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「雨ちゃん、今日はお出かけ?」
「うん、キスケさんがお店休みだって」
「そうなんだ、いってらっしゃい」
「……いってきます」

 浦原商店は終日休業、子供たちは遊びに忙しく不在だと言う。彼女を見送ると、しん、と静まった空気が店内を包む。予期せぬ手持ち無沙汰に何しようかと悩んだのは一瞬で、のんびりと流れる時間を満喫していた。

 ゆかは浮き足立ちながら誰もいない商店の廊下を進む。向かう先は台所。珍しいことに、自分のためではない。
 昨晩から喜助はなにやら自室に篭って作業をしていた。完徹に続き延長戦のようで、お疲れだろうからたまには、と台所で茶を淹れる。

 ──今日くらいは私から出してあげよっと。

 普段、テッサイや雨が出している休憩のお茶を代わりに。
 喜助は休日にも拘らず、調べ物か死神の業務をこなしている。仕事詰めのとき自分だったら嬉しいと思うけれど、彼はどうだろう。いや、ひょっとしたらお邪魔かもしれない。集中度にもよるだろうが分からない。

 ──雨ちゃんみたいに出したら喜ぶかな。忙しいかな、

 彼女はさり気なく、それでいて気遣いのきくとても出来た子だ。雨の真似をしてみよう。よし、とゆかは一人で勝手に気合いを入れた。だが無論、それを押し付けてはいけない。向こうの疲れ具合は相当だろうから、気乗りしない返事だったら戻ってこよう。
 こういう関係だからこそ、無理に押しかけないで適度な思い遣りが紡げたらいいな、と思った。

 お盆に淹れたての茶。急須におかわりもある。身も心も休まるように、若干渋めにした。薄いよりかは良いだろう。口に合わなかったらごめん、と思いつつゆっくりそろそろと運ぶ。そうして部屋の戸の前まで来た。ん、と小さく咳払いをしてから声をかける。

「キスケさん、お茶をお持ちしましたあー」

 失礼します、といつもより少しだけ丸く丁寧な声音に。雨のように彼を呼び、語尾も変えてみた。休憩してくれるだろうか。それとも、なに真似してるんスか? とか、バレバレっスよ? とか。自らあまり冗談は言わないけど、呆れずに笑ってくれるだろうか。

「はーい」という返事を受け、すうっと戸を引けば、喜助は卓に向かっていた。
 広い背が目に入る。暗色の羽織りは肩にかけていて、その大きさがより一層際立っていた。

 すると彼は振り返ることなく、「ああ、そこに置いといてくれるかな。ちょうど喉が渇いてたんだ」と何かを書いてから、コト、と筆を置いた。

 ──あ……。

 お盆を持ったまま。ゆかは自分宛のようで自分には向けられていない喜助の声色に固まった。子供に向ける柔らかな音が優しさに溢れていて、自分のいない所でしか聞けない貴重な声だ。

 ゆかは「置いて」という彼の要望もすぐに実行できず、数秒してから近くまで擦り寄り。畳の上へそれを置いた。

 そっと傍に差し出された湯呑みに気づいた喜助は、
「ありがとう。ウル、ル……」と振り向きざまに零し。
 ──ばちっと目が合った。驚いたゆかは半開きの唇を一文字に閉め、やつれ気味の喜助の顔をじっと見つめ返してしまった。

 ──び、びっくりしたあ!

 似せようとしても分かりますよ、なんて言うと思っていたのに、少しの癒しを与えるどころか誤解を与えてしまい。
 この状況が掴めているのかそうでないのか、自分のらしくないふざけた言動に怒ったりして。碌でもない不安が過った。同時に、安直に思い立った行動に申し訳なくなった。

 ──普通に間違えてた……それだけ疲れてたんだよね。

 数回ぱちぱちと瞬きを重ねた喜助は、まるで魂が抜けたような面を晒した。

「なんだ、雨かと思えばゆかさんじゃないっスか」そう言ってから、ふう、と息を吐いた。

 なんだ、か。そうか、雨ちゃんじゃないから? 軽く傷心。いや、勝手に反応を押し付けてなに一方的に悄気てるんだ。自身を叱咤すると共に、間違えた第一声を省みる。

 癒し作戦失敗を脳裏に浮かべたゆかが、「はい、私でした」と苦笑気味に告げると喜助はふっと目を細めた。

「違う違う、『良かった』ってことですよ」

 疲れていても読心術は健在のようだ。
 喜助は小さな声量でそう落としながら、ぽすん、と額をゆかの肩口に埋めた。直後に呼吸する息が首筋にかかる。彼は私の弱点を首あたりだと知っているのに。「あっ」反射で声が上擦った。

「そ、ろそろお茶でも、と思って。雨ちゃん、みたいに」

 ほら、いつもこうやってるでしょ? と。戯けてみては作戦の言い訳を取り繕う。
 零距離で「助かります、」と紡がれると喜助の息がかかった。

「徹夜で仕上げてたんで。全然違和感なかったっス」
「えへへ、そんなに似てましたかね」
「ええ。ですが……今はお茶よりもこっちがいい、正直なところ」

 喜助は首筋に唇を這わせる。
 そして遠慮がちに音を立てた。控えめな湿りを残すと、それでもまだ足りないと言うように、ゆかの後頭部を大きな掌で支えた。「んん……」逃げそうになる小首を堪えて、ぎゅっと目を瞑る。彼は癒しを求めているのだから、擽ったいのは我慢しないと。お茶よりも自分が良いと言ってくれたんだ。拒否はしたくない、でも感触はぞくぞくと痺れていく。

 それに応えるように、ゆかは喜助の頭をくしゃりと撫でた。薄眼を開けて、肩に埋もれる金糸を混ぜ込むようにわしゃわしゃと。明けだからか、少しだけ汗ばんで、ごわついて、柔らかくて、指に絡まって。──好きだ。
 疎通できたあの日みたいに、想ったことを瞬間に伝えられる勇気がもう一度出てくればいいのに。

 彼が求めるものをうまく差し出せるか解らないが、ゆかは好きの想いをたくさん胸に詰めて、いつも通りを心がけた。

「……浦原さんって、たまーに根詰めて仕事しますよね」
「たまにって、いつもしてますよ」
「長生きするからってたまに無理したら、ポックリ逝って元も子もないですよ」
「大丈夫っス、あたしはそう簡単に死にませんから」
「そういうことを言ってるんじゃないんです、心配かけてるってことです」
「ゆかサンに心配されたら無理をしていても嬉しい」
「いやだから、」
「ほんとうっスよ?」
「うまく伝わってない気がする」

 彼は三ヶ月かかる仕事をひと月で片してしまう程のひと。ちっぽけな人間からかけられる労いや憂いなど、あまり響かないかもしれない。

 ──いつもよりやつれた顔をみると、どれだけ強くて頼もしい喜助さんでも、心配になるって……。

 横跳ねする綿毛のような髪。くるくると手遊びしながら考えていると、喜助は徐に顔を横向けた。肩に頭を乗せたまま見上げられて、妙に羞らう。その視線を受け流していると、頬にじょり、無精髭が当たって口づけられた。一気に集まる熱。こちらが意図した事を誤魔化された気がした。

「ボクを想って心配して、ボクを想って叱ってくれる。これ以上に嬉しい事ってありますかね」

彼は急に確信めいたことを言い出すから、──ずるい。
ずるくて、素敵で、惹かれて、また好きになる。

「……ほんと、なんなんですか。癒そう作戦で来たのに、結局私が返り討ちって」
「なら大成功じゃないですか」
「どうだかー」
「だって現にこんなにも愛おしい気持ちに」
「あのねぇ、」
「照れちゃってまぁ」

 へらへらと頬を緩ませる喜助は、後頭部を支えていた手で同じように、くしゃりと撫で返した。

「それに。これを教えてくれたのは貴女っスよ?」
「い、言わなくていいです……!」

 ああ確かに言った、忘れるわけがない。

 ──『それは、愛って云うんですよ』

 相手だけに言わせておいて、自分から告げていないのは弁明のしようがないが。今はまだ。貴方の愛を甘受していたい、欲張りに貪欲に、溢れてもなお。存外自分は甘えん坊なのかもしれない、なんて言えないけれど。だから代わりに、──。

「……僭越ながら、私からご褒美です」

 そっと触れるだけの口づけを、彼の乾いた唇に。
 かさかさとしてあまり色気のない感触を、この脳は甘いものだと認識する。あなたの存在全てが深愛で、こんなにも潤される。あなたも同じ気持ちだったら嬉しい。

 眼の下に残されたクマにも、数度唇を這わせれば。
 垂れ目を更に垂らした喜助の双眸は糸のように細められて消えていく。
 自分からはこんなことしか与えられないけれど。あなたの喜びの一助になれたのなら、それは細やかな幸せ。

「おつかれさま、……喜助さん」

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