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 ──夢を見ていた。最初は家族との思い出の風景だった。いつも先を歩く母を追いかけ、懐かしくて切ない。鼻の奥がツンとするような感覚に陥った。だが次第に、内容が既視感のある夢へと変化していく。それは金曜に襲われた時の夢。余りにリアリティがあり、体が、歯が震えた。痛い、嫌だ、死にたくない。でも独りなら消えてしまってもいい、段々と人間心理が犯されていくような苦しさがあった。その時、僅かな力を振り絞って叫ぶ。

「だれ、か、」

 全く同じ状況が蘇る。しかし、夢では誰も助けには来なかった。
 背後から斬られる。そう感じた瞬間に、現実に引き戻された。
 遠くの方で、自分の名を呼ぶ声が響いている。

「ゆかサン、起きて下さい! しっかり!」

 ゆっくり息をして、と張り上げた声を出したのは喜助だった。

 体を起き上がらせることができず、目の焦点も虚ろげに揺れる。それでも瞬時に認識できたものは、喜助の金色の髪だった。帽子がない姿は、彼の表情を察しやすくて助かる。
 眉間に皺を寄せるその顔は、とても深刻そうで、どこか慌てているようにも見えた。

「はあっ、」

 悪夢に魘されていたのだろう。気づいたら、片方の目尻から耳へ一筋の涙が流れていた。普段、夢など見ないゆかにとって、悪夢は幼少期以来に見た感覚だった。夢で涙なんて、大の大人が笑ってしまう。羞しくもその事実がゆかの自尊心を奪っていった。一滴流れていた程度でも、恐らく見られていたに違いない。そんな様子のゆかを見た喜助はあやすように、ゆかの黒髪に触れていた。

「もう大丈夫っスよ、落ち着いて下さい」

 こんな姿を晒すのは御免だ、ゆかは出会った時と同じように笑顔を作る。流れた涙を枕で拭い、「いい大人が、本当すみません」にへら、と笑うと、喜助が眉尻を下げて言った。

「そんなことないっス」

 喜助は人差し指で、左目尻から流れ落ちる最後の一滴を拭った。

「無理に笑おうとする人が良い大人じゃない。怖かったら我慢しないで下さい。それと、命を大切にして下さいね」

 真顔で言われ返す言葉がなく。最後の一文が変に引っかかって。適切な返答を探していた。

「別に叱るつもりで言った訳じゃないんス。ただ、先ほど見ていた夢。妙に現実味がありませんでした?」
「え。あ、はい。何でそんな事わかるんですか? それに、命を大切にって」

 まだ脳が起きていないのか、会話を重ねる毎に、疑問が付き纏う。喜助は側に置いてあった自身の帽子をそっと被り、語り始めた。

「……それは、夢が現実だからです。あの夜、後頭部に傷を受けたでしょう。脳に近いあの場所から敵の一部分が侵入していた。暫くは潜伏状態が続き、次の睡眠時に活動再開っス。それが悪夢の正体。本来、夢で出来た傷など、現実の体に反映されることはないっス。でもこいつらは違う。悪夢を見せ、体に傷を再び負わせ、現実の体に傷をつける」

 畳み掛けるような内容に、全身が強張っていくのがわかった。自分の中に敵が潜んでいる、それだけで悪寒や吐き気がする。数秒おいて、喜助の話した内容を理解した。と同時に、布団の中の腕や後頭部に傷の有無を確認するも、傷は先日出来たものだけだった。

「あぁ。その傷を止める役割が、今朝に飲んでもらったお薬っス。効いたでしょ?」

 そうだったんだ、やっぱり凄いんだこの人。それを聞いて感心すると共に、身体に何もなくて良かった、と小さく安堵する。だが相手は視えない敵。薬をもってしても、この恐怖心までは消せないんだと思うと、また怖くなってきた。今それを感じている瞬間も、敵の思惑なのだろうか。元の世界では、恐怖を抱く現象などとは全く無縁だったゆえこの超現実的な状況に、悲しみすら覚える。慄いているだろう表情を隠すように、喜助に向けていた視線をゆっくりと天井へと移した。

 夢の中では同じ状況で傷つけられていたはずなのに、新しい傷はない。彼の話を信じるのであれば、確かに薬は効いたようだった。事情を呑み込めば少しずつではあるが、恐怖心が落ち着いてきたのを感じる。ほっとして喜助の方へ視線を戻したのも束の間、彼は何やら考え込んでいた。

「ただ、」

 喜助は申し訳無さそうに眉尻を下げ、口籠もりながら言った。

「悪夢を止める方法がまだ無いのが、悩ましい所でして」
「そうですか、」

 ふ、と視線を落とす喜助。その姿に少しずつ心に影が宿る。どうしてそんなに辛そうな瞳をしているのか。貴方が気を病む必要などないのに。彼は、人知れず敵の目論みにあらゆる策を講じてきた。見えない所では一人で闘っていたのかと思うと、心の奥が苦しくなる。いくら仲間が居ても、一人になると思う所があるのかもしれない。

 ──喜助さんのこんな顔、知らない。

 悪夢を止める方法がない。則ちそれは、あの悪夢がこれからまだ幾度となく現れるということ。
 毎夜毎夜と出てきたとして、その恐怖に耐えられるだろうか。隠せない不安に喜助が視線を上げて言った。

「そこは、アタシが何とかするんで、ゆかサンは悪夢を見てもなるべく落ち着いて下さい。でないと、本当に命を落とす羽目になる」

 結構物騒なことを言っているのに、ゆかの頭は内容に追いつかない。果たして、夢を見ながら落ち着いて意識のある行動などとれるのだろうか。なんて器用だろう。
 傷がつかないのに命を落とすとは、何故? 喜助の説明に理解ができなかった。

「傷がつかないのに、なぜ死ぬのかって顔してるっスね」
「ほんと、何でもわかっちゃうんですね。感心します」
「アナタは、危機感が無さすぎっス」

 そりゃあこの世界に来る前は戦闘だの霊感だの皆無だったのだから、平和呆けしてピンとこないのも当然だ。

「この街が怖すぎるんですよ……」
「いいっスか、命を失ってもいい、なんて考えたら終わりっスよ。意識ごと持っていかれます」

 次第に喜助の声が低くなっていく。見ていた夢を思い返し、さっき、そうなりかけていた自分を重ね合わせた。人間心理が犯されていく段階で、敵の思惑に嵌っていたとは。自分は何て単純な人間だろう。

「あ、」
「だから言ったんスよ、命を諦めるな、と」
「……夢の中で、浦原さんが助けに来なかったからですよ。諦めていたの」

 だから自分は悪くない、とでも言うような態度で言ってみた。少しでも彼の表情を変えたくて、ふふ、と冗談めかしてみる。初めて放つ冗談混じりの言葉に、喜助を困らせないか心配になった。あまり親しくない人に冗談は言えない性格だけれど、彼は逆にそう接された方が楽なのかもしれない。自分なりの気遣いだった。

「それは……スミマセン」

 喜助の眉をハの字にして困ったように笑う顔が温かかった。彼にはこういう顔をしていて欲しい。

「でも浦原さんが私を呼んでくれたから、戻ってこれました。結局、助けて貰いました。ありがとうございます」

 胸に留まった暗い影はなく、気づけば自ずと口角を上げていた。
 これも彼の話術のお陰かもしれない。

「では、遅くなって、すみません」

 あの時と同じ言葉のはずなのに、今回は二人で笑っていた。彼の声は今朝とはまた違う朗らかな色で。少しだけでも気を許してもらえたのだろうか、そう思うことにした。

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