「はあ、やっと今日のおつかい終わりましたぁ」

 いかにも、へとへと。というような疲弊しきった声で入ったのは、ずっと近くで接してきた心の強い女性だった。
 ゆかは泣きやまないと心配する、と乱菊に言われた忠告を思い返し、ぐっと堪えてその姿を見つめる。彼女は「え、」と声を落として困惑したように足を止めた。

「……ど、どうして、ねぇ乱菊さん、だってゆかさんは……」

 震えた声の彼女は大きな目に涙を溜めていく。
 見兼ねた乱菊が「ダメよ雛森ぃー、あんたが泣いちゃあ。せっかくゆかさんが我慢してるのにー」と笑いながら立ち上がった。

 そっと雛森の肩を抱く乱菊は、ほら、とソファへ寄り添い、間へ挟むように隣へ座らせる。ぼろぼろと彼女の落とす涙滴を乱菊が拭う。二人の姿を隣に見て、自分の涙腺も緩みそうになった。

「も、桃さん、」そう自ら声をかけるも、彼女はしゃくり上げるように肩を震わせている。すると乱菊は当時を思う返すように目を伏せ、話し始めた。

「……あたしたちはね、あの虚の消失後、ゆかさんの記憶と霊力は次第に無くなっていったって平子隊長から聞かされていたの。それを聞いたのもずいぶん経ってからだったけど」

 その説明は間違ってはいない。が、暫くの間この世界にいた本来の魂魄と同一人物ではないのだから、根底そのものが異なっていた。一体それをどう告げたら、どう詫びれば。かけるべき言葉が分からず、ぐっと詰まった。

「それが嘘か真か、真実はどれなのか。そんなこと、あたしたちにはどうでも良かった。……平子隊長の顔を見れば一目瞭然だったもの」

 きっと平子には辛く重い役回りをさせてしまったのだと知った。暫く時が経ってから彼女たちが告げられた内容。そこへ至るまでの間、平子は話すか否か、相手を慮るばかり苦心を重ねた違いない。彼はとても心優しく気遣いの多いひとだから。
 当時の平子が自分の境遇を了知していようがなかろうが、『記憶と霊力を無くしたからもう会えない』と隊士たちに告げることは酷だったろう。

「……それ以上に、浦原さんには何も声をかけられなかった。時々こっちに来ていたようだけど、通りすがっても触れちゃいけない雰囲気だったし」

 今、ここで。
 ごめんなさい、本当は違う所から来たんです、これを言うべきなのか。それとも、陳謝してから本当に今まで記憶を消していたんです、と半分濁すべきなのか。それは考えるまでもない。前者の真実を告げるべきなのだと理性が発している、けれど今、この状況で全てを曝け出し、混乱をさらに招くことが正解だとは思えなかった。
逡巡しながら選択に迷っていると、乱菊が続ける。

「だから雛森と決めたの。ゆかさんとの思い出話はあたしや恋次、理吉だけに留めましょうって。平子隊長も浦原さんもあまり話したがらなかったから。……でもそれも、もういいのよね。いいのよ、雛森」

 語りかけるように言えば、隣でうんうんと頷いた雛森は顔を上げて、先程の自分と同じような涙声を振り絞った。

「おかえり、なさい……ゆかさん、」

 置いてきた想いが、望んだ言葉で迎え入れられる。
 ああだこうだと。何を告げるべきかと巡らせていたことは、一瞬にして飛んでいって──。

「……ただいま、桃さん。遅くなって、ごめんなさい」

 自分がされていたように、指の腹で彼女の涙を拭った。
 大事な人の涙を拭う行為が、こんなにも慈しみを感じるのは何故だろう。過去拭ってくれた人たちも同じような気持ちを抱いてくれたのだろうか。泣かせてしまっているのに、心の奥底が燈火のように温かかく感じた。大好きな人を涙させているのに、嬉しい、だなんて。可笑しな感情だ。

「これからまた会えるんだよね? ……これからは現世に行ったりしても、いいのかな」
「もちろんです、それに京楽さんから通魂符っていうのを戴きましたから、私もいつでも来られますよ」
「ただし、ゆかさんが暇な時、でしょ?」

 そう言ってニヤニヤと顔を向ける乱菊は、楽しそうだ。

「え、ゆかさん忙しいの?」
「そうよ、雛森。ゆかさんは浦原さんと将来を語らう仲なのよ、だからとっても忙しいはずよ?」
「ええっ、えっ、ゆかさんと浦原さんって! え! ほんとうに!?」

 こういう質問時に限って乱菊はこちらを見守るだけだ。彼女から話を振ったのに、言わせようとしている魂胆が見え見えなのだ。

「はは、えっとそうですね。ただそれで忙しいことはないですが、そんな感じです」
「いつからそんな関係だったの!? 全然知らなかったー!」

 乱菊とは異なる、期待していた反応に妙な安堵感。
 自分と近い感覚の持ち主に有り難みを覚えた。

 ──ああこれが本来の恋話の始まりですよね! 桃さん……!

 恋話の正式な開始など決まっていないが、心の調子は各々で違う。可愛らしい問いかけに自然と目尻が垂れていった。

「関係はこちらに戻ってきてからなので、まだ最近なんですが、」
「わあ、驚いたあ。おめでとう! もしかして、こっちに来て学んでた時には浦原さんのこと……」
「あっありがとうございます。そうですね、実は、あの時すでに私は一方的に……」
「えっそうだったのー!? あの時すごく否定してたのに!」

 そりゃ言えないですよー、と言ってて恥ずかしくなってきた。が、雛森も顔を朱に染めて聞いている。
 その様相は興味津々であるけれども、口に出すと羞恥するタイプのようだ。それはどことなく自分と似ていた。

「あたしから言わせてもらえば、初めて会った時から分かりやすかったけどねぇ。平子隊長も気づいてたはずよ」

 湯呑みを片手に乱菊は間延びした声を挟む。

「わあ、さすが乱菊さん鋭い! あたしは分からなかったなあ」

 雛森は感心の眼差しを隣へ送っていた。
 一連のやり取りを聞いているが、そんなに分かり易かったのだろうか。乱菊からは二度同じことを言われている。先ほどもバレバレだと。だが、全くその自覚がない。おまけに平子も気付いていたという事すら察知できない己の鈍さが悔やまれる。「アハハ、」と二人の反応に眉尻を下げながら頭を掻くと雛森は柔らかく微笑んだ。

「じゃあ、浦原さんと過ごさない日とかたまにあったら、時々でもいいからお話したいなぁ」
「はい、もちろんですよ! 連絡つけやすいように、浦原さんに伝令神機を持たせてもらえるようお願いしてみますね」
「そうね、あたしも現世行きたいしー。あとまあ理吉は喜び半分、哀しみ半分ってところかしら」
「あ、理吉くんから先に番号教えてもらってました」
「だからよ、哀しむわよーあの子。哀しみ九割だったりして」
「理吉くんはゆかさんのお友達だから伝令神機あったら喜ぶんじゃないかなあ」
「……うん雛森、そうなんだけどそうじゃなくってね。まっ、こうしてまた会える事だし、難しいことは置いといておやつでも食べましょ」

 乱菊は籠に入ったお煎餅を配りだした。それを手に取ってばりぼりと頬張る。「あっ二人のお茶を淹れてきますね」と雛森は席を立ち、おかわりを求める乱菊が「ありがと雛森ー」と返す。
 この何気ない温もりと思い遣りで満ちた空間に、自分も一緒に居られる。そんな単純なことが嬉しくて、幸せで。

 ──また今度、ちゃんとお話すればいっか。

 最低限、告げたかったこと。それは自分がこちらへ来た境遇と記憶を本当に消していた事実だけ。だがそれらを今この瞬間に共有することは、野暮なのだと悟った。今こんなにも皆が幸せそうに笑みが溢れているのなら、それすらもどうでもいいのかもしれない。

 自身のけじめとして言っておきたいのであれば、あまり堅苦しく考えずに別の機会でも良い、と少しだけ心持ちが身軽になった気がした。
 それは、さっき平子から諭された『遊び心』がまだ残っているのだと思う。

 ──難しいことは考えないで過ごしていたいから、今暫くは。


§



「もう感動の再会も終わった頃合いやろ」
「ええ、霊圧のブレもなく今は落ち着いてますし。その頃と思いますよ」

 一番隊客間。
 喜助は残された平子と他愛のない世間話とこちらの状況を確認してから五番隊へ向かい始めた。だがゆったりと重めに足を進めていた。彼女には瀞霊廷の就業時刻まで自由に過ごさせたかった。何年も空いてしまった絆の穴を、穴と感じさせないように。

 こうして執務室へ。隊長自身が「開けるでー」と断りながら戸を引くのは、中で開かれている会が女性のみだと気遣ってのことだろう。それに続けて「お邪魔するっス」と入る。

 仲睦まじく長椅子に腰掛けている三人。手前に座っていたゆかは煎餅を美味しそうに頬張りながら、笑顔を振りまいていた。その様子はとても楽しそうに見えた、とても。

「あっ浦原さんだ! 平子隊長も!」
「ひどいわ乱菊ちゃん、なんで隊長がついでみたいな言い方やねん」
「お疲れさまです平子隊長、今日の分は終わらせましたので」
「おおきになー、桃」

 こちらの迎えに、ぱあっと顔を向ける彼女。ゆかはいつものにこやかさで、明るさを絶やさず、そして「おかえりなさい浦原さん」と呟いた。

 ──……おかえり、か。

 それは彼女自身の居場所を確かめるような挨拶。自然に零れ出た言葉は無意識なのだろう。
 この自分たちの繋がりは自我の赴くままに尽くした細工で、彼方の世界から半ば強引に連れ戻したようなものだったが。ゆかの表情は晴れ晴れとしてなんの曇りも感じさせなかった。

 ──思った以上に楽しそうに過ごせたようで、良かった。

 こちら側をゆか自身が選択したとは言え、向こうで築いていたであろう人間関係も生い立ちも全て断ち切らせた。自分を選択したあの瞬間、当然その答えを受け入れたものの、彼女は別つ人々をどう思っていたのだろう。そこだけは聞けずに今日までを過ごしてきたが、「おかえり」のたったひと言が、この釈然としなかった憂いを霞ませた。それはまるで霧が晴れるように軽く。

「浦原さん、どうかしました?」

 ゆかは不思議そうに問う。
 帽子があったのならもう少しうまく誤魔化せた表情も、今日ばかりはまあいいかと諦めて。じっと黙っていた喜助は首裏を掻きながら「いえ、」と小さく微笑んだ。

「……ただいまっス。そろそろ現世へ戻りましょうか」

 コクンと首肯いた彼女は、寂しげな色を一寸も見せることなく「はーい!」と元気よく返した。


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