§


「……んん、」

 寝返りを打つ。ここをどこか忘れているような上擦った声を上げるあなたと向き合った。重そうな目蓋を軽く擦り、薄目から覗く朧げな瞳。彼女が目覚めるより先に意識を起こした喜助は、さてなんて言って驚くのだろう、と心待ちに朝を迎えていた。

「……あ、れ。私……寝ちゃって。な、んで、隣に」

 え? と首を回そうにもうまく動かせないようなその所作に、思わずふっと息が漏れる。

「お、はよう、ございます……浦原、さん」

 ああこれは戸惑っているなあと目を細めた。それに「おはよう」とだけ囁き、困り顔を眺める。

「あの……腕、が、首下に。あと腰……」
「はい、敷布団も枕も不用意のまま深く寝られてしまって」

 代わりにコレで、と微笑めば彼女は瞬く間に頬を紅潮させた。すると気遣いながら「ええっと、重かったり、腕は苦しくないですか」と彼女らしい杞憂を重ねて、絆される。

「あー、少し痺れましたかね」
「えっ退きます。起きます私」
「それは困ります」

 身じろぐ彼女の腰をぐっと捕える。どうしても今この瞬間を、逃したくはなかった。
 あなたを抱く腕も、痺れたこの腕も。もう暫くこのままで居たいと思っては、慾深いだろうか。

「……では痛くなったら、言ってください……」

 俯き加減で告げるその表情はどうしようだとか緊張するだとか、そんな雰囲気を醸し出していた。
 その戸惑いを追うようにして声を被せる。

「あーそっスねぇ、なら貴女に言わないといけないことがある」
「……? なにか、どこか痛いところでも」
「ええ。……送り返してから長いこと痞えて痛かった、この奥が」

 言いながら、喜助は自分の胸元を指差した。そしてゆかが不思議しそうにそこへ視線を移す。急に何を言うのか、もしくは自分が胸を痛めていたなんて、彼女はそう思っているに違いない。いやそれも当然か。別れの日に一言も引き止めることせず送り出したのだから。

「すいません、自分でしたことを。今更吐くことではないですが」
「……そんな。浦原さんが感じていること、辛いのならその胸の内とか嬉しいことだとか、聞きたいです。聞いていたいです、全部」

 細やかな言葉。紡がれる一粒一粒が、すっと指差した先へと浸透していった。少しも痞えることなく。言下に喜助は辿り着いた。

 ──このヒトにならきっと、委ねられる。

 常に一視同仁に接し、過去に朽ち堕ちた苛責の念も、何てことなかったかのように掬い上げてくれる、あなたなら。

「はあ……敵わないですね」

 年甲斐もなく自嘲気味に堪えていた想いを曝け出す。ようやく踏ん切りがついたのかもしれない。いつも無意識に創り上げていた他者との壁も、踏み入る隙を閉ざしていた過去も。彼女はそれさえも感じていなさそうな振る舞いで、そのわだかまりを溶かしていく。

「ゆかさん、」彼女が寝ている間に考え、予め用意していた言葉の数々は、募る想いを前にどこかへ消えてしまった。ただ心任せに、今の心情を乗せるしかなかった。

「……こちらに戻って来てくれて、想っていてくれて、ありがとうございました」

 そう心からの御礼を告げると腰抱く腕が強張っていく。ぱちぱちと瞬きを重ねる彼女、暫くするとその瞳にじんわりと滲む光が見えた。

「試すようなことを、そう思ってくれても構わない。ただこうして、帰ってきたことが凄く、凄く嬉しいんス。……あちらが本来の場所なのに『帰ってきた』なんて聞こえが可笑しいですが」
「そっそんな、試すだなんて」

 またも贖罪にも近い後ろめたさを呆気なく取っ払って。

「私はただ、自分のことでいっぱいで。そんなことちっとも思いませんでしたよ。この場所に帰ってこられて、……本当に良かった」

 ──ああ、どうしてこんなに、自分の望む言葉をくれる。

 彼女を抱える腕は一層強くなる。迷いなくこの想いは進んでいいのだと諭すような答えに、細い体へ寄り縋った。そうして先ほどよりも近距離で顔を合わせ、秘めていた自責を吐いていく。

「……なのに昨日、酷い態度で接したこと。あれは謝らせてください」

 本当にすみませんでした、と彼女の苦悶を思い浮かべては懺悔した。言い訳などはしない、出来やしない。己の浅はかな疑念と何でもない男に対する猜みにも似た悋気。言葉にすることすら馬鹿らしかった。

「それも全然気にしてないですよ、逢えて真実を知ることができて……嬉しいばっかりで、」
「嘘を。無理に隠さないで下さい、ゆかさんはこういった時だけは素直にならないんス。あんなに泣かせて傷つかないはずがない」
「あ……え、と。あの時は……なんて言うか。なかなか自分に気づいてもらえなくて、こちらの私はあんまり歓迎されてないなあって」

 ほら呼び方も変わっちゃってたし、と苦笑する彼女の吐露を黙って聞いていた。

 ──違う、歓迎しない訳がない。あれは僕の未熟な決心だった。

 そんなことは発露できずに。彼女から紡がれる真意を逃すことはしたくなかった。

「……そしたら色々と思い出しちゃって。あ、だから私が感情的になっちゃっただけなんですよ」

 昔の彼女なら暗い影を落としていた表情も、今は呆れたように眉尻を下げるだけで。すかさずこちらに非はないのだと言い聞かせるような振る舞いに、正直嬉しいという情よりも、ああやっぱりこの女性なのだと確信に至れた。

「何度謝っても足りない」
「いえですから、謝る必要なんてないですって。だって本当の事が一つに繋がってわかったわけですし、それに、」

 彼女が首に敷かれた腕枕を柔らかく掴む。

「それにもう、この想いはきっと迷惑じゃないって信じてますから」

 告げた信念とは裏腹に、双眸の奥は憂色に満ちていた。『拒絶』が今の彼女にとって一番の恐怖なのだと、その目が訴えているようで。迷惑だなんて思わせたのは、彼女が紡ぎかけた想いを断ち切ったせいだ。それほどに自分が彼女にした事は酷い行いだった、と胸が抉られる想いだった。

「迷惑だなんて、それどころか」

 ──なんて告げれば、貴女の瞳に光を戻せるのだろう。

 どうにも眉間が疼く。このヒトを前にこんなに険しく悩ましい姿を晒したい訳じゃない。

「……どうかこれからも、隣にいてくれませんか」

 何百年と生きながらえて、好きなことばかりに没頭し、世界均衡と安寧を観測し続け、いつ間にかその景色に貴女が入っていた。真横に映る姿が朗らかで、いつしかそれが当たり前のこととなった。しかし。この女性は自分に最も近しい存在かもしれないと、そう気づいたのは非情にも別れ際で。そうして年数を重ね、遥か遠くまで過ぎ去ったあとに掘り返された想い。

 行き着いた先で抱いたものは『隣にいてくれさえすれば』という淡く脆い慾情だった。

「……い、いんですか、……私は」
「──貴女でないと」

 彼女が訊こうとしたことを瞬時に悟った。想像には容易い、何を問われても全てに答えよう。彼女が求めるのなら納得するまで何度でも。だが、ただ、今は。今だけは、伝えたいという我欲が先走って止まらなかった。

「貴女に、いてほしい」

 すると眦を下げて笑む。だがいつものように上手く笑えていない。くしゃりと歪む目許。逸らした視線へほろほろと粒が溢れ落ちていった。敷いた腕枕へその雫が伝うと、作務衣に深緑色の染みを増やしていく。それに気づいた彼女は咄嗟に指をあてていた。しかし擦れども擦れども止まることはなく。困り果てた末に小ぶりな掌でぐしぐしと拭い続ける。

「……ああも、すみま、せ、ん。止まら、なくって」
「あんまり擦っては、腫れてしまいますよ」

 恥ずかしそうに紅らめる姿に、自ずと触れていた。右手で頬を包み、ひと粒ずつ親指で掬うようにして。一緒になって涙滴を消せば彼女はまた、すみません、と緩やかにはにかんだ。

「はは、すみませんって言われると今度はボクが断られたみたいじゃないっスかぁ」
「これでおあいこっスかね」

 軽く冗談混じえると、ゆかは目を泳がせて「あっいえ、違う、断ってなくて、えっと」慌てて意思表示をし直す。

「……あの、こちらこそ……いさせて、ください」

 以前のように和やかに瞳を揺らす。それらは未だ潤んではいるものの、曇りのない澄んだ色をしていた。その直後、胸に宿る安堵の想い。喜助はこの安心感と共につい見惚れてしまい、堪えきれず、彼女の目許へそっと唇を添えていた。彼女をこれまでの忍苦から解きほどくように。流れた涙痕をなぞっては消して、小さく吸って、幾度か耳を掠める湿った音。

「っ、あ、わ」反射的に目を瞑った彼女は、驚いた拍子にぴくんと身を縮める。逃すまいと後頭部を支え、「こうしたかった、ずっと」赦しを乞うように更に腰を抱き寄せた。もっと近くに。いつまでもこうしていたいが、間近で彼女を感じると、なんて事ないことも綽々と振る舞えず。むしろ不得手になる。今はただの甲斐性なしも同然か。

「……ちょ、浦原、さん。朝から酔っ払いみたいに、急になん、」
「ええ酔ってますよ貴女に、随分と前から。わかりませんかね」
「っだ、だから、よくそういうこと平気で……!」

 紅潮する彼女。幾久しく、このままでいて欲しいと願った。こうやって囁き続けていたら、願いに反していつかは慣れてしまうのだろうか。いや、だがきっと、彼女なら時を経ても本然のまま在り続けるだろう。

「……やっと触れることが許されたんだ、何度だって言いますよ」

 ああ結局。悦ばせられたのは僕の方だったかと、昨晩の予想を覆しては幸福を噛み締めた。もはや論じる必要のないそれは、祝福として今この腕の中に。

 ──あなたがここにいる以上、迷うことも見失うこともない。

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