日々の平坦さは、今この瞬間のためにあるのだと深く感じられる。
華の金曜、終業間近。
今週も明日を迎えるためやり切った。高まる昂揚感を抑え、定時まであと数分という時刻に差し掛かる。ゆかは何かに勝利したかのような誇らしい気持ちを潜めていた。それは静かに、自身の存在を消すように。
パソコンの時間を眺めてはカウントダウンを重ねていると、後方から、「今いいですか、」と声をかけられた。
突然のそれに振り返れば、別部署の男性が眉尻を下げつつ、如何にも申し訳なさげに佇んでいるではないか。
「あの……神野さん、こんな時間にすみません。これ来週一発目に変わったから諸々の修正をお願いしたいんですが……。この担当の方、今日いないみたいで。ほんとごめんなさい」
え。まじですか、と頬が引きつき痙攣する。だが関わりの薄い社員にそんな砕けた事は告げられない。
それに、きっとこの人もこのあと残業なのだろう。頼み事一つに二回も謝罪を含めた彼へ同情しつつ、「月曜の朝までですね、承知しました」と貼り付けた笑みを向けた。
──ああー今日の予定が。でもまあ、そんなにかからないかな……。
渡された資料を手に凡その時間を図る。
ありがとうございます、と言われると、いえいえ、と返さなければと焦燥する。「あ、私の方は大丈夫なので月曜またお願いしますね。そちらもお疲れさまです」互いに互いを労って、苦笑気味に彼を見送った。
せっかくの金曜だけれど。月曜の朝までだし仕方ないかと諦めて、一度片した道具を再び机へ出した。
作業再開すること数分、定時を過ぎたあたり。続々と同僚たちが去って行く。本来であれば自分も彼らに混じっていたのに、と悄気ながら去りゆく人々を遠巻きに。所々から「お先に失礼します」が飛び交う中、もう一人の同僚が外から戻ってきた。彼女もギリギリの仕事をこなして戻ってきたのだろうかと疑問に思いながら、居残る人々へ目を配る。まだちらほら残業組はいるようだ。
だがその同僚だけはすたすたと早歩きで、怪訝そうに眉を顰めていた。
「もう定時過ぎてますよ、今お戻りですか」
共感と労りの意味も兼ねてそう声をかけると、彼女は腕組みをしながら険しい顔つきのまま近づいた。
「うん、今郵便出してきて戻ってきたとこなんだけどさ、」
「お疲れさまです、どうかしたんですか?」
「いやね、ビルの下に不審者がいるのよ」
「えっなんですかそれ、怖い」
「上司に言って行ってもらった方がいいかなぁ……」
どうしよう、と悩む彼女へ「私で良ければ軽く声かけてみますよ」そう告げると「えっほんとに? 大丈夫?」と心配する。
「いざとなったら叫んで逃げてきますから。で、どんな人です?」
この質問に同僚が神妙な面持ちで特徴を述べていく。
「なんかね、古風な恰好してて、帽子かぶってて……それで杖振り回してた」
ゆかはその世間一般の目から見たら風変わりである特徴を聞き、反射的に「えっ」と声を落とした。
その者は彼女にとって不審者だが、自分にとっては──。
「怪しさ満点でしょ? 杖振り回してるよどうすんの」
「あっいや……ちょっとまってくだ」
言い終える前に作業していた画面を保存して、ばっと立ち上がる。もう今日は無理だ、残業は諦めた。咄嗟の判断で身支度を進める。
──えっええっ喜助さん何してるの、なんで居るの、なんでここ知って……。
えええ、なんで。心の中では『なんで』が止まらない。
──いやいや紅姫ちゃん振り回してるとか……! 一体何考えて……!
同僚はゆかに何かを言いかけていたようだが、「あーあの、」と声を被せて遮った。
「……すみません。私、急用思い出したんで、帰るついでにその人に声かけてみます」
「えっ一緒に行こうか」
パソコンの電源を落として鞄を持つ。バッと勢いよく立ち上がり、「──いえ大丈夫です、お疲れさまでした!」一方的に言い放って逃げるように部屋を出た。
──だからあの時、何時に終わるのか聞いてきたのか!
ああもう恥ずかしいどうしよう、と考えれば考えるほど顔が火照っていく。この熱は完全に羞恥心。それと同僚にバレたらという不安感から。ぷすぷすと頭から煙が上がり燻っている。
悶々と考えながらゆかは廊下で立ち尽くす。こういう時に限ってもたついているエレベーター。上階まで来るのを待っている間、喜助との何ともない会話をじっと思い返していた。
──それは先週末、商店でのやり取りだった。
『ゆかサン今は週末しか来ないんスから、次は金曜からいらしてくださいよぉ』
『別にいいですけど、土日は暇ですし』
『最近帰りが遅いようですが、いつも何時頃終わるんスか」
『えっと、その日によってまちまちだから……早くてもだいたい午後六時あたりかなあ』
『了解っス。覚えときますねん』
……などとあの日にも持ち帰った仕事書類と睨めっこしながら片手間に答えてしまい。そして今日に至る。
──でも、来るって言ってたっけ……?
いや言ってない、と心で全否定すると、ようやくエレベーターが当階に止まった。それに急いで乗り込み、一階へと下がっていく。
扉が開いてから駆け足でビルを後にし、車の行き交う大通りをキョロキョロと見渡した。あれ、いないなあ。首を傾げながら辺りを彷徨うこと数秒。
細い路地へ差し掛かったあたりで、ぐいっと腕を引かれた。「うわあっ」ゆかは驚愕に近い声を上げて、ぽすっと引かれた先に収まる。
「お仕事お疲れさまっス、ゆかサン」
「……あーっいた、浦原さん!」
びっくりしたぁ、と見上げると喜助はけらけらと笑いながら「来てくれると思ってましたよ」と悪怯れることなく答えた。
「やっぱり! 浦原さんだったんですね、不審者は」
「えーやだなぁ不審者だなんて、ここいらに浮遊していた霊なるものを追っ払ってあげたのに」
「ああだから紅姫ちゃんを。……って、しれっと怖いこと言わないでくださいよ」
「怖いんスか? 虚と戦える貴女が」
「それとこれは別ですよ。元々ホラーはダメなんですから、それより、」
ゆかは先ほどの疑問たちを投げるべく言い募る。
「どうしてここにいるんですか、それになんで私の職場を知ってるんですか」
「なんでってそりゃあ、」
喜助は人気のない路地裏を良いことに、ゆかを後ろから伸ばした腕でぎゅうっと抱き込んだ。
「金曜だから」
低音を耳元で囁かれ、不覚にもゆかは強烈な打撃を喰らったように目を見開いた。「んな、」とたじろぎながらも逃げはしない。彼はただ曜日を言っただけだ、それだけなのに、ただの日常単語なのに。鼓膜近くで声を変えるなんて卑怯だ、狡猾な男め、と一瞥した。
「アタシは先週から待ちくたびれましたよ」
追い撃ちをかけるようにささめかれ。
ああ惚れた弱みはこれ程なのかとゆかは声を失った。暫く口を噤んでいれば「そんな素っ気なくしないでくださいよ」と言葉尻を弾ませる喜助。だが、質問を上手くはぐらかされていることに気づいたゆかは、吃りながらも声を荒げた。
「だ、だからって職場は……」
「霊圧探ればどこ行ってるかなんて一発っスもん。GPSすら必要ないですねぇ」
「同僚に見られたらどうするんですか、さっきすでに見られて話題にしてたんですよ?」
「だから来てくれたんでしょう?」
「そ、そうです、けど……」
「だと思ってました」
「ですからこれは、浦原さんが下に来てるって分かったから仕方なく……!」
「かわいい」
「可愛くはないです」
どこを見てそれの感想なのか、会ってからずっとつんけんと。可愛げのない返事ばかりで、間違ってもそれはない。自分はただ焦って仕事を切り上げて出てきただけだ。そう思うも側から見たら馬鹿げた恋人同士の会話かもしれないな、と気づかれないように照れを隠す。ゆかはこの場所が路地裏で良かったと安堵の息を落とした。
「おや。それより先に言うことありません?」
「言うこと? 何ですか?」
迎えの感想か? それは全て抗議し尽くしたし、と答えを巡らせていると、喜助はくるりと自分の体を後ろへ向かせた。
腰から背に回る逞しさを備えた腕。この細身からは想像し難い。けれど薄生地の作務衣越しには隆々たるものをしっかりと感じた。
そうして隙間なく密着する腹と胸。彼は蠱惑的に微笑む。ゆかは、これは何かを悪巧みをしている顔だ、と身構えた。
「決まってるでしょう」
「だから何のことですか」
「まず帰ってきたら、言うこと」
「……た、ただいま……?」
「はい、おかえんなさい」
普段であれば誰に向かって言う訳でもない。
彼は悪戯小僧みたいなかんばせを曝しておいて、その口から零れ出たのはなんでもない挨拶だった。何気ないはずの挨拶は、何気なくなくて。こんなにもむず痒くて、満たされる。あんなに恥の上塗りを感じていたのに。悪くない、むしろ好きだ。大人しく甘受しよう。
「……お迎え、ありがとうございました」
いえいえ、と控えめな返事と共に、背中には力が込められ頬が胸板へ当たる。頭上から「ははは」と柔らかな声が降り注いだ。一体何が可笑しいのか分からぬまま、けれどゆかもつられて口元が綻んだ。
「んじゃ、帰りましょ」
その言下に喜助の素早い瞬歩が働く。
いつもなら遠回りしてでも歩いて帰るのに、どうも彼は早く週末を迎えたいようだった。そんな些細な行動が微笑ましくて愛おしくて。
二人で身を寄せ合うこの風景が、単調な時を煌びやかに色付けていく。
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