廊下を擦り歩く平子は、隊首会のあと何も知らされぬままある場所へと向かっていた。
行き着く先は、一番隊舎にある客間。
執務室に隣接したこの和室からは総隊長と女性の声が漏れている。客間に呼び出しなんて珍しいのう、とあまり深く考えず、ただキシキシと老朽化した音が耳につく。
その部屋へ「失礼しますう」と一歩。踏み入れた瞬間、ぼんやりとした半目が見開かれていった。そして一文字に結ばれていた口も、同時に。
「……なんでや」
瞠目した先に映るのは、困り顔の女性。平子は彼女が遠慮がちに正座しているのを前に、「は、」と頓狂な声を上げた。
「だからー平子隊長、ゆかちゃんだって」
「京楽サン、それは分かってますけど。……いや、やっぱよう分かれへんねんけど……その娘は、──」
別世界に帰ったんちゃうんか、そう思っていた。どうにも混乱する。彼女の煩雑な事情は総隊長も了知のはずだ。だが対面に座る京楽は驚きもせず、いつもの調子で言葉を交わしていた。
これが、百聞は一見にしかず、と言うのか。いや一聞するより先に、眼の前に鎮座しているこの現状。
そもそも彼奴は記憶も消した言うてたやんか、と表には出せない疑念の渦に巻かれていた。
「おっかない顔して平子隊長怖いねぇ」と口を窄めふざけた面持ちの京楽に「……アハ、ハハ」とゆかは照れたような苦笑とも取れる笑みを零す。
──これホンマに記憶戻ってんねやろな、喜助のヤツまーた逃げよって。ぜんっぜん話追いつかへんのやけど。
こうなるんやったら最初っから説明くらいしとけや、と沸々と滲む苛立ちを秘めながら総隊長へ視線を向ける。
「まあまあ平子隊長。店長さん、今日は後から来るそうだから」
そんなとこ突っ立ってないで、と予め用意された座布団へ促された。どうやら喜助に対するこの不満気な表情は隠せていなかったらしい。流石は総隊長サンや、などと感心する間も短く。平子が腰を下ろすと同時に強張った様相の彼女が口を開いた。
「あっあの、京楽さん、平子さん、これまで色々とご心配にご迷惑をおかけしたと思います、先にあの、」
この度は申し訳ありませんでした、と深々と頭を下げた。
「そんなゆかちゃん、顔上げて。何もボクらに謝ることは無いしさ、それにさっきも謝ってたじゃない」
見兼ねた京楽は即座に手を差し出す。ところがゆかは「ですが……」と謝罪を重ねながら顔を伏せ気味にしていた。
「あー……そもそも何で謝ってるん? 俺も心配に迷惑て全然感じてへんし」
ですよね総隊長、と思ったままを返した。そしてこの謝罪を受けて悟った。この女性は紛れもなく、過去ウチの隊に修行しとった魂魄、記憶も霊圧も全く同じ神野ゆかや、と。
「ボクもそう言ったんだけどねぇ、ゆかちゃんは律儀だから」
京楽の気遣いに、「いえ、律儀とかではなくて……。私が、この魂魄が別世界から来たものだと最初からお伝えし、共有できていていたらベストだったのではないか、と……」そう言って反省の色を滲ませた。
何が最善だったか、ああすれば良かった、など。今更過去の話を持ち出す気はない。経緯がどうであれ終わった事に口出しは野暮だ。死神人間に拘らず、前を見て邁進せねばならない。ただ一方で、その失敗から学ばなければならない矛盾は、反面教師とも言える。
それには平子自身も思い当たる節があった。
──俺が事情もなんも知らんばっかりに余計なクチ出したんは……あかんかったやろな。
以前、喜助へ告げた『言わんでええこと』が脳裏に浮かぶ。思うように動けなかった彼女へかけた助言。それを回顧しては、自分の方こそ詫びる番ではないのかと、己を咎め始めた。
だが、それを此処で今彼女に吐いたとしても、私の方が、だとか平子さんが謝ることなど、だとかそんな風に返されることは眼に見えていた。自身の責はひとまず棚に上げ、平子は「ええんやて、そない気にせんでも」と彼女側の後悔を先に思い遣った。
様々な推考を重ねていると、ゆかは「は、はい」と会釈しながら胸の内を吐露していく。
「……えっとでも。色々とありましたが、私は今の現状に満足していて。ほんとうは謝罪よりも感謝を伝えたくて。京楽さん、平子さん、当時は気にかけてくださってありがとうございました」
ぱあっと表情が一変したゆかは嬉しそうに顔を上げた。
「特に平子隊長には感謝しているそうだよ。実はボク先に聞いちゃった、ごめんね」
謝っている割に軽い口調の京楽を見やる。
特に俺へ感謝て何をやねん、と眉を顰めながら「え、俺何もしてへんのやけど。今日久々に会うたばかりやし、」そう言って二人の顔を交互に追った。
「私、平子さんの『自由に生きられたら』という言葉に励まされて……ようやく此処に戻ってこれたんです」
そして先ほどよりも更に顔を綻ばせて。
「それが無かったらまた別の道を選んでいたかもしれません。これは私のけじめなんです、ありがとうございました」
柔らかくしっとりとした音が響くと、彼女は一礼した。嘘のない芯の強い言葉は、こちらの一方的な呵責の念を吹き飛ばすには充分だった。
──この娘、ほんまはヒトの心ん中、盗み見してんとちゃうか。
そう思わずにはいられなかった。ひとの気持ちを汲むどころか淀みすらも掬い上げてしまうそれに、声を奪われそうで。
「……そんな昔の言葉、よう憶えとったな。言われへんかったら俺忘れてもうてたわ」
咄嗟にその場凌ぎを紡いでいた。
濁りなき双眸で御礼など、どうも慣れない。不覚にも自然と自分の口許が緩んでいくのを感じた。絆される、とはこういった状態を指すのだろうか。馴染みの薄い感情に、胸奥がこそばゆくなりながら平子は密かに理解した。
──こりゃあ、喜助が連れ戻したなる訳やわ、あーいや連れ戻したんかは知らんけど。
最後に見た喜助は憔悴よりも随分と荒んだような雰囲気を纏っていた。あの後は業務連絡程度で、あまり顔を合わせることもなかった。それも今では色を変えたのであろう、この娘を見れば想像に容易い。当時を知らぬ彼女はこちらの軽い返答に、はは、と無邪気に声を上げた。
「あの時の何気ないひと言が、私にとっては大きな力になったので」
──いやジブンやで、なんともないひと言いうてんの。気づいてないやろ。
無論そんな返しは出ることなく、平子は両目を細める。「ん、……ほんなら良かったわ」うっかり滲み出た感情を誤魔化すように鼻の下を掻いた。
こうして互いの話が収まったところで。和やかに見守っていた京楽が「あ、そうそう」と思い出したように口を挟んだ。
「忘れないうちに、ボクからゆかちゃんにこれ渡しておくね」
そう言って袖口から差し出したのは何枚かの細長い紙切れだった。表には『通』の字が書かれている。それに目を向けた途端、ゆかは驚いたような顔で目を丸くしていた。「あっ……これ、」そう零したのは妙だが、直感でそれらを何か察したように見えた。
「おや、浦原店長からもらってたかな? 彼にも渡してないはずなんだけど」
「いっいえ! 初めて見ました。なんか、切符、みたいだなって思って……」
「はは、そうかい。確かに通行切符だから間違ってないさ。これは通魂符って言ってね、自由に尸魂界へ出入りすることができる。ゆかちゃんはお友達も多いし、必要だろう?」
「私にそんな……」
「嫌だったかい?」
「嫌だなんて! とんでもないです! すみません。とてもとても嬉しくて、驚いてしまって、大層なものを、」
「ははは。ゆかちゃんは変わらないねぇ、初めて七緒ちゃんに会った時みたいな顔してさぁ」
「そ、そうですか? お恥ずかしい……」
眺めていた平子は、なんや総隊長から直々にえらいもんもろて、とは言わずとも羨ましげに「ええなあ、俺も現世と楽に行き来したいねんけど」と京楽に求める。
「平子隊長は自由にサボってるでしょ、あげないよぉ」
「人聞き悪いで京楽サン、最近桃がやかましゅうて全然サボられへんのに」
「私と出くわした時も塀に腰掛けておサボり中でしたっけね」
「せやからアレもサボってへんし見廻りやて」
「はは、そうでしたっけ?」
暫く談笑をしていると、キシ、という足音が遠く廊下から響く。
「……おっと、そろそろ来たようだね」
ボクはこれで、と立ち上がる京楽を横目に、襖越しに感じる霊圧へ体を向けた。
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