もう幾度唇を重ねたのかも、どのくらいの時間そうしていたのかもわからない。
 虚ろ目で喜助を見つめると、「少々、羽目を外しすぎました」そう笑って連続した行為を止めた。朦朧とする頭、体中にほとばしる恍惚感。止まってもいいと愛慾に任せた心臓は、終えるどころか動きを速めて打ち続ける。「はぁ」紅潮した頬で息をする間、喜助も珍しく荒れた呼吸を整えていた。

「あー、苦しかったっスよね」

 ぽりぽりと首裏を掻きながら苦笑する喜助に、いえ、と顔を横に振る。

「全然、苦しくなんか。……嬉しかった、です」

 ずっとずっと求めていた貴方とこうして居られて苦しいことなんかなくて。悦びしかなかった。
 はあー、喜助が俯き加減に溜息を吐く。

「……あんまり素直すぎるのも時に罪ってもんスよ」

 未だ滲む目尻、瞬きをする度に感じる湿り。
 彼の低音が心地よくて。聴き入っては、夢現に溶ける濁流から抜け出せないでいた。

「おーい! 店長ー! 客だぜー、きゃーくー!」

 現実に戻されるような大きな声が、廊下の遠く、店先から響く。久しぶりに聞くそれはジン太のようだった。
 今はその声色に懐かしむ余裕もなく、申し訳ないけれどむしろ残念な気持ちが募っていく。きっと彼は呼ばれて行ってしまうだろうから。

「はーい、今行くっスよー! ……と、邪魔が入ってしまいました」
「どうぞ、いってきてください」

 コクンと首肯いて、片膝立ての喜助を見る。

「すぐに戻ります。少しだけ待ってて」
「はい、待ってます」
「あと……みんなには後でボクから話すんで、ゆかさんは何も気にしなくていいっス」

 そんな彼の心遣いが温かかった。恐らく幽かに蘇りつつある霊力で魂魄が戻ったことは悟られているのだと思う。それすらもその先も、見透かした言葉はただただ優しくて。己に都合よくそう聴こえてしまうだけかもしれないけれど。よいしょ、と立ち上がった喜助が戸の方へ向かおうとした矢先、立ち止まってこちらを見下ろした。

「それじゃあ肌寒いでしょうから、これ被ってて下さい」

 バサっと肩の上から被せられたのは、彼が着ていた暗色の羽織り。

「あっありがとうございます」

 初めてのことで戸惑う、驚喜して戸惑う。落ち着いたのはほんの一瞬だけで、またばくばくと鼓動が跳ねた。

「じゃ、行ってくるっス」

 大きな掌が頭のてっぺんに乗る。昔みたいにくしゃりとひと撫でされて、頬が緩んだ。
 すると。口元にゆるりと弧を描いた彼は素早く屈んで。ちゅ、至近で響くリップ音。軽く触れるだけの口づけを唇へ落としてから、出て行った。

「…………」

 あまりにも自然にその行為をしていくものだから、唖然としたまま独り残された。以前接していた頃とはかけ離れた行動の数々に慣れない。頭が現実に追いつかない。

 けれど嬉しい気持ちには変わりなかった。心底、嬉し過ぎた。またこの感情に触れることが叶うなんて、悲嘆からの一転。天にも昇る心地。一度開かれたパンドラの匣には幸せが詰まっていた。開けてはならないと思っていたそれは煌びやかで。奥まで覗くと、匣の底に残るひとつまみの砂金。取り出してみると大きくて、ああこれは宝匣だったと、この悦びに満ちた美果を噛み締めた。ただ独りでいると、ぼんやりとしてしまって。至福の飽和状態が続く。

 かちこち、とくとく。壁掛け時計と一緒に踊るような自分の心音だけが鼓膜に響いた。
 訊きたいこと、確かめたいことがいっぱいあったはずなのに、そんなことは一瞬で塵と化し。今の自分に理性なんて働きやしない。うるさかった鼓動もやっと落ち着いたかなと思ったら、肩にかけられた羽織りに喜助の温もりを感じてしまい、眩暈がしそうになって。充満していく彼の香りにあたって卒倒しそう。ああもう、感情の振れ幅が忙しくて、怖い。

 ──現実、だよね。こんなに嬉しくっていいのかな。

 収まらないくらいの幸福感に不安を抱く。好意の享受。自分がこんなに受けて良いのだろうか、なんて。おまけにこれまでは堅く誠実に接されていたのに、今では似つかないほど大胆な行動を喜助から示されて、思い返すだけで小っ恥ずかしくなる。

 ──喜助さん、すごく……慣れてたなあ……。

 まだ余韻が残っているせいでこんな感想を抱いてしまって、ぐるぐると自己嫌悪に陥る。あの行為を『羽目外し』だけで片付けるなんて何百年も生きているとこうも違うのか。ほんのりと心が陰るも、仕方ないよねそれだけ想っているのだから、と開き直った。

 そうして悶々としたまま体をこてんと横に倒した。悦びに不安感を覚えたのは最初だけで。終いには両頬を溶かすようにニヤつかせていた。きっとこの表情はマタタビに善がる猫のようだと思う。もう考えるだけで嬉しくて幸せで。愛おしい香りに包まれたまま、目蓋を下ろした。

§


「はぁい、終わったっスよん」

 ただいま、と。駄菓子の商いから戻って来ると、彼女は被せた羽織りにくるまり横になっていた。

 さっと駆け寄る。屈んでから耳元へ「……ゆかサン、」と囁くように名を呼べば、すうすうと眠っていただけだった。

 ──……また、何かの拍子であちらへ戻ったのかと。

 そんな筈はないのに。魂魄移動なんて装置も条件も揃っていなければそうそう起こるものではない。解ってはいるのに、もしもが一瞬でも頭に過ぎった途端、体が動いていた。胸中ほっとした喜助は彼女の隣に腰を下ろし、手枕で横になる。ふと蘇る懐かしさ。最後に見た彼女の寝顔は、元の世界へ送り届けたあと、入れ替わる直前の一瞬。眠りというより、別れたあとの一筋の雫が印象的だったことを、記憶の奥底から引き摺り出した。今、映る先には。猫のように丸くなりながら寝息を立てる姿。いやぁこれはずっと眺めていられるな、と目を細めた。

「……無防備すぎやしませんか……」

 時折すりすりと脚を擦り合わせているところから、寒いのだと気づいた。陽はすっかり落ちて辺りは暗がりだ。喜助は自室の押入れから掛け布団を取り出して、羽織りの上からかける。渡したそれを剥ぎ取ってしまっても良かったのだが、彼女が大事そうに布地をぎゅっと掴んでいたのでそのままにした。

 ああ、このまま。自分も布団に潜り込んで目覚めを迎えたらどうだろう。どんな風に驚いて、どんな風に悦ぶのだろう。計り知れぬほどの忍苦を与えてしまった分、彼女には朗らかな想いで在ってほしい。そしてその笑みの側で。

 ──……ただ、あんな風に戻ってくるとは、思わなかった。

 戻ってくる可能性はあった。だがその明確な時は不明で。
 戻らない可能性もあった。発動条件が未確定なゆえに。
 思念の欠片が双方に留まり、かつ今尚強力でなければならない。もちろん、選択をした前提で。つまり最終的にそれらは、彼女の決断に委ねられていた。回想し始めた喜助は疼く眉間に皺を寄せ、あの時の身の振りを思い返していた。

 異変の時は夕刻。柔らかく懐旧的な霊圧。よく憶えているそれが、脳髄を掠めた。微量ながらもその痕跡を感じ、すぐ店先まで飛び出した。表へ出るまでは早かった。だが直後、急に、戸惑いに気後れを覚え。怯み、戸を開けたまま足が止まった。その時が来たら迎え入れると、固く覚悟を決めていたのに。彼女は本当に望んで戻って来たのか、ただの気の迷いならばそれを受け入れていいものか、己の未熟な決心が揺らいでいた。

 疑心暗鬼のまま霊圧の方へ赴けば、其処は商店近く。路上の電信柱に背をもたれて座り込む彼女がいた。何故こんな処に、と驚くも答えは容易かった。予め可能性の話を告げていたもう一人の女性を思い浮かべ、──ああ。入れ替わる直前まで。まるで性格の同じ彼女が頑張っていたのか、と。恐らく。体に異変を感じ始めた女性は、不用意に身一つで飛び出し、何を思っていたのかは不明瞭だが商店近くまで転がりながらも辿り着いた……と考えるのが妥当か。身を挺する行動は献身でも犠牲でもなく。自分たちを一番に引き逢わせるための、あの女性の最後の思い遣り、とでも言えようか。今となっては真意を確かめる術もないのだが。

 ──……いやぁ、あれで魂魄はボクらを知らない全くの別人なんて言うんですから、こっちの身にもなって欲しいっスよ。

 ところが。いざ近くへ歩み寄ると、自分がその場へ辿り着くより先に、通りすがりの郵便配達員が立ち止まり話しかけていた。喜助はあの状況を振り返りながら、すやすやと眠る彼女を見つめる。

 ──貴女は危機感が無さすぎる、本当に昔から。微塵も変わらないほど。

 変わらないことは喜ぶべきこと。にも拘わらず時折り心の奥底で黒い感情が淀む。
 その二人の間を別つように入り、適当なことを並べて配達員を退かせた。対面した彼女は意気銷沈したように憔悴し、目も虚ろ。酷く、酷く、辛そうだった。直後、目前の自分を認識したのか。次第に瞠目していく様相に、小刻みに震わせる薄い体。恐らく意に反して想い出してしまった瞬間から、あまり時を経ずに移動したのだろう。泣き腫らしたのだろう。
 独りで、想いの全てを抱えては吐き出せずに。

 ──故意に当たりを強くして、悪いことを。

 あの時。彼女の意志を確かめる必要があった。一時の気の迷いなら、誤った選択をしただけなら、戻すと。さらに輪をかけるようにして善人へ抱いた煩わしい悋気。沸々と湧き上がっては澱み、態度も口調も粗悪になった。

 ──……あの涙だけは見るに耐えられなかった。

『違うんです』と懸命に声を振り絞った彼女。ぼろぼろと溢れていく姿に、降参するしかなかった。胸中で首を垂らしながら、これまで紡ぐことのなかった彼女の名を呼び、迎え入れ、──こうして今、この場所に至る。些か度が過ぎたであろう、己の慾を押しつけた行為も、彼女を前にもうどうでもよくなってしまった。ようやく辿り着いた終着点。喜助は幽かな吐息を洩らした。

「これが、僕にできる最善でした」

 数年前の様々を想い返しては、深く眠るその横顔を眺めて。心惹かれるままに、ぽん、と黒髪の上に掌を置いた。指先に触れるそれは絹のように滑らかで。以前、別れ際に彼女が自分の髪へ手を伸ばし告げたものが心に響く。『柔らかくて、きれいで、蒲公英みたい』ふと心重ね想う。
 ああ彼女を喩えたら何と言えよう。そういったセンスは微塵もないな、と口許を緩めながら喜助は布団をかけ直す。自分も手枕を解き、向かい合うように同じその中へ包まった。

 布団の中は彼女の温もりで充満している、あたたかい、心底、あたたかい。遠い過去、儚い幻影だろうと決め込んでいた情景が、目の前に広がる。ああもう夢ではないのか、と胸を撫で下ろし。この現実を享受しては、心に佇む彼女へ問う。

 ──幸福をもたらすことはできたでしょうか。これであなたが幸せなら。
 ──それが僕の悦びであり、福でもあり。

 不確かで不可視なもの、どうかそうで在って欲しいと願った。戻ってきてから涙ばかりを流させて、笑みを引き出せていない現状を心苦しく思いながら。

 ──……さて。起きた何を告げようか。

 まだ告げていない言葉たちを脳裏に浮かべては、何から伝えようか頭を捻らせた。以前に較べたら何とも幸運で贅沢な悩みなのだろう。喜助は布団の中でそっと片腕を回し抱く。ここにあなたがいる、その悦びを肌に感じながら目を閉じた。

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