§


 ちょんちょん、と。膝からすねにかけて当てられる脱脂綿。喜助は染み込ませた消毒液で簡単な処置を施していた。畳の上で擦り傷だらけの両脚を投げやる姿は、自分から見ても痛々しい。

「……っ、」
「すみません、しみますか?」
「あ……いえ。大丈夫、です」

 吐いたのは単なる強がりではなく、戸惑いに羞らい。それらが重なって遠慮がちになる。その上、直前まで受けていた態度も未だ気がかりに。そもそも何故こんなにも傷を負っているのか、なんて疑念すらも口に出せず、困惑の渦に巻かれていた。

「思い返せば、出逢った頃からアタシが手当てしてばかりで」

 不意に振られた当時の話に、「そう、でしたね」と笑みなく返す。

「……どうして戻ってきたのかわからない、って顔してるっスね」

 彼は乾いた声で、ぺたぺたと傷口に絆創膏を貼っていく。その様子を見守りつつも、素直に首肯くことはできなかった。何故ならその答えは自分の中で解決している。恐らく自らそう望んだからだと。戻りたかった、などと身勝手な願いを求めたせいで。心地の良い欠片を想い出してしまったがために。

 ──それは多分、あなたの存在を、私が望んだから。

 想いを馳せて、ここへ戻ってきてしまったのだと。でもその本質的な理由はわからない。どうして願っただけで戻ってきたのか、そんな超現実的なことなど。すると喜助は「ええ」とそれすらも察していたかのように紡いだ。

「貴女の想いで発動したんです。間違ってないですよ、アタシがそれを利用したんですから」

 内に秘めた回答も彼には見透かされているようで。読心に長けた言い方、裏に何かを含む言い方は懐かしい。けれどその真意はさっぱりだった。

「……利用……」

 ゆかはようやく視線を上げて、喜助の放った単語を返した。

「アタシは貴女が気にかけた想いには残留思念があるかもしれない、と想定していました。確信はありませんでしたが」

 彼は独り言のように理路整然と口火を切る。だが、抱いた疑問を解消するには程遠く。やはり小難しい話で、専門用語のような聞き慣れないそれに深く眉根を寄せていった。

「……えっと、その思念ってなんでしょうか……浅識で……」

 喜助は畳に置いた消毒液へと目を落とし、手早く処置を進めていく。敢えて顔を背けているような、それは気のせいなのか。ただこちらとしても、交わらない視線には正直助かった。顔を見合わせて話すには声が思うように乗らず、どこかぎこちない。

「残留思念とは、人がなにかに想いを馳せたり願ったりすると、その強力さによって感情や思念がその場に残留する、と考えられて生まれた言葉です。その念の善し悪しに関係なく」
「そういったものが、あるんですね」
「科学的に考えれば、随分と滑稽に訊こえるかもしれません。その残留思念にはなんの確証もありませんから。ただ、現世では魂あるものは全てその是、と唱えるヒトが多いようですが」

 喜助は処置を施しながらふっと目を細めた。優しげに緩む彼の口許に、とくんと鼓動が響く。

「つまり。……私の想いがこちらに残っていたんだろう、と」

 一人納得するように結論を零した。そしてその意味を自身の中で咀嚼し終えると、羞恥に塗れた事実を突きつけられたことに気づいた。これでは自分が喜助を想うあまり、その思念が色濃く残ってしまったと言っているようなもの。
 咄嗟にその感情を隠すように、
「だ、だとしても。あっちにいた頃、だんだん記換神機が効かなくなって、それは──」
 と長い月日をかけて掘り起こされた事象を告げた。

「はい。そう成るかもしれない事も、全て知っていました」
「え、知ってたって」

 こちらの動揺は、喜助の落ち着き払った声によって掻き消された。

「実は、記換神機には原因不明の脆弱性があるんス」
「脆、弱性、ですか?」
「……それは以前。井上サンが自身の力に目覚める前まで遡ります。昔に黒崎サンの死神姿や彼女が負った傷の記憶を消したことがありました。同じく、その場にいらした御学友の方の記憶も」

 言下に回想したのは、一護がまだ死神代行になりたてだった頃。途端に、ある場面が閃光の如く浮かんだ。

「……たつきちゃん。織姫ちゃんの部屋で」
「ええ、やはりご存知でしたか。そして直後、記憶が戻りかける事態が発生しました。その後にも何度かありましたが……例として、それが今言った脆弱性っス」

 ああ、そんな描写もあったような無かったような。うろ覚えに思い返すも、こちらとしてはそれが重要な起因とは到底思えなかった。なぜなら彼の言うその脆弱性は『事実』として言及されず、注視すらされていなかったからだ。

「その反応から察するに、事実以外のことはあまりそちらで語られていないようっスね」
「あっ、はい。でもそれが、どうして……?」

 点と点が繋がらず解せない。仮にその脆弱性があったとして残された思念とどう関係があるのか。訝しげに訊ねると、喜助は視線を落としながら、予め言うことを決めていたかのように答えた。

「その欠陥を知っていながら、いつかのために少しだけ細工を重ね、先に言った残留思念を利用した。貴女がいつ想い出しても、ご自分で選択できるように」
「ちょ、な、何言って、」

 それって──。自分のような単純な頭では、勘違いをしてしまう。
 その言い方だと全てを知っていながら、彼自身が起こした行動は昔からすでに決められていて。

「……ですから、ゆかさんはアタシに再び逢うことを選んでくれたんスよね? 彼方に留まることもできたのに」

 帽子奥に潜む眼光。儚げな問いと共に、互いの視線が交差する。
 つまり、彼はあの瞬間から、巡り逢う選択肢を含ませていた。ただ自分が願わなければ魂魄移動は引き起こされなかったと最初の話に戻った時、乾いた声で芽吹く想いを隠した。

「はは、うそ、そんなこと、いやいや。……うそだ」

 いやだって、あなたは、そんな──。唇を震わせながら頓狂な声が洩れた。頭では彼の言わんとしたことが解っていたのに、認めることを避けた。自分の知っている『浦原喜助』はそんな行動を起こす人じゃない。彼は感情的になることを心底嫌うはずだ。昔あちらで見た時には、チャドの仲間意識を感情論だと一蹴したこともあった。自分との最期の時だって、こちらの手前勝手な告白を拒んで冷静に対処した男だ。だからむしろ、彼の言葉を鵜呑みにしてはけないのだ、と。

「信じられないことは、百も承知です。ですが、」

 発せられるごとに息を潜め、凝らした。期待だとか、そんな慾は自然と湧き上がることはなく。信じ難い事実に首を横へ振ったまま堪え続けた。

「これが本当なんです、全て」

 その声は酷くか細く聞こえた。それでも整理のつかない意地っ張りな脳は、受容してくれなくて。

「……あの時の言葉を返すなら。貴女には誰よりも幸せになってもらいたかった、幸せに過ごしてさえいればそれで」

 彼の信念は世界均衡だけだと思い込んでいた。まさか自分のような人間の幸を願う、など。
 そんなこと一言も口にしなかった彼が。
 突然の、思いもよらぬ驚喜を抱いた。それと同時に、頑なな理性がその感喜を抑え込んでいく。

「あたしにはこうする他、手段が浮かばなかった」

 怪我の手当てが終わり、パタンと救急箱を片す音が二人の間で響く。

「……私は……なんて」

 ──ことをしてしまったのか。小声を震わせて出たそれは自身への咎めだった。

 安易に願ったことへじゃない。それ以前に彼の尽くした策は自分のためという真実。それほどに彼の信念を捻じ曲げてしまった、と思い至るのは自惚れた自己陶酔なのか。

 ──違う、本当はそんなことを吐きたかったんじゃない。

 けれど自分は終に介入してはならない領域まで踏み入れてしまったのだ、と理性が信号を発していた。

「情なんてものは他人が決めるものじゃあない、と考えていた節がありまして。貴女を戻したあと……色々とまあ思慮はしましたが」
「……浦原さんは……もっとずっと賢いと思ってました。もちろん別の意味で、です」

 ──ああ。まただ、本当はこんなことを言うべきじゃない。

「ええ、ホント馬鹿なことをしたと思いましたよ。何度も何度も。こんな簡単な答えをいつまでも出せないなんて」

 笑っちゃいますよ、そう零す声音には冗談めいた色どころか自嘲すら感じられなかった。
 まさかどうして、そこまでのことをこの人が。感情論を嫌厭するはずの彼が。そう考えれば考えるほど、自分の目が次第に見開かれていき、声を失っていく。

「……想い出すことが何年先だろうと。何十年、──いえ肉体を離れ、魂魄になろうと。いずれ貴女が全てを想い出し、ボクを選んだその時にはその選択を迎え入れる、そう決めていた」

 悪い冗談ならよしてよ。叫びたいのに、その声はちっとも笑っていなかった。彼の性根は、視て接して傍にいて理解している。彼の言い分を無理にでも咀嚼せざるを得なかった。

「身勝手だとは解っています」
「ほ、本当の本当に最初っから、全てあなたの意志で」
「貴女に納得していただけるまで何度でも言いましょうか」

 帽子から覗く喜助の鋭くも煽情的な双眸が、この困惑に満ちた目を捕える。
 尖った低音に返せないでいると、彼は返事を待つことなく「ただ、」と重ねた。

「こうして戻ってきた今。そんな御託は、もうどうでもいい」
「……っ、……」

 音にならない声を落とし、両手で口を覆った。これは双方の想いの成すままに開かれたパンドラの匣。それはやがて犇めく咆哮となって、ぼろぼろと溢れ出て。一度、箍が外れたら止まらない。

 ──……そんな。浦原喜助という人は、決して。

 未だ彼の言葉を認められない頑固な頭が、認めたくて仕方ない情の前に立ちはだかる。勇気が出なくて心がすくむ。口許を覆った指先が震えて。これが悦びからなのか、恐れからなのか、感情の行き先がわからなくなっていた。

 何も返せないまま、数秒──。喜助は徐ろに片手で帽子を外す。
 ぐしゃりと握られたそれと一緒に頬が包まれると、遮る両手を優しく解いていった。まるで感情を隠すなと諭すように、彼は目を細めながら。その掌によって首の自由がなくなって。ぐっと視線を上げさせられた。これでは何も動かせない。言い訳を重ねて逃げることすらも。いや、もう逃げる必要も隠す必要も無くなっただけかもしれない。大粒の涙滴は驚いたかのように引っ込んでいく。

「ゆかさん」呼んで欲しかった名を、切なげに呼ばれ。
 掴まれては身じろぐことも、視線すら下げられず「は、い」と弱々しく返した。
 先ほどと違って隠すことなく露わになる喜助の顔。
 まじまじと見るのはいつぶりだろうか、この僅かに翳る、薄琥珀の珠を。

 どこか辛そうに顰められていく彼の表情に、時が止まったような錯覚を視た。けれど無論そんなことは起こらずに、ゆっくりと近づいてくる。

 ──ああ。このまま、隔たれていた時が流れていく。

 求めていたひとがここにいるんだ。もうこの思慕は誤魔化せない。いや、誤魔化したくない。頑なに認めようとしなかった頭は次第にぼんやりとして、この現状を受け入れ始めていた。

「引き返すのなら、」

 そう小声で紡ぐ喜助の唇に目を奪われて、思考が停止して。

「今ならまだ、間に合う」

 やっと想い出して、慾塗れに願って此方へ戻ってきたというのに今更そんなことを。これも彼なりの優しさなのか、それとも互いを別つ最後の予防線なのか。

 喜助は抑えた声量で選択肢をくれるも、断る隙など与える間も無く、さらに顔を近づけて。

「わた、し、は」

 幽かな声で意思表示を試みようとした。が、迫り来る彼の儚げな表情を前に何も告げられなくなって、頭が真っ白になって、音は消え失せ──。

 口許に浅い吐息を感じると、つん、と彼の鼻先と自身のそれが触れ合う。同時に自ずと瞳を閉じていった。一度進み出した針に逆らうことは、もうしない。そして。これが自分の、互いの答えだと言うように、唇を重ねた。ようやく動き出した時を味わうように、欠落した過去を埋めるように。声を紡ぐよりも先に重ね続けていた。求めるがまま身を任せて、何度も、何度も。

「っ、んっ……」

 繰り返される鮮烈な刺激。目前の存在を確かめ合うような口づけは熱く濃く、この脳を着実に溶かしていった。最初こそちくちくと痒みを伴ったこの無精髭も、感覚が麻痺したように全身が彼の虜になっていく。

「……最後に情けばかりの意思を問いましたが、もう遅いんで」

 その言葉に薄っすらと潤んだ瞳を向けると、喜助も薄眼を覗かせる。

「あ……」その声に呼応しなければと。離れた隙に薄く口を開き、はあ、と幽かに息を整えようとするも、再び押さえつけられるように塞がれた。
 啄ばまれながら「ふ、」と洩れる嬌声にも似た気息。二度三度離れたと思えば、息継ぐ間もなく吸われ、何度も奪われる。ああ、こうも簡単に満たされていく。まるで空っぽだった傀儡の器にありったけの幸福が注がれていく感覚。喜助の胸板へ添えた手。うまく力が入らず、この行為を受け入れるしかなかった。むしろ、乞うようにして。否応なく触れた手は、縋るように作務衣の襟を掴む。

 互いに薄眼をちらつかせては、どちらからとも無く身を寄せて、を幾度となく。
 同じ場所に居ることを喜び合いながら、それでいて探しているような。もうこのまま時が止まればいい、この瞬間のまま止めて欲しい。もしこの世界に神さまがいるのなら、こんな煩悩塗れのお願いを聞いてくれるのなら。

 ──私、このまま心臓が止まってもいい。

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