琲を舌に感じると、彼女の口内へ進入しているこの行為に、今更なんだか妙な興奮を覚えた。彼女も自身も慣れてきたものだと思っていたが、こうも唆られるのは今日の見慣れない着衣もあるのだろう。視覚的に朝から惑わされ続けたのだから、惚れた女性に理性を保てられるはずもなく。
息を吸う僅かの間、「……かわいい」と本音が零れてからは、箍が外れた情慾があっけなく彼女の口へ注がれていった。
室内に響く接吻音。
触れるだけの柔らかな音ではなく、水分を孕んだ慾望を当てつける音。
この甘美を味わいながら薄眼を開けて見れば、彼女の閉じた目尻からは再び涙滴がじわりと滲んで今にも溢れそうだった。だが今はそれを拭う指が足りない、生憎、貴女を愛でるのに手がふさがっている。
こちらの視線に気づいたのか、ゆかも薄眼を開けて朧げに見上げた。
はあ、はあ、と小さな口で呼吸を整えようと仕草が愛らしく感ぜられ、息はさせてあげないとな、と今度はその右頬に舌を這わせた。そこから首筋へ下り、柔らかな皮膚を吸う。「んんっ」擽ったそうに身を捩ると、喜助は堪らず歯を立てた。
すると「あっ、」と上擦った声を上げ、夢見心地のような眼が見開かれた。
ちくりと僅かばかりの感触を残し、今起きていることは夢じゃないことを暗に知らせた。頬を抓らずとも現実を、こちらの好意を、知らしめるには手っ取り早い。
肩口に顔を埋めていると、直にゆかの馨りにあてられて堪らない。くん、と確かめるように短く鼻で吸う。甘い匂いは彼女の使う香料なのかと巡らせたが、彼女は香水などを使用している印象があまりない。となれば絹のような黒髪から香るのかと近くまで鼻先を寄せた。
未だ知らない彼女を新しく吸収しては、充満していく。自分だけが知る姿、一瞬一瞬がこの上なく愛おしい。
──匂いだけで脳髄が溶けそうだ、
自我の赴くままに、薄緑、彼女が云うにはミントグリーンの上衣の裾、そこへ手を滑らせる。
ふ、と下に視線を移せば、自身の緑色の作務衣と彼女のそれが重なって。揃いの色味が視界に入る。この良好な関係に歯痒いもどかしさを覚えずにはいられなかった。全てを欲して止まらない。
そうして滑らせた指は、緩やかな曲線をなぞるように上がっていく。さらさらとした肌の感触は、人間の女の身体。細身の体躯が皮膚を伝って想像できる。
感触の良さに導かれるまま、その先にある膨らみへ、指先が触れた。その瞬間、初めての行為にぞくりとしたのか、彼女の全身が粟立ったのを感じた。手の甲を口にあて、悶えか羞恥か、抑え込もうとしている。
直後「ん、っ、ぁ」と堪えたような控えめな嬌声が洩れた。これが悦びかはわからない。だが、彼女が自身の手で感じている様子を目のあたりにして、喜助は静かに生唾を呑み込んだ。
「ぃ、ま、って」
ようやく、待って、と彼女から乞われた。
それもそうか、ここまで攻め入るのは初めてのことだ。自身も彼女も心拍が速く強く打ちつけている。
肩口に埋めていた顔を軽く上げてゆかを見下ろす。
寄せられた眉根のすぐ下に潤んだ双眸がぼうっとこちらを見据えていて、これを軽視したら流石に厭な想いをさせてしまうだろうと想像に容易かった。
この声に一旦手を止めたが、あまりに肌触りが良いので上衣から出すことは惜しい。喜助は掌を中に残したまま、問う。
「怖いですか、あたしが」
それに怖くないと答えることもわかっているのに、ずるい訊き方をした。己の狡猾さを自嘲しては蔑む。否定されたら行為を止めようがなく、これは簡単な誘導でしかない。
一方で彼女は怖くないと咄嗟に出てこないのか、懸命に首を横に振っている。
「っ、そんなこと、わたしは、喜助さんが好き、だ、から」
稀な呼び名で、怖くないどころか、好きだと囁かれ。
そこまでの答えを用意していなかっただけに、こちらとは真反対の純真無垢な瞳を突きつけられると、自ずと手を上衣からするり抜き出していた。
ああ今し方、自分はなんとも慾塗れな眼を晒していたのだろう。体内が熱い。そして喜助が一時休戦とばかりに「ふう、」と息を吐くと外れた筈の箍が再び形成された。
恐らく彼女は覚悟を抱きこの先を予見していたに違いない。
「……え、」
その声色と表情が戸惑いを物語っていた。
「……だから大丈夫だ、とこのまま進めますか? まだこんなに不安そうにしてるのに」
言って、寄せられた眉間の皺を解くように親指でそっとなぞった。
「僕は、あなたと同じ足並みでこの先を生きていきたいんス、……好きですから」
至極当然、想いは比べられない。だがそれでも。同等の愛が測れるまで何度だって伝える。
たとえ今、事を進めても、相思相愛なのだから無理強いではないことくらいは解る。だがそれは、世間一般に見て正解であっても自身にとっては違う。ここまで乗り越えてきた関係で今抱くには勿体無いとさえ思える。
それに、これは愛だと云った彼女。ならば貴女の愛とやらも最大まで観察していたい。これが哲学じみた議論だとしても。僅かばかりの我が儘が貴女をより一層求めてしまって堪らないからだ。
「なのでお預けです、あなたが同じように僕を求めてくれるまで」
ぱちぱちと瞬きを繰り返したゆかは、申し訳なさげに声を返す。
「同じように、ってどういった感じでしょう……」
その質問が浮かぶのも肯ける。
困ったように見上げるゆかへ覆いかぶさった喜助は「さあ?」とわざと惚けるように言い放ってから、その目蓋へ唇を落とした。「わっ」と片眼を瞑って受け入れる姿。それが愉しくて愛おしくて、もう片方の目蓋へも唇を落とした。「うぁ」突然降り注がれる相愛に困惑が倍増したように見えた。
「……こういう感じっスかねぇ」
「こ、答えになってないですし、よくわかりません」
膨らめた頬は若干赤いものの、先程よりは恍惚としておらず。密着から伝っていた心音もとくとくと落ち着きを見せていた。
「直にわかりますから、ゆかさんの想うままでいてください」
どうか焦らず、とまで言わずとも真意は伝わっただろう。
ほんの一瞬。彼女は心許ない色を浮かべたが、想うままでいて良いとの指標が一助になったのか、すぐに安堵の色へと変えていた。へへ、と頬を緩ませ幸福そうなゆかに喜助も満足げに目尻を垂らす。
不意に耳へ入る、つけっぱなしのテレビ音。
壮大なメインテーマが繰り返し流れている。
ちら、と一瞥した先に映るものを見て、喜助はこの関係に確信めいたものを感じざるを得なかった。
全面に大きく浮かぶ映画の表題は、まるで喜助が思案し続けていたことへの解を示しているように思えた。
腕の中に閉じ込めたゆかへと視線を戻すと、彼女は思い出したように呟く。
「『ゼン・アンド・ナウ』、いい映画でしたね」
それに喜助も満足げにして、告げる。
「はい、また観ましょうか」
自分たちの今昔もこれに劣らないだろう、との胸の内は秘めたまま。
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