辺りは暗い。
鈍痛があるはずなのにその感覚はなく。空気を吸っているはずなのに息苦しい。妙な違和感が全身を纏って、不思議だった。
薄眼を開き落とせば、引き裂かれた腹部が。地上へ垂れゆく血液が肌をつたっていた。そしてどくどくと速まる心臓、背筋は凍ることなく火傷のような熱を伴う。
前方には薄ら嗤いを浮かべる口許。卑しく、せせら嗤うように口が動いて視えるが、その音は耳に届かなかった。
──なにも、聴こえない、なんで。
問いの答えを示すように、その鋭い切っ先が瞳を捉えた。
──もう無理だ。
ゆかは振り絞った力もだらり。全てを放棄し、詫びながら礼を紡ぐも、自身の声さえも鼓膜に響かずに脱力した。
しかし何かの反動で敵の切っ先から体が離れたのか、ふわ、とした浮遊感が。瞬間に体が翻り、落ちていく。頭部から後方へと真っ逆さま。落ちる落ちる、急速な落下──。引きつけられるような重力を感じながら、ビクッと心臓から全身の筋肉までが跳ね上がった。
「っ、 」
がっと勢いよく、目を開けるより先に体を動かす。
寝汗でびっしょりになった部屋着が空気を含むと次第に冷え、仰向けのまま現在意識を尖らせた。
「……はぁ」
──まただ。でも目覚めて良かった、とゆかは溜息混じりに胸を撫で下ろした。
気怠く半身を起こし、片手で顔を覆い呼吸を整える。体は未だ火照っている。それ程の興奮、異常をきたす体験だったのだろう。これまでの自分には最も縁遠い、命を賭す行為だ。そうか、こういう精神状態をトラウマと言うのか、と小刻みに震える指先を握りしめた。
穏和に暮らす今、あんな戦慄は奴が消滅した以来一度もない。かつて体内に潜んでいた悪夢とは違う恐ろしさだった。それに小さい頃に見たものとも比べ物にならない程の禍々しさで、大人になると余計な所までも鮮烈に映るのかとうんざりする。
──魂魄移動、してない、よね……。
いやまさか、そんなこと。いの一番にその心配が過ぎった。移動してしまったらどうしよう。もしそうなったら。一体どうしたら。
ふらっと部屋を見渡し確認する。この和室は浦原商店。大丈夫、きっと魂魄移動もない。霊力もちゃんと残っている。ふと左を見ると、敷布団の隣はあいていた。彼はまだお仕事中のようだった。
──これ初めてじゃないなんて。いや、言えないな……。
変なものを見ることすら言えないのに。それに何度も魘されるなんて、小っ恥ずかしくて言えやしない。おまけに長いこと恐怖の熱りが冷めない。ゆかは布団から身を這い出し台所へ向かうことにした。
寝起きだが足取りは安定している。とぼとぼ歩いて辿り着く。蛇口をひねり、手水舎で掬うように水を飲む。そのついでにバシャバシャと顔へ。頭は未だぼんやりとし、頬から雫が滴ったまま流し台で佇んだ。
すると、廊下から響く足音が。キシ、キシと。ゆかは近付く音に気を引き締め直しつつ、視線だけをそちらへ向けた。
「……おや。電気がついてるんで来てみれば、起きちゃったんスか?」
小休憩なのかやっと終えたのか、喜助は飲み終わった湯呑みを手に流し台へ近づいた。
「あー。ちょっと寝苦しくて、」
ゆかは備え付けのタオルで水気を取る。これですっきり、と言えたなら良かったのだが。どうも頭が腫れたように重い。
「ゆかサン、ちょっと」
「はい?」
「ちょっとこちらへ」
自分から動く前にそっと肩を抱かれたと思えば、至近で顔を覗かれる。
「あのー……なにか」
「失礼しますよ」
喜助は断りを入れてから、ゆかの前髪を上げる。冷んやりとした掌が額を覆った。ごつごつとした硬い指でありながら、どこか安らぐ感触。じゅーっと音が出てきそうなほど、その温度差が心地良かった。
「冷たくて不思議だって思ってるんスか」
「……まだ何も言ってないんですけど……当たってますけど…」
「全く、あたしからすれば貴女の方が不思議ですよ……」
「そんな心外です。なんでですか」
「こんな高熱を出して何故気づかない」
「えっ、あ、ね、熱……そっか、」
「もっとご自身を労わってくださいよ」
頼みますから、そう言い終える前に、ぽすんと彼の胸元へ引き寄せられた。
「すっすみません、私、寝てて。気づかなくて」
「じゃあなんで起きたんです?」
「なんでって、それは……寝苦しかったんで」
「まーたよろしくない夢でも見たんでしょう」
「っ、どうして、それを」
「ここ最近、寝ている間の霊圧の振れ幅が大きい。時折、苦しそうに唸ってる声が聞こえます」
「わ、私、唸ってたんですか……!」
「割と可愛らしい唸りでした」
「割とって」
いや、唸り声に可愛いも何もあるもんか、気恥ずかしさが襲いかかる。
「それに貴女の霊圧が荒ぶってる時は大抵疲労困憊のようで」
「……さすがの観察眼」
思い返せばここ最近、毎晩ずっと夢見が悪い。夜中に一回以上は目を覚ます。体調が優れない時や、疲れが溜まっている時には必ずと言っていい。ぐるぐると昨晩やその前の晩を回想していくと、これは知恵熱なのか疲労なのか風邪なのか、だんだんと分からなくなっていく。
おまけに高熱だと相手から言われ自覚した直後だ。その影響は一気に肥大化していった。
「あー。浦原さん、ちょっと立ってるのが、辛くなってきました」
ゆかは片手で火照った頭に触れ、それを喜助へ寄せる。恋人らしい甘えたそれではない。彼から『労ってください』とお願いされたからだろうか。体から空気が抜けたようにフラフラとようやく異常を感知した。
「持ってかえってきてまで仕事をするからですよ」
「……繁忙期に言ってください」
「明日は休みませんか」
「月曜は直行なんです、ひと晩寝たら大丈夫ですから」
「たまにはご自分の体に従ったらどうです」
「いや、そういうわけにも」
喜助はこちらの強情さに渋々、と言った表情で眉を顰める。彼の露骨な双眸を向けられたゆかは、咄嗟に心配かけまいと「……午後、半休取れたら取ってきます、すみません」と言い直すように詫びを入れた。
「ええ、無理はせず。ともかく立ち話は体に障りますから」
言って、ひょいっと担がれた。横抱きでもなく、米俵でも肩へ乗っけるように。昔同じことを階段でされたような、気がしなくもない。が、今はそれを懐かしむことも担ぎ方に不服を申すこともできなかった。肉体的にもしんどさが頂点に達していた。
──はあ、休みの間に自己管理もできないとか。……いろいろと失格だ。
全く情けない。体調の優れない時は気も滅入って良くないな、と喜助の肩の上で落としそうになる溜息を呑み込んだ。
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