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「おはよっスー、お邪魔しますねぇ」

 たまの休日。まとまった連休は二週間ぶりだと言う。
 週末には決まって商店で過ごしていたが、出張やら営業やらで忙しいと言っていたゆかに来てもらうのはなあ、と喜助なりの心遣いで自ら赴いた。

 以前、多忙で音沙汰が少なくなった頃。灯りが漏れる寝室の窓へコンコンとノックをしたところ、「ベランダから来るのはやめてくださいよ……!」と強めに注意を受けたことがあるため、こうして玄関から入るようにしている。

「はーい、どうぞー。すこし散らかってますが、なんとか大丈夫ですー」

 彼女の間延びした合図でリビングへ向かう。
 普段はしっかり者でも朝には弱いらしい。まだ寝起きのような気怠げで、まろやかな声色を味わえるのは自分だけの特権か、と頬が緩んだ。

 廊下を進んで部屋に入る。特に物が散乱している訳でもなく、きちんと整えてある印象を受けた。
 右のテレビからは情報番組が賑やかに流れ、すぐ左を見れば、キッチンで佇む彼女がいる。背を向けたまま、「コーヒー作ってますけど、お茶もありますよ」と首だけをこちらに向けた。

 どちらにします? との答えに、「あなたと同じものでお願いします」と手間にならない方を選んだ。ソファにでも掛けててください、とも言われたがそれには従わない。芳醇な馨りに誘われるかの如く、喜助は外した帽子を片手に彼女の背後へと回った。

「おやぁ、珍しいっスね」

 彼女の部屋着姿へと落ちる視線。
 伸びた黒髪を軽く結い、すらりとした体躯に沿ったニット生地の上下。
 それを隠すように纏う薄手の羽織り。細い肩紐で吊るされた上衣で鎖骨が浮き、時折り羽織から覗く華奢な肩が艶かしく、些か眼に毒だ。否、全く毒ではないのだが。これを終始魅せつけられては、正直、今日一日が思いやられる気がした。久しい休息、朝っぱらからそういった行為に及びはしない。が、それでも迫り上がる劣情を抑えることは可能だろうか。

「……こういった恰好はボクのところじゃあまり見られない気が」

 コーヒーを淹れている彼女の邪魔にならぬよう、喜助は後ろから控えめに肩を抱いた。

「へへ、最近これ届いて。ミントグリーンのセットアップ、カーディガン付きでお買い得でした」

 薄緑の上下に羽織り。
 こちらが思い描いたものを彼女が口にすると、若者らしい用語に早変わりする。が、それを指摘したら恐らく「おじさんみたいなこと言わないでください」などと言われるのがオチなので「いやぁ、ずいぶんとお似合いで」ともう一つの胸の内を返した。

「それにこの薄緑、ひょっとしてボクと揃いにしたかった、とか?」
「浦原さん。ミントグリーンですよ、今年の流行りなんです。……あーお揃い、そうですね、そんな感じです」

 そう言って、はにかんだ。
 うっかり薄緑と口が滑り、ああやはり指摘されたな、と苦笑していると、ゆかは「あ、お揃いとか、そういうの嫌でしたかね」と不安げに首を傾げた。

「そんな、まさか。ボクはむしろ大歓迎」

 揃いと聞くと、数年前に与えた白いコートが思い出される。あれはこちらから提案したものだったが、今回はその逆か。

 ──自ら同じ色味を選ぶようになって……。自身の変わりように気づいてるんスかねぇ。

 あの頃は羞恥の表情で拒否しそうだった彼女も今ではこんなにも素直になった。ふ、と当時を想い重ねるも、既にあの時から愚直すぎる性分だったけれども単に人前で出せなかっただけか、と思い至った。

 そうして喜助は出来上がったコーヒーを二つ持ち、テーブルまで持って行く。

 後ろから、なら良かったです、と零す彼女はどんな表情しているのか。見なくても目尻を垂らしているんだろうな、と想像できるくらいにはこの関係は良好だと自負している。

 キシ、とソファへ腰掛ける彼女を見下ろすと、予見通り。目尻だけでなく眉尻までも嬉しそうに垂らしていた。まるで溶ける飴玉のような笑み、眺めるだけで甘い。

 堪らず喜助は腰を下ろすと同時に、その眦へ唇を、音を立てずに這わせた。

「え、いきなり、目元に、なぜ」

 いつまでも此方の行動原理が分からない、と言うような顔で驚くから「あなたがそう仕向けてるんですよ」と教えてあげた。
 だがその真意がよく分からなかったのか、「なんだか今日の浦原さんは積極的ですね」と困ったように返された。
 やはり今日は先が思いやられるな、と幽かな理性を秘めながら、「こっちの方がお好みですかね」と今度は直に唇を重ねていく。離れる時には訊こえるように、わざとらしく音を立て。

 ──ああ早々、自制がきいていない。

 するとゆかは、はは、と堪えられない笑みを零しながら、喜助の唇に人差し指をあてた。

「私はどっちも好きですよ、だって、商店では人目を気にしちゃいますし」

 今日は彼女自身の慣れた場所とあってか、いつもより緊張している様子は見られない。それどころか綽綽と構えているようで、こちらとしては釈然としないが、彼女の掌の上で転がされるのも偶には悪くない。全く、骨の髄まで彼女に惚れているらしい、流石にそこまで声には出さないが悪い気はしなかった。なにより、多幸感に満たされる悦びは彼女から教えてもらったのだから。

 一息吐いたゆかは対面のテレビを眺めながら、マグへひと口。まだ熱いのか舐めるように啜ってから、過去を懐かしむように話し始めた。

「浦原さんがうちに来ると、出逢ったばかりの頃を思い出しちゃいますね。あの、御守りを探しに帰ってきた日」

 覚えてます? なんて問いに、憶えてるに決まってるじゃないですか、と食い気味に返した。

「懐かしいっスねぇ。……あの頃はまだ確証がなかったんで、あなたには心細い想いをさせてしまいましたが、アタシは色々と得をした日でした」
「まぁ、当時は何も言えなかったですし、ただみんながいたお陰で心細くはなかったですけど。……でも得ってなんですか?」
「アラ、忘れちゃったんスか。ここから投薬したこと、」

 とんとん、と人差し指でゆかの唇に触れる。
 直後に彼女はボッと音を立てたように頬を赤らめた。

「わっ忘れるっていうか、事後報告を受けたのもついこの間で、私はほんとうにそれが事実かどうかも知りませんよ」
「それはちょっと辛辣すぎません?」
「だって寝てる間のことですもん」
「まあ実際、あれは大変でしたからね、新薬が効いて良かったっスよ」
「はい、その節はありがとうございました」

 どこか楽しそうに言って、ぺこり、と軽く頭を下げる。

「いえいえ、できることをしたまでで」

 掌一つに収まってしまう小振りな頭を、喜助はわしゃわしゃと荒く撫で返した。えへへと気恥ずかしそうに顔を上げて、それをコーヒーで誤魔化している。彼女らしい仕草に心音が落ち着くのを感じた。

 それを真似るように喜助もマグを手にひと口。
「美味しいですよ、ゆかサン」と零せば、「お口に合って良かったです」と。かつての、既視感のある会話が飛ぶ。このやり取りの裏に猜疑心など、もう存在しない。

 あの頃とまるで関係は異なるのに、こうやって当時と同じ言葉を投げ合う。これまでの想い出や過去を共有しては反芻して、何度も、何度も。喜び合える現状に甘美を覚えていく。喜助は彼女の憂いなき双眸を眺めながら、すっと目を細めた。

「あの頃で思い出したんですけど、」そう切り出したゆかはふと昔の記憶を掘り返したように、マグをテーブルに置いた。

 そして、意気揚揚と自信に満ちた顔つきで喜助を見上げる。
 何を? と声を挟もうにも彼女が、言いたくて堪らない、といった様相だったのでその先を譲った。

「──実は私、浦原さんに助けてもらう前に、先に浦原さんを見かけていたんですよ!」

 すごくないですか? と言わんばかりの、無垢で真っ直ぐな二つの黒珠。だが事実として告げなければならないこともある訳で。これを知ったら楽しみ半減か、と想像に容易かったが、今更虚言を吐いてもな、と僅かの間だけ考えあぐねた。

「あー、あの移動してきた日、っスよね?」

 楽しんでいるところ申し訳ないが、こちらもその日に関しては調査済みだ。
 この家で問い詰めた当初、それとなく最初から存在を知っていたと告げたはずだった。それに対して「ストーカーですね」などと冗舌に返されたのだが、あの時のことは気が張っていて憶えていないのだろうか。
 そして最期の別れ間際、互いに話を切り出した際にもその件に触れた気もしなくはないが、──。

 ──あの朝は……確か……。

 喜助は様々な過去の記憶を遡るも、頭をよぎったのは彼女の辛そうな表情ばかりだった。

「そうですけど、え、気づいてたんですか? すれ違っただけだし、出逢う前だったから知られてないって思ってたのに」

 なあんだ、がっくり。そんな表現が似合うほどに肩を落としている。知らなかったと装うのも楽しみを奪うのも、どちらを取っても心苦しくなるのあれば、隠さず告げる方を選ぶ。

「はい、すいません。あの明け方は念には念を、と思いましてね。実はこの辺りをぐるっと見廻ってたんスよ。そうしたら歪な霊力の方を見かけまして。確か……電話、してたっスよね?」

 顎に指をあて回想する。
 それに肯いた彼女は直後に「……い、歪な霊力って」と不快を露わにした。

「そりゃ、元隊長さんの周りに元隊長さんが何人もいたら私の霊力なんて、イビツですけど」

 つんとゆかは唇を尖らせた。
 あ、今のは失言だったな、と取り繕うように「ハハ、いえ、ちょっと風変わりな霊力だなあ、なんて……、当時の話っスよぉ」などと戯けてみせたが「へえ、風変わりですか」と逆効果だった。
 確かにこれでは霊力を嘲笑しているように響く。

「そう言う貴女はどういった心証で? 地震だと困惑していた一方、アタシのことはあちらで認識していたはずですが」

 彼女の奇特な境遇を想い浮かべながら訊ねると、言い辛そうに答えた。

「……再現度の高いコスプレイヤーさんだなあって、」

 言下に喜助は、あはは、と噴き出した。

「わっ笑わないでくださいよ!」
「いやぁ、ゆかさんしては楽観視した感想だなあ、と」
「だって仕方ないじゃないですか、まだ私だって住所を確認する前だったし……それに見かけてすぐに本人だなんて考えませんよ!」

 口早に、あーあ。言うんじゃなかった、と慌てふためく姿があんまり面白かったので、喜助はクツクツと喉を鳴らしながら戯けた。

「はぁい、ホンモノの喜助さんですよー」
「いいです、そういうの求めてないです」

 彼女の思惑通りに事が運ばなかったようで、じっと嫌味な眼差しを向けられた。まあまあ、と宥めたあと喜助が頭から被さるように抱き寄せると、ゆかはケロリと表情を戻す。
 ──この一瞬で確信できる。
『惚れた弱み』という不可解かつ抽象的なものは、自分だけじゃなく、彼女にも存在しているのだなと。甘く蜜月な空間に、胸奥がこそばゆい。
 そんなことを考えている内に抱く腕が強張っていく。

「浦原さん苦しいー」

 胸あたりを小突かれた。
 ゆかを解放すると体温が離れ、若干の寂しさを覚える。
 人肌というものは依存性が高いようだ。脳髄に焼きつく。眼に視えないものを信じるということは容易ではない。だがそれは在りようによっては強力で、いずれ必要になるのだと過去、多くの人々から学んだ。彼女もその一人、いやそれ以上に、──。

 ──……想いだとか。そういった曖昧な存在は、認知はしていても解せはしなかった。

 いつの間にやらそれをゆかに求める自分がいた。
 ところが今では。求めるどころか己が与えたいのだから、結局ヒトの性根は変えられないものだな、と青かった隊長時代を重ねる。あれはあれで様々な想いに囲まれ、とても人間味に溢れていたと思う。

 そして再びマグに口をつけたゆかは、「あ、」呟いた。

「あのあと夜一さんも出てきたからすごくビックリしたのを思い出しました」
「ああそういえば、珍しく朝からついてきてたっスねぇ夜一サン」
「だから私、余計にコスプレ用の猫だって思っちゃって……」
「だったら人形を用意しません?」
「そ、そうですね、普通」
「……ですが思いのほか楽しんでたようで、何より」
「まあ、浦原さんには笑い話みたいですし? 思えばあれも全部楽しかったかな」
「いやぁ、あなただって笑ってましたよ」
「はは、だって互いの印象がおかしくて」

 突然切り出された『あの頃』の話。
 自分が想い返す彼女との場面は、いつだって苦悶に満ちたものばかりだった。しかしそれはこちらの一方的な思い込みで、彼女はちっとも辛そうな色をせず、寧ろ今のように過ぎ去ったもの全てを楽しんでいるように見える。
 なるべく追懐の情を蘇らせぬようにと、こちらが勝手に心苦しさを抱いていただけで。彼女のことを解ったつもりでいた。結局のところ、ゆかが今どう感じているかなんて、こうして言葉を交わすまで何も解っていなかった。

 これまで歩んだ岐路を幸せそうに語る口許。
 胸底でじんと沁み入る相愛を、有り難く甘受した。

 ──貴女について知り得ないことがまだあるってことか、

 今日だけじゃない、これからも。
 全く先が思いやられるな、と喜助は眉をハの字に垂らして微笑んだ。

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