§


 ──……いっ、たぁ……。

 流石に総隊長の前で足を崩す訳にもいかず、いきなり立ち上がったものだからじんじんと痺れを起こした。フラついたところを喜助に支えてもらい。こそっと、ありがとうございます、と礼を耳打ちしてからすぐに客間を後にした。

 痛む脚を慣らすようにゆっくりと。床を踏みしめ歩いていく。
 平子から遊びに行ってこいと命をもらい向かう先は、五番隊舎。そこには自ら手放した人々がいる。諦めて、止まったままの光景が待っている。──会いたい。
 一度胸を躍らせると、いつの間にか痺れなんか感じなくなった。

 廊下を走るなと幼少期に言われた訓えも、募る想いの前では働かなくなり。歩いていた足は次第に、たたた、と急ぎ足に。気づいた時には、息を上げて瀞霊廷の中を移動していた。

 ──思ったより早く着いたな、

 はあ、はあ、切らした息を肩で整える。
 そっと執務室の扉の手をかけた。何て言えばいいんだろう、一体何から謝れば、どうやって真実を。様々な思考が頭を駆け巡った。交錯する心情の中で、ひとつだけは明確に見えていた。自分は此処に戻ってきたのだと、その事実だけは。

 がら、と戸を開け。一歩踏み入れると、懐かしい馨りが鼻孔をくすぐった。木造家屋の古民家のようで、実家にも似たその空気に胸を膨らませながら、長椅子を見れば。平子が告げた通り、彼女が居た。横になりながら片手で手枕をし、煎餅を頬張る見目麗しい女性。変わらぬ日常風景に目頭が熱く、熱く滲む。

「あ……」ゆかの落とした声は、用意していた第一声を掻き消していった。すると目前の彼女は、食べようとした煎餅をほっぽり出し、ばら、とその落下音が響くと同時に駆け寄った。

 じわり、潤む視界。「……ら、んぎ、──」

 震える声で呼び終える前に、前方から抱擁された。
 挨拶を交わすより先に。ぎゅっと抱きつかれ、ただただ驚喜した。彼女は何も言わず自分の頭をぐっと抑え込む。
 夜一や織姫のそれと引けを取らない豊満な膨らみに顔を埋める格好となって、一気に大人の女性の香りが頭のてっぺんまで充満していった。

 ──すごく、いい香りがする。

 自分も体だけは同じような成人女性のはずなのに、その出来は全く異なって。色気のある可憐さ。それは死覇装からか、それとも艶かしい黄金色の髪か。何とも形容し難く、呼吸をするたび刺激される甘さに、脳が蕩けそうだった。

 夢現のような腕の中。暫く経つと、少しだけ緩んだ気がした。その隙に「乱菊、さん……?」と再び呼んでみるも返答はなく。ゆかは悩んだ末、「はは、恥ずかしいなあ、」困ったように続けて取り繕った。

 彼女の大きな実りへ直接息を吹きかけてしまう。不可抗力で破廉恥な状況にも拘らず、微動も出来ず──。すると、背中に添えられていた手のひらを、今度は後頭部に感じた。柔らかな指。細く、優しく、温かい。

 そうして乱菊は「お帰りなさい」そう一言、頭上で囁いた。

 つっかえていた秒針が進みだすように。
 堪えていたものが、決壊していく。部屋へ入ってからずっと抑えていた涙腺が脆く砕けていく。過去、何も告げられなかった呵責は真っ白になって、涙滴になって、通り抜けていった。
 滲み始めたものは、ぼろぼろと溢れ出て。申し訳ない程に乱菊の死覇装と白い肌を濡らしていった。

「おかえり、ゆかさん」

 もう一度、今度は彼女らしい色っぽい音を含んで響いた。

「……っ、」

 詰まる言葉に音を乗せようと。それに応えたい、告げたい一心になり、巡らせていた謝罪や言い訳は通らなく。ただひと言、ゆかは涙声で返した。

「た、だいま、」

 ありがとうも、ごめんなさいも。他に言うべき言葉はたくさんあったはずなのに、何も問わずに迎え入れてくれた事が、なにより温かくて。声を詰まらせながら、静かに慟哭していた。

 ──結局、何一つ言えなかったのに、なんでこんな、

 あの時の引目なんて、こちらが勝手に感じていた壁に過ぎなかった。隔てなどどこにもなかったのだと彼女の行動が教えてくれた。
 こうして会えた喜びも、手離した哀しみも。全てを包み込んで。
 それは喜助から諭された想いが──『幸せも哀しみも分かち合うことができて、隔たりなんて何もなかった』──今もはっきりと蘇る。
 再びこの気持を宿せて、死神たちに出逢えて良かったと心からの感謝の念が湧き上がった。

「いつまで泣いてるのよう」

 苦笑気味の乱菊はこちらの顔を窺い、覗き込む。ゆかは、すみません、と鼻を小さくすすりながら彼女を見上げた。自分の涙滴はまた優しい親指に拭われた。いつも死神から拭われてばかりだった。

「雛森が戻ってくる前に泣き止まなきゃ、またあの子を心配させちゃうわよ」
「……桃さん、お仕事中ですか」

 雛森のことを頭に浮かべるとまた込み上げてくる。

「平子隊長が総隊長に呼ばれて離席だっていうから代わりにね、って隊長がいても雛森がやらされてるんだろうけど」

 きっと彼が呼ばれた理由も勘の鋭い乱菊なら察しているのかもしれない。そしてその先に自分が居たことも。だから、平子が居ても居なくても雛森は仕事をしているから気にするな、と仄めかすように言って。やんわりと気遣われた気がした。ゆかはそれには触れぬように、特に深掘りはせず「そうですか」と肯いた。

「じゃ! 雛森がいないうちに気になってたことでも聞いちゃおっかなあ」

 そう言って体を話すと、こっちこっち、とまるで自隊のように執務室のソファを指差し座るよう促す。相変わらずの自由奔放ぶりを目のあたりにして、微笑ましかった。

 ──きっと、いつから好きなの、とかありきたりな恋話が聞きたいんだろうなあ。

 彼女の表情を見れば大方の予想はつく。これに関してはなるべく誤魔化さないようにと心がけた。

「ゆかさん、浦原さんとはどうなの? ちゃーんと夜を含めて男女の仲なんでしょうね?」
「え、あ、」

 いきなり聞くことが、全てを通り越してそれなのか。
 その物言いは夜一のガールズトークより若干包まれているものの、ほぼ変わらぬ主題に腑抜けた声が上がった。

「だからぁ、昔に言ったでしょ。覚悟しときなさいよって。あたし何でも聞いちゃうから」
「か、覚悟って、そういう……」
「あったり前じゃない! 二人が好きだったのはバレバレなの! 雛森がいない間に聞けることってこれしかないでしょ」

 んもう相変わらず鈍感ねぇ、と楽しそうにニヤつく姿が夜一のそれと重なる。脳内で真っ赤な警鐘が大きく響いた。そして、答えるべき内容も皆無という事実に、無性に恥ずかしくなっていく。

ゆかが「あの、えっと、実は……」と口をパクパクと開閉させていると、したり顔で乱菊がこちらを覗いた。

「あー、ひょっとして。想いが通じあったのに、なーんにも進んでませーん、ってことじゃないでしょうねぇ?」

 ああ、彼女は分かって言っている。この口角の上げ具合は、当たりを引いた時のそれだ、──直感が働いた。人の表情を窺う能力だけは長けている、と自負している。それはそれで虚しいが。

「そのひょっとして、です」
「でしょうね、まあ知ってたけど」
「え! やっぱり……! な、なんで言わせたんですか!」
「だってぇ、言わせた方が楽しいじゃない」
「楽しいって」

 悪気もなく愉快げにきゃっきゃと話す乱菊。その語尾には音符が見えた。

「って言うのは、冗談でもなく本当なんだけど」
「本当って」
「ゆかさんのことだから、こうやって聞き出さなきゃ進展しなさそうだなって思ったワケ」

 そうでしょ? と核心を突く彼女にゆかは何も返せず「う、」とたじろぐ。

「はい図星ね。……で、ゆかさんはどう思ってるのよ。進展がないことに満足してるならあたしも何も言わないわ、それは人それぞれだもの」
「どうって言われましても……」
「その様子だと進展がなくても満足、とは言えなさそうね」
「……思うところはあります」
「その思うところって言うのを聞きたいのよ、あたしは」

 そう言ってから「あ、ちょっと待って」と立ち上がると、給湯室からお茶を持ってきてくれた。「夢中で忘れてた、ごめんなさいね」と、にこにことした顔で、本当にこういう恋話が好きなんだなあと思いながら、ありがとうございます、と頭を下げた。
 ゆかは戴いたお茶を一口啜り、湯呑みを置いてから、思うところをまごまごと伝えていく。

「昼からこういった話ですみませんが、…なんというか、自分に自信がないのはもちろん、なのにその先まで手を出されないと出されないで不安になるという、」

 ──矛盾。
 なんて面倒臭い人間なんだろうか。
 俯き加減に捻り出した言葉が自身でもうまく咀嚼できない。ゆかは、ハハハ、と自嘲気味に落としてから「なに言ってるんですかね、私」と自分の滑稽な振る舞いに呆れた。

「そりゃみんな慣れないし、誰だって不安よ。あたしだってそう。……ただ浦原さんはきっと、ゆかさんと同じ足並みで歩んでいたいのかもね」

 死神から告げられた歩み。それは人間とは違う歩幅。
 乱菊の意図した足並みは自分の思い浮かべたそれと違うのかもしれない、だがいずれにしても自覚はしている。彼女たちの立場に立ってみれば、もっと理解できたはずなのに、それを忘れていた。過ぎゆく日々の多幸感に惑わされて。
 湯呑みをぎゅっと握っては、いつ何時でもペースを合わせてくれる喜助を思い浮かべた。

「足並み、そうですね。……それに。浦原さんは私より何百年もずっと大人だから、そういった事に興味ないのかもしれません」

 重なる年月と共に興味がなくなるのかは解らないけれど。きっと同じように何百年も生きる彼女の方がよく知っているかも。
 すると、乱菊は困ったように笑って「ばかねぇ、」と零しながら。湯呑みを握り締める手の上に優しく触れた。

「……大人だからよ」

 その理由を即座に呑み込めず、頭にはてなを掲げたまま乱菊を見つめ返す。

「大人だから、欲張りになるの。欲深くなって、でも大人だから抑制する」
「乱菊さん、」
「普通のことよ、何も悩むことじゃない。浦原さんはそれを口にしないだけ。その時がくるまでゆかさんらしくいて、身を任せていればいい」

 彼女の言葉は自分に向けられているようで、彼女自身の過去を見据えているようで、痛く胸が締め付けられた。乱菊への想いを結局誰にも口にしなかった昔馴染みの彼──。謀反に加担しながらも護りたかった者は決して口外されることなく。彼女の細められた瞳には、あの人が映っている気がした。

「ゆかさんはじゅーぶん魅力的なんだからぁ、そんなに心配しないこと!」

 わかった? 訊かれると同時に触れていた指が離れ、急須からおかわりのお茶がとくとくと注がれた。念押しに思わず、「あ、はい」と返したものの、乱菊のような立派なものや香る色気を持ち合わせていない。ゆかは些か訝しげに問いかけた。

「……でも。どうしたら、乱菊さんみたいになれますか」

 大雑把な質問だ。自分でも相手を困らせることは分かっている、それでも。
 彼女は唐突な質問に一瞬目を丸くて、「あっはっは」と大きく口を開けた。

「わっ、笑い事じゃないです、これは大真面目なんです、」

 一体どこがツボだったのだろう。どうやら笑い袋のスイッチを押してしまったらしい。涙を溜める姿が昔と変わらなくて、愛嬌があって、彼女の方こそとても魅力的だった。

「ああ、ごめんなさい。だって、それが見た目の問題だとして、仮にゆかさんがあたしみたいになったら浦原さんびっくりしちゃうじゃない。……例えばそうねぇ、雛森が急に織姫みたいになったらあんただって驚くでしょ?」
「た、確かにそれは驚きを通り越して心配しますね……」
「まあそれはそれで失礼かもしれないけど」
「ああ乱菊さん! 今のは言葉のあやで、つい、」
「ふふ、分かってる分かってる、今のは振ったあたしが悪い。でもね、そういうことよ。誰かみたいになろうとしたって、浦原さんが好きなのは今のゆかさんなんだから」
「そうかもしれませんけど、幻滅されたらって思うと……」
「それで幻滅だのなんだのってなったらそれまでのオトコ! って言いたい所だけど、そもそも浦原さんがそういう人には見えないわ。だから安心しなさい」

 やはり長い長い年月を経てきたひとの言葉は重い。いや、これは単なる経験の差だ、女性としての。

 ──見た目も中身も、今から乱菊さんになろうなんて、天地がひっくり返っても無理だ。

 とは言え、現状維持には若干腑に落ちないが、少しだけ、ふっと心の足枷が外れた気がした。

「ただ、そうねぇ……。多少気を引く、くらいはできるかもしれないけど」

「え、どうやって」少し食い気味に声を被せると、
「あとで渡すわね」彼女はウインクをして微笑む。

 恐らく何かをくれるらしい。ゆかはそれにコクコクと頷いて、ありがとうございます、と礼をする。

「もう少し先に進んだら、あたしからまた伝える事があるから」
「っ! なんですか!?」
「あら、いま知りたい?」
「ぜっぜひ! お願いします、先に知っておきたくて」

 暫く真剣に話していると、廊下側からギシギシと響いてきた。誰かが執務室あたりまで戻ってきたようだった。それをいち早く察知した乱菊が、最後に、と耳打ちする様に近づき囁く。

「ほら耳貸して、いざその時になったら言うのよ、──」

 その言葉は、ガラッと開けられた執務室の戸と被りながらも、しっかりと鼓膜へ響いた。果たしてそれは本当に効果があるのだろうか、と顔を赤めながら怪訝そうに乱菊を見たが、きっと多くの場数を踏んだ彼女のことだ。その真偽は不明だが、信憑性は高い。

 そうして、入室した人物の「ただいま戻りましたぁ」という懐かしく朗らかな音が後方で聞こえる。
 ゆかは抑えた声量で、分かりました、と乱菊に告げてからそっと後ろを振り返った。


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