§


「……どうかこれからも、隣にいてくれませんか」

 ──いたい。いさせて、と喉まで出てきているのに。素直に首肯くことができなかった。

 目覚めた直後には歓喜に溢れ、信じてますからと告げたばかりなのに。気弱に怯んで。あんなに望んだ場所、あんなに求めた人。その人から受けるこの上ない言葉。けれど享受するには臆病過ぎた。本音を叫ぶと同時に残る一抹の不安。
 すくみ続けた心は『これから』が怖ろしいことを知っている。彼より先に命の終わりが来ることを、知っている。無常の中で共に生きるという摂理に、じりじりと疑心が蔓延していった。疑うは信じるより容易いと解っていながら、訊き返さずにはいられなかった。

「……い、いんですか、……私は」
「──貴女でないと」

 こちらの考えを知ってか知らぬか、言い終える前に声を被せられた。

「貴女に、いてほしい」

 強い語気で、あなたの意志を感じる。
 ああ出逢った頃は雑草で、背景でいられたらそれで充分だった。そんな想いはとうの昔に越え、今は雑草なんかではいたくない。弱虫はいつしかこんなにも慾張りになっていた。先に老い逝く命でも、不釣り合いでも、隣にいて良いのなら。そう思えたら、嬉しくて、あっという間に絆されていた。次第に溢れる想いが、彼の作務衣を濡らしていく。

 ──ああもう、こんなの、見せたくはないのに。

 自分を卑下して、すみません、と平謝り。擦れども収まらない幸福に喜助は眉尻を下げながら、「あんまり擦っては、腫れてしまいますよ」と拭ってくれて。そのお陰か、流れる勢いは少しずつ落ち着きを見せて、つうっと伝う雫を二人で消していたら図らずとも笑みが零れた。

「はは、すみませんって言われると今度はボクが断られたみたいじゃないっスかぁ」

 断ってなんかないのに、つい口癖でまた謝ってしまって。彼はそれさえも、過去のほろ苦い出来事をも冗談に変えてしまう。変わらぬ掛け合いに動揺しつつ、「あの、こちらこそ……いさせて、ください」と振り絞れば、目許に降ってくる唇。何度も、何度も注がれた。涙の粒を掬うように落とされた口づけに、体が先に反応して、でも逃げられなくて。やっぱり心臓がいくつあっても足りない。ひとつひとつの行為で慕情が飛び上がる。「こうしたかった」なんて告げられたら、何も言えない。ああなんて狡い人だろう。そう諦めた直後には全身が縛られるように喜助の温もりの中にいた。こんなに悦んでいるのに恥ずかしくて、自分は「酔っ払いみたいに」と放って可愛げない返事ばかり。余裕なんてない、あるわけなかった。

「ええ酔ってますよ貴女に、随分と前から。わかりませんかね」

 彼はいつだって涼しい顔をして、軽口を叩く。

「っだ、だから、よくそういうこと平気で……!」

 こんな状況でも慣れているような科白が端々に表れて、慌てふためいているのは自分だけで。不慣れな振る舞いからか、恥辱が上回った。顔を見合わせては紡がれる甘言の数々。起きてからまだずっと夢を見ているような浮遊感が続いている。夢現、夢見心地。ひょっとしたら遠い桃源郷にでもいるんじゃないか、なんてまだ心配になりそうなくらい。

「やっと触れることが許されたんだ、何度だって言いますよ」

 ──そう聞かされた、彼の胸の内。
 そんな気持ちを抱いていたんだと理解すると、この募った想いをどうにか行動にしたくて。ゆるゆると腕を伸ばした。緊張を指先に伴いながら喜助の頬へそっと添える。初めて触れる肌。薄い皮膚、指の腹で感じる、彼の無精髭。ざらりと這わせるこの刺激すらも愛おしくて、彼の想いに応えたくて堪らなかった。

 ──……私も、触れられる。

『蒲公英みたい』そう零したあの日。どれだけ手を伸ばしても、あなたはまるで綿毛のように飛んで消えていってしまう。あの儚くも虚しい無常感は今でも忘れられない。自分の中で咲き誇っていたものは、その時に散っていったはずだった。けれど今。すり抜けて躱され続けた光に、こうして触れている。再び芽吹いたものを噛み締めている。心の片隅で仄かに燈る灯火を。移ろう季節がまた同じ彩りを魅せるように、いまここに。

 ──やっと、迷いなく。

 頬へと伸ばした指は、同じ場所に存在する様を確かめる。輪郭をなぞっては僅かに震える。止めたり、動かしたり幾度もその感触を味わった。この後どうするかなんて、考えてはいない。さらさらと撫でるように触れたあと、満足げに口許を緩めて手を引っ込めようとした。が、それは喜助によって妨げられて。腰に感じていた熱が、今度はその手の甲へ移る。

「そんな逃げないでくださいよ、触っていていいんスから」
「いや別に逃げとかではなくて、その、これで十分かなって」
「アタシが満足しないんですが」
「そんな風に言うの、狡いですよ……」

 意図的に距離を図っているのかそうでないのか定かではないが、喜助は捕らえた手を離さない。

 不本意に観念して「じゃ……じゃあ、」と呟いてからもう片手を彼の頬へ添える。上半身を浮かせ、ぎこちなさを覚えながらも喜助の口許へと身じろいだ。そうして目を細め、首を垂らす。黒髪が彼の顔にかかり、邪魔にならないよう軽く揺らしてから更に近づけて。ふ、と瞑る。音も立てずに重なり合う唇。不慣れさが滲み出る歪な角度。愛の体現にしてはあまりに不恰好だった。

「……これでは、だめですか」

 伏し目がちに問う。顔が熱い、恥ずかしい。彼のようには上手くできないし、これが今の自分にできる最大の表現。魅了なんてできないし、それ以前に色気もないような口づけだけれど、あなたにしか見せない姿だから許して欲しいと小さく願う。

「……あー。駄目っスね、全然」

 先の願いは当然の如く砕かれて。真っ直ぐに跳ね返され、ひどい、という眼で喜助を見下ろした。

「あなたをもっと欲しくなってしまう、だから駄目っス」

 否、届いていた。おまけに彼の慣れた所作はまるで逆。保っていたペースはすぐに乱された。

「だったら、だめじゃないのでは……! なにも二回言わなくたって……!」
「だって常に誘ってるじゃないスか。それを余計掻き立てられたら、ねぇ」
「誘ってませんし、ていうか誘えてないです、私!」
「ほんとうに……あなたは危機感がなさ過ぎて困る」
「なんか最初の頃にも言ってましたよね、それ……」
「まあ昔に意図したこととは違いますけど、遠からずなんで同じ性分には変わりないっス」
「えっと、怒られてます? 私」
「いえいえそんな滅相もない。……ですが無防備なことに文句は言えませんよ?」

 喜助はふっと妖艶な笑みを向けてから後頭部を支えた。

「それってどういう意味、」

 訝しんだ直後、喜助はぐっと頭を引き寄せる。浮かせた上半身は再び彼の腕の中へ落ち、唇を絡ませられた。
 自ら重ねた口づけよりも更に深く。時に彼は喰むように荒々しく、と思えば優しく蕩けるくらいに吸って。喜助はあてがった唇を離すと、その口元は弧を描き緩やかだった。

「こういうことなんですが、そろそろ理解していただけましたかね」

 けろっと言い放つそれに一瞬声を呑んで、「わっわかりません……!」と喜助の頬を軽く抓る。「いたた、」言いつつも可笑しそうにする喜助に「いや絶対痛がってない」そう放って赤面を誤魔化すように膨れ面を晒した。なんて事ない会話、なんて事ない恋慕。きっとこれらが当たり前の日常になっていくのだろうか。未だふわふわとした空間の中で感覚を探っていた。
 そうして喜助の頬を抓ったままぼんやりと「……夢じゃ、ないんですよね」と声を落とした。

「そういうのは自分の頬を抓って言うもんじゃないスかね……」

 へらり苦笑する喜助は、抓られた手をとり、軽く引く。縮まった距離に鼻先がつんと当たって、喜助の前髪が顔を掠めた。ああまた唇を重ねる、と身構えた瞬間。すっと体を浮かした彼は、首を傾けて頬擦りをした。直前の予想に反して、頬へ吸い付く。

 ちゅっと湿った音を預けて離れていく。ちくん、残された刺激。頬に歯を立てられた気がした。
 ほんの少しだけ、齧られたような。その慣れない刺激にハッとして喜助を見つめれば、彼はしてやったりとでも言うように、にんまりとして。

「どうです? これで夢じゃないでしょう」

 愉しそうに訊く。じんと熱を帯びる頬っぺたも、緩む表情も甘い空気も、全て現実。こんな景色がこれからもたくさん作られていって、いくつもの季節を渡って、そしてあなたの傍で終えられるなら。喜助の問いに微笑んで「はい」と小さく首肯いた。

 ──これがずっとずっと、続けばいい、いつまでも続いてほしい。

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