「今日も人が来ないですねぇ、せっかくお手伝いに来たのに」
両手を後ろで組むゆかは、店の入り口で顔を出したり引っ込めたり。当の店主は後方奥、高さのある上がり框で片脚を垂らし胡座をかいている。
「あっちの方が忙しくなっちゃったんでね、ゆかサンにはこちらの番をお願いしたく」
「まあ、家にいてもする事ないのでいいんですけど」
週末は駄菓子屋の助っ人に。珍しく喜助から頼まれたので、てっきり忙しいのだと思い込んでいたが、繁盛していたのは駄菓子屋ではなくて。浦原商店の裏稼業とも言える対死神商売の方だった。
「って駄菓子屋が忙しいわけないか」
「ちょっとそれは失礼じゃないスかぁ、ウチは美少女から人妻まで大人気っスよ?」
「知ってますそれ。あっちで見ましたし」
彼の冗談に笑うわけでもなく、ちら、と後目に見た。
「つれないっスねぇ、」と戯ける声は愉快げに聞こえる。お決まりの冗談だと分かっていても、少しだけ膨れるのは仕方がない。それが伝わったら何だか癪なので真正面を向いて誤魔化した。
──……やっぱり私は心が狭いな。
恋人という肩書きを得てからというものの、以前より余裕が無いのはどうしてなのだろう。普通であれば、繋がりを経て安心し、余裕を持てるのではないのだろうか。
そんな情けない想いをだらりぶら下げる午後。店の中から見上げる外は、この心情を嘲笑うかの如く雲一つない晴天だ。
「ゆかサン」ふいに声がかけられた。
「はーい、なんでしょう」振り返らずに、澄んだ空を見上げ声を張った。
「どうして、思い出したんです」
なんの話、なんて思う隙も無く。彼の真剣味を帯びた声音に頬が固まる。
「……なんですかー、急に」
ゆかは何のことか分からないふりをして、笑って声を返した。
「ずっと考えてたんスよ、なにかボクを思い出す切欠があったのかって」
「勿論、そんなもの無かったかもしれませんが」と憶測を話されると、話の趣旨を否が応でも理解せられる。
直前までの膨れた態度はあっという間に遠く彼方へ。訊かれて掘り起こされるは、あの瞬間、──じわりと光が燈る感覚。
「あー……えっと」途端に口籠もる。
くぐもった声のまま、「言わなきゃだめですか」と答えあぐねていると「それはつまり、何か切欠があった、と?」と逆手に取られた。
それに対しても頷かずに肯定ともとれる沈黙を返す。すると喜助はこちらの思考を察したのか「教えていただけると助かります」と言葉を並べた。
教えて一体何が助かるのだろう、と抱いた疑念を秘めながら一瞬そろりと眼を横へ向けた。後ろ奥にいる彼の姿は捉えることなく、すぐに蒼い空へ視線を戻す。そうして仰いだまま、あの時も同じような空だったなと回想していた。それらを思い返していけば自然と、伝えなければ、との想いが強まって、唇が動く。そうだ、切欠は──。
「……散歩を、気分転換に」
ぽつりぽつりと零しては、鮮明に蘇るあの日。
「冬も近くて秋風が気持ちよくて、散歩日和で。路面店がすごく綺麗だったのを憶えています」
ゆかは目を細めながら、言葉を紡いでいく。
「その中の一つを通りかかった時、私は立ち止まって」
喜助は相槌を打つこともなく、ただ聞く。
直前に『教えてもらえると助かる』と乞われたからか、彼は自身の予想と自分から話される事実を、一観測者として知りたいようにも思えた。記換神機の正確な情報を入手したいのかもしれない。ならば、些細な情はなるべく隠して真実を端的に伝えていくべきかと、ゆかは言葉を重ねていった。
「どこかで見たことがある、見知っている服が飾られていたんです。そしたらその直後、頭に浮かんで。……そうだ、喜助さんからもらったコートによく似てるって、それで」
そこまで告げ、燈火にじんと温まった気持のまま振り向こうとすると、背後からそっと肩を寄せられた。体が後方に傾いていく。ほろ苦い燻した馨りが僅かに鼻を掠めた。
──あれ、さっきまで退屈そうに座っていたのに、いつの間に。
腕が首の前で交差して彼の中に閉じ込められた。過去、別れ間際にも店先で同じ状況になったなあ、なんて懐かしむも今では関係も心持ちもあの時とは全く逆。
自分も抱きつかれることにはそろそろ慣れた頃だと思っていたはずなのに。こうやって急にくるから続くはずの声が引っ込んでしまった。
「……それで、思い出してくれたんスか」
「はい、それが切欠ですね」
じっとしていると、次第にこめられていく力。
「その記憶が呼び起こされたあと、世界が覆されたように苦しかったでしょう」
「…………」
何も返せない。些細な感情は全て隠そうと努めていたのに、向こうから問われてしまっては。喉がきりきりと詰まる。再び無言は肯定と捉えられてしまうのだろう、だが今もなお思い返すと苦しくなる。もう二度と、あんな闇の底に沈むのはご免だ。
けれども彼が脆弱性という裏をついていたのであれば、それは訊かなくとも分かりきったこと。何を、今さら。
「そうなるって、知っていたんでしょう」
心なしか震える唇。喜助の腕が強張った気がした。
「貴女と幸を分かち合うのであれば、辛苦も共にしなければ不公平っスよ」
「そんな不公平も何もないですって。私は浦原さんに苦痛なんて与えたくはないんですけど」
「ほらまたそう言って。あんまり遠慮されると心苦しくなります」
「はは、変なの。もう苦しいんじゃないですか」
「いやそういう意味じゃないんスけど」
「では申し訳ないですが心苦しいままでいて下さい。そうしたら公平なんじゃないですかね」
「ハァ、……言葉遊びが上手くなりましたね」
「口達者な誰かさんに教わったのかもしれません」
あはは、誰っスかね。と肩口で囁かれる声と吐息に、顔が、耳が熱くなる。
「……でも、あのあと。……浦原さんを思い出してどんなに苦しくても、出逢わなければ良かった、とは一度も思わなかった」
想い浮かべるのは、別れ間際に呟いた最後の言葉。
──出逢えて良かった、それはこの先も変わらず涯まで綿々と続くのだろう。
「だから、また逢えてほんとうに良かった」
こうやってすんなりと言えるのは面と向かってないお陰か。表情が見られていないことをいいことに、ゆかは心底嬉しそうに目尻を垂らした。
「……その素直さをもって苦悶も教えてくださいませんかねぇ……」
「はは、前向きに検討しますよ」
「ですがアタシも、出逢わなければ、なんてことは思わないでしょうけど」
「えー、そこは予想ではなく断定してくださいよ」
「心配ご無用っスよ、思いませんから」
「なんか軽くて全然ご無用できないんですが」
またもや喜助が、あはは、と息を吹くものだから、ぴくんと小さく反応してしまう。ああもう、首回りに彼の顔があると不可抗力だ。
すると、喜助は冗談めいた声色から一変。低音で「つまり、」と全ての経緯と結論を口にし始めた。
「貴女にとってあの時のプレゼントは、大事な記憶として奥底に残っていた、と」
再度自覚せられることに妙な羞らいを覚え、慌てて声を被せる。
「っ、改めて言わなくてもっ、とっとにかくあのプレゼントは嬉しかったんです、それだけですよ」
本当は凄く、凄く嬉しかった。どれほどかなんて分からない。あのあと『浦原さんからのプレゼントなら何でも嬉しい』と告げた喜びも、今思えばそれ以上に嬉しかった。
「それは良かった、買い出しに連れて行って」
「買い出しというより買い物ですけど……」
「あの時と同じこと言ってますよ」
「言いましたっけ、私」
「はい、言いました」
遠い昔の会話を流石にそこまで細かくは思い出せないけれど。彼がそう言うのなら、そうなのだろう。
喜助は後ろから片手で顔を支える。くい、と上げさせてから、そのまま背後へ向けさせられた。目深に被る帽子から、柔らかな瞳が覗いている。優艶に細められたそれへと吸い込まれるようで。──いつだって私は、この琥珀を前に何も考えられなくなる、何も。
「あたしの目に狂いはなかった訳だ」
喜助はさり気ない挨拶でもするかのように唇を落とす。そっと優しく重ねられ、それでいてしっかりと触れ合って。それを何度か繰り返し、離れる時には名残惜しそうに湿った音を残す。
「ん……ぅ、……こ、ここ、店先、ですよ!」
誰か来たらどうするんですか、とゆかは目を泳がせた。喜助は悪びれることもなく、「さっきまで人が来ないって言ってたじゃないスかぁ」そう言ってへらりと笑む。「それは事実を言ってたまでで、」ゆかはしどろもどろに前言の修正を試みた。
「ああそれに、駄菓子屋が忙しいわけない、とも言ってましたし」
「言いました、言いましたけど! だからって商い中にする人がいますか……!」
「いるっスね、ここに」
ああ、やっぱり揚げ足取りでこの人に勝とうだなんて無理な話。
ところで。別業で忙しいとのたまった彼はいつまで店先にいるのだろう。今ここに自分が居る理由を回顧すると、ついにこちらが揶揄する番かな、と思わず頬が緩む。くすくす、と唇を結んだまま笑むと、喜助は「何です楽しそうにして」と嬉しそうに窺う。ゆかはその表情に、ははは、と声をあげて。
「はい、なんだか楽しいので笑ってました」
いい揶揄い文句が浮かんだけれど、言わないでおこう。
──今はまだ味わっていたい、背後に陳列された駄菓子にも劣らない甘さを。これは幸せのお手伝いだから。
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